第29話


『シャールカ。忘れるな』


あの日。広い背中の向こうで、彼女の父は言った。


『お前の肩にはいつだって、守るべき者がいる』


これは、シャールカの父が会談の際に言った言葉だ。相手は北クルカの役人で、彼らの貿易拠点を作るために住処の立ち退きを迫られていた。



そして同じ時、同じ地に降り立つ人物がもうひとり。


『殿下。こちらに』

『ええ』


遮蔽物のない草原を、暖かな光風が通る。風に合わせ、美しい銀糸が煌めいた。


その日、エリアスは北クルカ側の役人として現れた。おおよそ10年前の出来事である。






『閣下!』


真夜中の屋敷内に、ツィリルの声が響く。その声と足音は緊張と焦りを含んでいる。先程、この離れから轟音を聞き付けた為である。エリアスの護衛は部下とあちらの国の者に任せ、警戒しながら様子を見に来たツィリルはバルトロメイを見つけた。


『まさか、曲者ですか!?』


離れの廊下、壁の損傷を見て息を呑む。だがしかしより衝撃的な光景が、彼が手に持つ明かりの中に浮かび上がった。


『平気だ。何でもない』

『っ!?』


頭からだくだく血を流すバルトロメイの姿だった。ぎょっと目を剥くツィリルに対し、彼は至極冷静に言葉を返す。


『少し血を抜きたかっただけだ』

『血を…!?で、ですが、』

『何でもないと言っている』


壁に大きく空いた穴に、バルトロメイの額から流れる血。明らかに何かしらの事件があった後だ。けれど事情を知っているであろう当人からそう言い切られてしまえば、彼はもうそれ以上は何も言えない。


これが昨夜の真夜中に起こった出来事である。全ての原因になったシャールカと言えば、夢の中で作った参号機の出来にすっかり満足し、規則正しい寝息を立てていた。



「……」


そして現在、全てを察してしまったヨハナは、背中から大量の汗を流していた。


「諸事情で、エリアスとは一時期共に暮らしていたのです」


机を隔てた目の前にはシャールカの姿。長椅子に座りながら、彼女は自身の主人に事の顛末を説明する。


「我らが故郷を追われ逃げる際、北クルカで迎え入れてもらえるよう取り計らってくれたのも彼でして…私達の恩人ですね」

「昔の恩を返しただけですよ」


彼女のすぐ隣に並んで座るエリアスが、言葉を挟む。続けて思い出を口にした。


「昔は楽しかったですね。貴女の父と私と、3人で旅をしたこともありました」


美しい表情で微笑む。隣に腰掛けるシャールカの顔を覗き込み、その頬に手を伸ばした。


「シャールカ。今日は以前のように、一緒に寝ましょうか」


瞬間、和気あいあいとするこの場には似つかわしくない、みしりと言う音が鳴る。それには気が付かず、シャールカはぴしゃりとその手を叩いた。


「まあ!私をいくつだとお思いですか。もう子供ではありません!」


そう拒否をしながらも、彼女の顔には喜びが浮かんでいる。当たり前だ。家族同然の男に国を隔て再会できたことは、奇跡に近い。そしてそれは、他ならぬエリアスも同じだった。


彼女にぴたりと寄り添い、何でもないことのように平然と触れる。家族にしても近すぎる距離感は、彼の優雅な仕草を持ってしても誤魔化されはしない。


「……」


そしてヨハナと言えば、ちらりと自身の隣に視線を移す。


(確かにコゼル様はずっと、シャールカのことを捜されていたのだもの…少し過保護気味になってしまうのも仕方ない…仕方ないんだけど…)


問題は、先程からその光景を目の前にしているバルトロメイの方である。再会の抱擁を見てからずっと、彼の体を包む空気に色を付けるとするならば黒、真っ黒である。無表情で籐の椅子に腰掛ける姿だけを切り取れば至って冷静だが、みしみしと悲鳴を上げる椅子の持ち手と、立ち上る殺気は部屋の温度を急激に下げている。


(め、めちゃくちゃ怖い…)


「しゃ、シャールカ。再会ができて、本当に良かったわ。本当に良かったんだけど、アンタの風邪治りかけだし、そろそろ…」


隣からの圧により既に瀕死のヨハナが、そっと事態の収束を図る。折よくシャールカをくしゃみの波が襲った。口元を両手で覆いぶしゅんと音を立てた後、顔を上げる。


「ヨハナ様の仰る通りです。病でお休みを頂いている身ですから、皆様のいるお部屋に長居するのは禁物ですね」

「ああ。道理で、顔色があまり良くないと思いました」


言いながら、エリアスがシャールカの顔に触れる。その瞬間、バルトロメイが掴む木製の持ち手がばきりと鳴った。彼の握力と怒りでいよいよ砕けたらしい。ヨハナがそう察している中、エリアスは呑気にもシャールカの額と自分のそれをぴたりと付けて体温を測る。


「熱はまだありそうですね。明日にでも、ゆっくり話しましょう。今日は休んでください」


言いながらシャールカを立たせる。赤い瞳がヨハナを見た。


「ヨハナ様。申し訳ありませんが、どうかこの子に付いていてやってくださいますか」

「え、ええ…」


指名を受けたヨハナも立ち上がる。このまま部屋を出て行くのはとても不安。不安である。何せエリアスが人払いをした為に、彼の護衛や他の兵士は部屋の外だ。握力だけで椅子の持ち手を粉砕する兄と、密室にふたりきりにしなければならないわけで。


(さ、殺人事件が勃発したらどうしよう…)


それでも依頼を受けた以上は、場を後にするしか無かった。



そうしてふたりが出て行った後。扉が閉まるのを待ってから、エリアスはバルトロメイに向き直る。


「クルハーネク閣下。この度の一件、素晴らしい護衛の任と共に感謝致します」


彼の形の良い唇からは礼の言葉が紡がれる。けれどバルトロメイはそれに対する返答をしなかった。ただ静かに、一言だけ聞いた。


「…いつ、気が付いた?」

「……」


シャールカが風邪のために離れに居たことは偶然だったが、エリアスが離れに行ったことはそうではない。

先刻、一瞬の隙を突いてエリアスは消えた。自分の国から連れてきた護衛さえも振り切り、彼は離れへと向かったのだ。


「…勝手に家捜しをするような真似をしてしまい、失礼しました。貴方が金糸雀人の使用人を抱えていることは小耳に挟んではいましたし…それに、あの子のくしゃみは、可愛いので」


そう言ってエリアスは微笑む。


「実際、彼女と再会ができると本気で思ってはいませんでした。この目で見るまでは、確信も何も無かったものですから。…無事で、本当に良かった」


最後の方は半ば、独り言だった。自身に言い聞かせるように呟く。膝に置いた手は、僅かに震えていた。


「……」


その姿を純黒の虹彩に映しながら、バルトロメイは一度瞬く。彼の様子から、エリアスがほうぼう手を尽くして彼女を捜していたことは見て取れた。生死も分からぬ人間ひとりを、周囲に隠しながら捜し回るなど相当骨が折れたに違いない。期待を裏切られることも多くあっただろう。今回も小さな望みにかけて、その足で彼は屋敷の離れへ向かったのだ。


「クルハーネク閣下」


となれば、切望していた人物を見つけた今、彼が黙って国へ帰る筈はない。エリアスの顔から表情が消える。深紅の瞳がバルトロメイを見据えた。


「シャールカを買うのに、いくら出しました?」


そう質問はしたが、返事は待たない。机に手を付き身を乗り出す。真っ赤な眼光が強く光る。


「その倍は出す。あの子を手放せ」


春の柔らかな陽気が一転、ふたりの間を肌を刺すような緊張感が支配する。

やがてバルトロメイは静かに、けれど毅然と言い放った。


「断る」


予想はしていたのだろう。エリアスの表情は変わらない。それをじっと見ながらバルトロメイは、最も気になっていた質問をぶつけた。


「何故、準国民だった?」


その一言に、エリアスの眉がぴくりと動く。バルトロメイは先を続ける。


「シャールカの一族のことだ。『南の遊牧民が国境へ入った為にこれを準国民として扱う』。俺はその文書を見た。何故“準”だった?お前の力ならば正当な国民にできただろう」


他国の事情だ。バルトロメイも多くは知らない。けれど理解していることもある。「国民」と「準国民」は違う。受けられる待遇にも得られる権利にも明確な差がある。常人よりも下の身分は、時に差別の対象にさえなり得るだろう。


「俺はシャールカの、瑞での戸籍を得るつもりだ。お前には、渡せない」


はっきりと言い切る。


「…貴方は、あの子が人権さえ獲得できれば、全てが丸く収まるとお思いなのですね」


すると、エリアスが何かに気が付いたように目を細めた。そのまま、馬鹿にするような笑顔で微笑む。


「後ろ楯や国籍を宛がい居場所を作れば、あの子が幸せになれると?」


鼻を鳴らして笑う。ひとつ大きく身を乗り出して、バルトロメイの耳へと口元を近づけた。


「無知で、傲慢で、愚かな考えです」


囁くように言い放ち、立ち上がる。さらさらと衣擦れの音が鳴った。


「貴方、俺が嫌いな男に似ていて、腹が立ちます」


そう吐き捨て、扉に向かって歩いて行く。背中を向けたまま、ひらりと手を振った。


「抵抗したいのならどうぞご自由に。貴方から取り返すのは、さほど難しくはありませんから」


出て行く。扉を閉めたところで、自国から連れてきた従者に声を掛けられた。


「殿下。国王陛下から伝令が」

「そうですか。今行きます」


彼らを引き連れ歩き出す。靴がこつこつと鳴る。そして渡り廊下まで辿り着いた時に、ふと足を止めた。


「殿下…?」

「……」


部下の声も無視をして、ただ春風に当たる。陽の光をはらんだ暖かな風は、髪を靡かせ頬を撫でる。


陽射しの下、強い風を受ける度に思い出す。10年前。彼の生涯で――最も幸せだった、あの一瞬を。






『土地も住居も用意します』


会談用に急遽設けられた天幕の中で、エリアスはそう提案した。最大の武器でもある美しい微笑。全身から立ち上るのは、確かな自信だ。


10年前、まだ若い年齢ではあったが、当時のエリアスは今とは違うあるひとつの目的の為に、奔走している最中だった。彼の外交手腕は既に確立していたと言っても過言ではない。若造だと舐めてかかり、返り討ちにされた者は数知れず。当時の自分は最も勢いがあったと、後から思い返してもそう自負している。


『貴方がたのご返答によっては、我が国に迎え入れることもやぶさかではありません』

『我らのことを国民として受け入れると?』

『ええ。今よりずっと、良い生活をお約束しますよ』


相手の望む条件を並べ立てて、にっこりと微笑む。


『無知で、傲慢で、愚かな考えだな』


その笑顔の上に突然、辛辣な言葉は落ちた。途端に空気が変わる。


『…何ですって?』


貼り付けたような笑顔のまま、エリアスが視線を移す。顔を向けた先には男の姿。傍らには小さな少女もいる。エリアスにとってはこれまで何百人と相手にしてきた、交渉相手の一部に過ぎなかった。ただ、金の髪と碧色の瞳だけは、少し珍しく思った。


白の混じる髪に目元にうっすらと刻まれた笑い皺。けれど伸びた背筋や大きな体格からは未だ前線に立つ者であると感じさせる。彼は静かに言った。


『後ろ楯や国籍を宛がい居場所を作れば、俺達が幸せになれると。本当にそう思っているのか?』

『…貴方がたの意見など、関係がないのですよ』


そこで初めて、エリアスの表情から笑顔が消えた。


『私の名はエリアス・コゼル。いずれ北クルカの王になる男です』


足を組み仰け反る。そうして彼は、天からの言葉を落とした。


『その私がわざわざこの地に足を運んだ意味を考えて頂きたい。と言っても、地を這い廻る貴方がたごときにご理解頂くのは土台無理な話でしょうが』


わざとらしく息を吐く。柔らかな物腰が一転、その瞳は冷淡に光る。形の良い唇からは低い声が漏れた。


『お前達に都合の良い条件を提供してやろうと言ってるんだ』


そうして、息を呑むほど端正な顔立ちを歪ませて、エリアスは言い放った。


『黙って俺に、従え』

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