第28話
「閣下。交代の時間です」
月明かりが照らす屋敷内。エリアス・コゼルが就寝する部屋の、出入り口のすぐ近くに立っていたバルトロメイは、その声に顔を上げた。目の前には同じ任に就いたツィリルと他の兵士の姿である。簡単な連絡事項を伝え、警備人員の入れ替えを行う。
「どうぞゆっくり、お休みになってください」
「ああ」
部下から掛けられたのは、労う言葉。それに肯定の返事はしながらも、バルトロメイが向かった先は自室ではなかった。
離れの廊下に立つ。目の前の扉を控えめに叩くが返事はない。音を立てないように、静かに開けた。
(寝ているのか…)
寝台の上にはふとんに埋もれる金髪。静かに寝息を立てている。その血色の良い寝顔を見て少し安心した後、額からずり落ちた氷のうに気が付いた。元の位置に戻そうと掴んで、その手は止まる。本来冷えているべき中身が、温くなっていたからだ。
「……」
視線を走らせると、寝台の近くの床には桶。中には雪。裏庭の木陰から採取したのだろう。それを拾い上げ、氷のうを開ける。
(確か氷よりも水を多めに入れた方が良いのだったな…)
溜まった温い水を捨て、新しく冷えた水と殆ど固まりになった雪を入れる。慣れない作業に多少手こずりながらも、そうして何とか完成した品を手にシャールカに向き直ったその時だった。
「っ…!」
バルトロメイが肩を大きく震わせ止まる。先程まで寝台で閉じていた両目が、ばかりと開いていたからだ。
そのままシャールカは起き上がり、上半身だけを寝台から立たせた。
「……」
「……」
互いに無言で見つめ合う。普段溌剌とした彼女からは考えられない、ぼけっとした表情。熱と眠気のせいだろうと察した。焦点の合わない瞳と火照った頬がじっとこちらに向けられている。
「……」
「…失礼する」
新しい氷のうを渡し、速やかにその場を後にしようとして、バルトロメイはぐいと引き止められた。服の裾を掴むのは、シャールカの白い手。何度か引っ張り返すが、その手はまるで糊でくっついたように離れない。
「…何だ」
やがて痺れを切らしたバルトロメイが先に口を開いた。下を見れば、碧い瞳が丸々と円を描いてこちらを見つめている。
シャールカはぱちぱち瞬きをした。そのまま、半ば放心状態で口を開く。
「さん、ごう…」
「…は?」
バルトロメイは当然、知る由もないことである。
性奴隷たるシャールカの熱意は本物だった。何とかして主人との性交を達成しようと、彼女は必死だ。起きている時は当たり前としても、時に就寝時にさえその目標が消えることはなかった。そう。シャールカは夢の中で今まさに――南極参号機を作っているところだった。
「す、すばらしい出来です!」
そして現在、風邪による熱で沸騰した彼女の頭の中では、現実と夢が混迷を極めていた。「自分が作り上げた」と思っているバルトロメイを見ながら、興奮気味に口を開く。
「まさに本物そのものではないですか!」
本物なので当然である。が、熱と眠気のせいで理性が飛んでいるシャールカは気が付かない。朦朧とした意識の中で、大喜びし始めた。彼の大きな手を両手で掴んで、更にきらきらと顔を輝かせる。
「まあ、お前はあたたかいのですね!ますます旦那様にそっくりです!」
「……」
そのままむにむに熱心に彼の手を揉む。満足げに頷いた。
「柔らかく硬い。良い素材です」
「……」
バルトロメイと言えば無心である。先日の性奴隷泥沼泣き叫び事件以上の戸惑いが頭中を支配する。一体何が起きているのかよく分からないが、シャールカが自身を人形の類いと勘違いしていることだけは理解した。
「まあ、何ということでしょう!鼻が詰まっていて分かりませんでしたが、こうして嗅ぐと匂いまで旦那様ではありませんか!」
シャールカが寝台の上で立ち上がった。ふんふん鼻を鳴らして近付いてくる。
「……」
その金糸がバルトロメイの首筋にさわさわと当たる。息が掛かるほどの近さ。バルトロメイが咄嗟に視線を外し、意識を外に追いやった。ただひたすら心を無にし欲求を抑え込む。
そうして耐えていると、ふとその猛攻が止んだ。
「本当に、そっくり…」
「……?」
視線を下に向ければ、ふたつの青と目が合った。シャールカが、どこか恥ずかしそうな顔でこちらをじっと眺めている。寝台に乗るぶん、普段よりも近い位置から。やがて小さく笑って、体を傾けた。
「…ふふ。こんなことをしただなんて、旦那様にも、ヨハナ様にも、秘密ですよ」
想い人にあまりにもそっくりな人形を前に、シャールカの恋心が動いたのだ。
腕を回した訳ではない。接吻なぞ論外だ。ただバルトロメイの胸に顔をぴたりとくっ付けて、控えめに寄り添う。そうしてふにゃりと頬を緩ませて、笑った。
「しあわせ…」
その瞬間、バルトロメイの中で何かが弾けた。勝手に腕が伸びて行く。抱き締めかけて――
「…あら?」
「っ!!」
止まった。彼が彼女に触れるよりも先に、シャールカが触れた為である。主にバルトロメイの触れてはいけないところに触れた為である。それ即ち股間である。
「何でしょう?」
まるで猫のようにその部分を興味深げにふみふみと押しながら、彼女は心底不思議そうに首を捻った。
「ここだけ鋼鉄製でしょうか…?」
「何これ…?」
翌朝。信じがたい光景を前に、ヨハナは呆然と声を漏らした。
「私も分かりかねるのです…朝起きた時には既にこのような事態になっておりました…」
シャールカも神妙な顔で頷く。バルトロメイの屋敷、離れの廊下。その壁に、穴が空いていたのだ。少し高い位置に、丸く円を描くようにして入った亀裂。木板はへし折れ、骨組みが覗いている。昨日までは無かった激しい損傷に驚いていると、シャールカは眉根を寄せて続けた。
「昨夜、轟音と共にこれが突然出現したと。客人を狙う襲撃者かとちょっとした騒ぎになったようです…。私は就寝しておりましたし、結局何の被害も不審者もいなかったとのことですが」
「怖いわね…。風邪はどう?」
「殆ど回復しました!」
寝台に腰を下ろしたシャールカは、意気揚々と右腕を上げる。
「今日は1日こちらで静養して、明日から性奴隷に励みます!」
「そ、そう…。ほどほどにね」
兄を思い、無駄だろうとは思いながらもそれとなく止めておく。温かい茶を淹れ、シャールカがこちらを見た。
「ヨハナ様は今日も、客人のご案内にいらしたのですか?」
「ええ。…昨日彼と色々と見て回ったんだけど…かなり変わった方だったわよ」
褐色肌の異人を思い出す。柔らかな物腰に微笑みを絶やさないエリアスは、好感のかたまりのような人物ではあった。
「けど…行動がよくわかんないのよねえ。目立ちたくないって言うわりには、人の多いところに行きたいって言うのよ」
「……?」
「その後も移民が多い地域に興味を示したりだとか、高級な料理店よりも大衆食堂を選んだりだとか」
「瑞の人々の生活を知る…他国の視察が目的なのでしょうか?」
シャールカから差し出された茶器を受け取り、口をつける。考えながら、頭を傾けた。
「うーん…。どっちかって言うと…まるで誰かを、捜しているような…」
言いかけて、昨日のエリアスの台詞が過った。
『…後悔しています。彼女を、守りきれなかったことを』
ちかりと光る。あのような言い方をしたので、てっきり死別か、他の男性の元に嫁いだのかと思っていたが。
(まさか、例の女性を捜して…)
ひとつの答えに辿り着きそうになった時、がたんと物が動く音に掻き消された。見れば、ヨハナの背後。出入口の近くに、ひとりの人物が立っている。
「コゼル様…?」
今しがた話題に上ったばかりの彼だった。けれど今のエリアスの居住区域は母屋だった筈だ。ヨハナが驚き、息を呑む。
「どうして、ここに…」
「……」
それには答えず、エリアスはふらつく足で部屋に入って来た。赤い瞳を見開き、信じられないものでも見るような表情で、口を開く。
「シャールカ…」
「え…?」
続いて彼の背後から足音が近付いてきた。扉の外。廊下の上に、バルトロメイが息を切らして現れる。
「コゼル殿!一体何処へ…」
しかし、彼が先を続けることはできなかった。
「え、エリアス、…!」
彼を知らない筈のシャールカが、彼の名を呼ぶ。驚いた表情の後、その顔はくしゃりと歪んで、震える声が落ちる。そうして立ち上がり、彼の首もとに飛び付いたのだ。
「エリアス!」
「シャールカ…っ!」
エリアスも彼女を迎える。その金糸ごと頭をしっかりと掴み、静かに断言した。
「もう二度と、離さない…!」
その瞬間、ヨハナは全てを知ったのだ。エリアスが捜していた人物がシャールカであることも、彼をそこまで突き動かした想いの正体が、恋慕であることも。
そして。例の壁穴は、額に包帯を巻き更に今目の前の光景に青筋を浮かべたバルトロメイによって、もたらされたものであると言うことも。
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