第27話


春が訪れ、瑞の首都、慶閣もすっかり暖かくなった。地面には季節の移り変わりを告げる新緑が芽吹く。地上の雪は殆ど溶け去り、小さな雪のかたまりだけが、草木の根本に名残惜しそうに残る。


そんな立春を迎えたバルトロメイの屋敷、その廊下を彼女の歩は迷いなく進む。数ヵ月前に出たばかりだと言うのに、既に懐かしさを感じる建物の中を練り歩く。やがて目的の部屋まで辿り着くと、こんこんと扉を叩いた。返事を待って、扉を開けた。


「よ、ヨハナ様!」


顔を覗かせると、隅の寝台で横になっていたシャールカが飛び起きる。一瞬ぱっと表情が輝いたものの、すぐにその顔を背けた。口に手を当てぶしゅんとくしゃみをしてから、室内に入ろうとするヨハナを慌てて制止する。


「い、いけません、ヨハナ様。私の病気がうつります」


真っ赤に茹で上がった顔にぐずぐずと鳴る鼻、絶え間なく襲う寒気。まだ夜は冷え込むこの時期――シャールカは風邪を引いていた。


「大丈夫よ。この部屋からはすぐ出るわ。顔だけ一瞬、見て行こうかと思って」


ヨハナは軽く笑って手を振る。彼女の為に持ってきた、見舞いの品を机に置いた。


「ヨハナ様。何故ここに…」

「兄様に呼ばれたの。今屋敷に訪れてる方の、お相手をして欲しいって」


そう言われ、シャールカには思い当たることがあった。口元に手布を当てもう一度くしゃみをした後で、ヨハナを見る。


「ええ。情けないことに昨日から寝込んでおりますので、私も詳しくは存じません。が、何でも大事なお客様だそうで…」

「そう…。何だか使用人の子達も騒いでたわね。で、私からもひとつ聞きたいんだけど」

「はい。なんなりと」


ヨハナはそっと指差した。この部屋に入った瞬間から、ずっと気になっていた疑問を口にする。


「これ、何…?」


そう訝しげな目を向けるのは、今現在シャールカの隣に鎮座する馬鹿でかいかたまりである。事情を知っているであろう彼女は、うんうん頷いた。


「さすがヨハナ様です…。よくぞ聞いてくださいました…」

「そ、そりゃああんまり気にしたくないけど…勝手に視界に殴り込んで来るから…」


とあまり目を合わせないようにしながら呟く。そんなヨハナにふとんから上半身だけ体を起こして、シャールカは真剣な表情で言った。


「お聞きください…。ヨハナ様が嫁がれて既に数ヵ月…相変わらず私は、性奴隷としてのお務めを果たしてはいないのです…!」

「あ、ああ…」


そう悔しげに言われても、ヨハナにはその単語しか返せない。彼女に手を出さない理由は、本気で惚れているからだ。だがしかしバルトロメイが隠している真意を、勝手に話す訳にはいかないだろう。


そしてその事実を知らないシャールカは、真剣な眼差しをこちらに向けた。


「それもこれも、旦那様の格好良さがすぎるあまりでございます…!」

「……」


そして引き続き、シャールカはときめきを持て余していた。彼を前にすれば胸は高鳴り指先は震え、性奴隷の務めどころではなくなってしまう。彼女はぎりぎりと歯を食い縛りながら続ける。


「この前などは酔った挙げ句に失礼ながら旦那様の体の上で一夜を明かしてしまったようなのですが…それでも旦那様は手を出されない…!まるで私のことなど居ても居なくても一緒の如き扱いでございました!」

「そ、そう…」


(新しい形の拷問みたいね…)


恋慕する相手を乗せて一晩。さぞ自制心が試されたことだろう。兄の心情を知るヨハナはそっと彼を労っておいた。


だがしかしシャールカは気が付かない。気が付かないまま、この状況を打破する手段を探している。記憶がすっからかんになってしまうので、今度は素面で。ときめきを抑え主人に手を出すその1打を。


(このシャールカ!一計を案じます!)


「そこで開発したのがこちらの人形!旦那様を模し旦那様として扱うことで、旦那様がまるで隣にいらっしゃるかのような錯覚に陥ることができるのです!!」


シャールカが隣にあったをヨハナの前に掲げた。明らかに大きすぎるそれは、壁に当たってでろんと首の辺りから折れ曲がる。


ヨハナの視界に殴り込むように入ってきていた問題の品は――バルトロメイを模した等身大の人形だった。


「あ、ああ…。これ、兄様なんだ…」

「そうですとも!」


シャールカは胸を張る。性交へ向かう何よりの障害は、ひとたびバルトロメイの前に来れば萎縮し動悸を始めるこの体である。彼に似せた人形と普段から共に過ごし、ときめきに慣れようと言う作戦であった。


「南極壱号と名付けました!」

「へえ…」


そしてその「兄」を突きつけられたヨハナは、それをあまり見ないようにしながら頷いた。妙な名付けよりも本体の異様さに目が行く。針仕事の苦手な彼女のお手製だ。あちこちに歪みやへこみが目立つ。かろうじて人の形は取っているが、鼻や口らしき場所からは綿が飛び出し、取れかかった目は両端を見ている。今にも断末魔が聞こえてきそうだ。


(怖い…)


恋する乙女の精一杯の抵抗と言うよりは、ただ呪いの人形と言った風情である。今夜の夢に出てきそうだとヨハナが震えていると、声が掛かった。


「ですが、悲劇もございました…」


手製の「バルトロメイ」を抱え、シャールカはしょんぼりと肩を落とす。


「…布製では旦那様のあの重量感が出ませんでしたから弐号は粘土で作ったのです…。すると天日干しをしている最中に天気が急変、雨に溶けて無くなりました…」

「それは…そうね…」

「半月近く掛けて懸命に作ったのにも関わらずです…。悔しさのあまり雨の中残骸に泣いて縋りました…」

「風邪の原因それじゃない?」


雨の中、地面の泥に向かって「旦那様ぁあああ」と咽び泣くシャールカを見て、バルトロメイが百年の恋も冷める戸惑いを経験したことは言うまでもない。


だがしかし、たとえそのせいで不審な目を向けられようとも、風邪を引こうとも諦める彼女ではない。新しい等身大人形を見据え、シャールカは意気揚々と宣言した。


「現在参号を制作中ですわ!素材は動物の皮!いちばん旦那様に近くなる予定ですので、これがあればもう!ときめきなど怖くありません!」

「今は寝てなさい」


言いながらまた恐ろしげな何かを取り出そうとする彼女の額を、ヨハナはぺちんと額を叩く。シャールカが布団の中におとなしく収まったことを確認して、背を向けた。


「風邪って聞いたから心配したけど、何も無さそうで良かったわ」

「…ヨハナ様」


名を呼ばれ引き止められる。見ればシャールカがふとんの中におさまったまま、こちらに顔を向けていた。


「私の体調が万全でないことは、本意ではありませんでしたが…」


氷のうを額に乗せ、ゆっくりと微笑む。そっと付け足した。


「こうしてまたお会いできて、嬉しいです」

「…私もよ」


そう言われ、ヨハナも笑みを返す。久しぶりの再会は、やっぱりどうして楽しくてたまらない。シャールカは微笑みながら口を開く。


「ストラチル様に女装していただいても、ヨハナ様の代わりにはなりませんでしたから…」

「…なんて?」






「ごめんなさい。お待たせしたわ」

「とんでもありません」


ヨハナが軽く体を洗い、着替えた後の話である。彼女の「客」は中庭を見ていた。振り向いた彼を見て、一瞬ヨハナは足を止める。目の前の人物に驚き、目を見開いた。


(他国のお役人様って言うから、てっきりおじさんが出てくるのかと思ったけど…)


ヨハナの前に居たのは、若い青年だった。煌びやかな銀糸に瞳は目の覚めるような赤。小麦色の肌は滑らかな曲線を描く。異国の衣装か、華やかな色の羽織りものがよく似合っている。彼を見れば、屋敷の使用人が色めき立った様子であったことも納得である。


ヨハナが近付くと、彼は椅子から立ち上がった。彼女に手を差し出そうとして、すぐに気付いたようにその手を戻した。


「ああ。この国では、両手を合わせ頭を下げることが、挨拶でしたね」


そう言って、柔らかく微笑む。手を合わせ、頭を垂れた。


「エリアス・コゼルと申します」

「ご丁寧にありがとう。初めまして。ヨハナよ。あそこにいる、将軍の妹」


ヨハナも同じように頭を下げた後で、扉の近くに居るバルトロメイを示す。エリアスは微笑んで、彼女に椅子を差し出した。


「クルハーネク閣下には私が滞在する間の護衛を、担当して頂いているのです」

「ええ。聞いているわ。非公式の来訪だって」

「そう然したる身分ではないのですが、大仰な歓迎は性に合わないものでして」


そう言って、エリアスが微笑む。その人のいい笑みを見ながら、ヨハナの心にはひとつの印象が落ちる。


(変わった人ね)


彼の実際の地位や出身国を、ヨハナは知らされてはいない。けれど彼の「目立ちたくはない」と言う台詞は本心だろう。今回も警備のしやすさと手軽さを考えて、バルトロメイの屋敷を宿泊先に選んだと聞いている。


「コゼル様の案内役を、兄様に任されたの。何か希望があればお教えするわ。こう見えても夫が料理人だから、美味しいお店には詳しいの」


その言葉を聞いて、エリアスは眉尻を下げた。


「申し訳ないですね。ご結婚されているご婦人を、お呼び立てしてしまうとは」

「仕方ないわ。あの兄も周りも、人を喜ばせるような気の利いた場所を知らないから」


近くに控える兄にも、周囲に配置された兵士にも聞こえないように、こっそり呟いて肩を竦める。無骨で武官一筋の彼らに粋な計らいを求めるのは、無理難題と言うのもだろう。


「人のもてなしを任せて安心できる男性は、私の夫ぐらいなものよ」


事もなげにそう口にする。するとエリアスはくすりと笑って目を細めた。


「…夫君のことを、楽しそうにお話されますね。生憎私は独り身なもので、羨ましい限りです」

「そ、そう…?」


ぱちぱち瞬きを返す。そのつもりは無かったが、どうやら顔に出ていたらしい。背中を昇る照れくささを押し殺して、咄嗟に彼を持ち上げる言葉を口にする。


「わ、私のことなんてどうでいいわ。貴方もこんなに格好良いのだもの。懇意にする女性のひとりやふたり、いるのでしょう?」


思わず口から出た軽口だった。相手は美形の若い男だ。似たような質問も、何度だってぶつけられているだろう。事実、彼の口からはそれを肯定する台詞が飛び出す。


「…ええ」


けれどほんの少しだけ、返答が遅れた。赤い瞳は遠くを見るように揺れる。ヨハナが見ていることに気が付くと、美しい表情で微笑んだ。


「幸せな時間でした」


笑みをたたえた口元は緩み、唇からは優しい声が漏れる。今までと殆ど変わらない柔らかな笑顔だったが、その発言の時だけ彼を包む空気が変わった。心の底から言った言葉なのだと、初対面のヨハナでさえ察した。


ただ唯一、その台詞が過去形だったことが気になった。


「その人は、今。どこにいるの…?」

「……」


だから、思わず聞いてしまった。聞かない方が良かっただろうかと、その後で思う。

エリアスの表情が、僅かに強ばったからだ。


「…後悔しています。彼女を、守りきれなかったことを」


笑みは消え失せ、深紅の瞳は仄暗い光を宿す。まるで自身に言い聞かせるように、彼は強い口調で続ける。


「次に会うことができたなら…もう二度と、手放しません」


瞬間、春風が吹いた。それでも強い決意が表れた彼の声はヨハナの耳へと届く。風が通りすぎるのを待ってから、彼女は口を開けた。


「それは…」


続く言葉は、ぶるしゅんとくしゃみの音に遮られた。視線を向ければシャールカの居る部屋の窓が、ここからでも見えた。


エリアスが顔を上げた。陽を浴びて赤い瞳が煌めく。


「あちらは離れと聞いていましたが…どなたかいらっしゃるのですか?」

「ああ。使用人がね、風邪で休んでいて。大したことはないのだけど、お客様にうつすわけにはいかないから。近付かないで頂戴ね」


ヨハナは何ともなしにそう口にする。彼女からすれば当たり前のことを言ったまでだ。


「……」

「…コゼル様?」


けれどエリアスからは無言が返ってきた。ヨハナの呼び掛けにも反応しない。やがて音がした方向をじっと見ながら、小さく口を開ける。褐色の喉が動いた。


「そうですか…」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る