第26話


「聞いてくださいヨハナ様…!」


バルトロメイの屋敷。その離れ。シャールカは手に持った雑巾をせかせかと動かす。部屋の中央に向かって、これ以上ないくらい真剣な表情で言った。


「問題を、抱えているのです…!」

「そうか」

「……」


そのあっさりした返答に、出鼻を挫かれたような気分になる。が、気を取り直してシャールカは先を続けた。


「私の存在意義を揺るがす、とんでもない問題を…!」

「何でもいいからさっさとどうにかしろ」

「……」


折れたのは心か膝か。シャールカは絶望のあまりその場に崩れ落ちた。雑巾を持っていない方の手で顔を覆う。


「やはりこんな化物では…ヨハナ様の代わりにはならない…!」

「失礼だな貴様はァ!」


部屋の中央に座っていた人物――ツィリルは、被っていたものを床に叩き付けた。長い黒髪のかつらがぺしゃりと床に散る。女性用の漢服を着た彼は、紅を引いた口を大きく開けて立ち上がった。


「一体何の為にこんな格好をしていると思ってる!」


ヨハナの嫁入りから数日。彼女が居なくなってしまった影響は、こんなところに出ていた。


「ああヨハナ様…全てを包み込む姉のごとき貴女の大切さに今頃気が付くなんて…私はなんと愚かなことでしょう…」


部屋の後片付けをする手を止めて、シャールカがどんよりと肩を落とす。


まるで姉妹のように仲の良かった女主人がこの屋敷を出ていってしまったことは、致し方ない。他のことが要因ならばまだしも、嫁入りだ。シャールカとてヨハナの選択を心の底から応援している。


だがしかしどうして、いちばん困ったのは、相談相手である。主にバルトロメイとの夜伽の件に関する相談相手である。事が事だ。下手に外部に吹聴する訳にもいかない。けれど自分ひとりでは解決は難しい。と言うわけでヨハナ以外に唯一相談可能な、ツィリルに協力を依頼したのだ。


「ヨハナ様らしさを出す為に女装までしていただいたのに、感じるのは安息どころか不快感ばかり…」

「貴様殺されたいのか」

「話を聞き、共感し、それとなく道を示してくださる…。姉とはこのような存在かと、私の人生で初めての感動でございました。何と幸せだったことか…ヨハナ様…」

「仕方ないだろう。僕はお前の姉じゃない…大体、姉とはもっと凶暴なもので…」


ツィリルがふと言葉を止めた。彼女に視線を戻す。


「なんだ貴様、兄弟は居ないのか?」

「おりませんわ。村に居たのは私より年下の子供達ばかり…。皆、妹や弟同然ではありましたが」


深いため息をつきながら、シャールカはぽつりと呟く。


「一時的になら、兄のような方はいましたけど…」

「……?そうか。僕は姉ばかりが5人だ」

「ああ…」


露になった事実に思わず声を漏らしてしまう。そんな末っ子長男は、びしりとシャールカを指差した。


「貴様の事は嫌いだ。嫌悪していると言っても過言ではない。が!しかし、閣下の事となれば話は別だ」


床に落としたかつらを拾い上げる。さらさら揺れる長い髪を、頭に被り直した。


「将軍の地位に就かれるお方。心身ともに安定し、健康であることが求められる」

「ええ…」

「僕ごときが心配するのも恐れ多いが…性欲処理も健康管理のうち。その為には憎き貴様にとて協力を惜しむつもりはない」


言いながら、ツィリルが部屋中央の椅子に再び座り直した。ヨハナの定位置だ。腕を組み、胸を張る。


「こんな格好までしてやったんだ。さっさと問題を吐き出せ。そして解決するぞ」

「はい…」


ひらひらと動く裾を視界に入れ、シャールカが大人しく頷く。


「私、聞いたのですよ。殿方は股間に刺激を感じれば、その気がなくともその気になる。そして股間さえ完全体になればとりあえず性交は達成できる、そう小耳に挟みまして…」

「ま、まあそうだな…」

「ですが、いざ決行となると重要な問題が顔を出すのです…」


シャールカとて、ここまで何もしてこなかった訳ではない。主人に手を出されるのをひたすら待つ作戦は既に諦めた。路線を変更し、主にバルトロメイに触る方向で、何かと策を練ってきた。ところがどうして、本人を前にするとそれどころではなくなるのだ。原因はただひとつ。


「ときめきが、止まらなくて…!」


シャールカは気付いてしまった。バルトロメイのことが好きであると。そして彼女にとっては、初めての恋だった。


彼を前にすると、視界が狭まり心臓がぎゅうぎゅうと騒ぎ出す。まともに目を見て喋ることすら難しくなってしまうのだ。この状態で一体どうして、下半身に手を伸ばせると言うのか。


「何せ閣下が相手だ。当然の事だな」


ツィリルがうんうん頷く。何かがおかしい気はしたが、共感を得られたことで話を続ける気力は湧いた。シャールカは唇を噛み締めて、悔しそうに言った。


「くっ…!やはりこれはどうしようもないのですね…!せっかく、旦那様を拘束する為の罠や仕掛けも作りましたのに…」

「!?な、何をやってるんだ貴様は!」


呟くシャールカの手元には自作の皮袋。言葉通り、ゴゾリとはみ出た縄や道具。バルトロメイの性癖を曲げかねない恐ろしい物を目にし、ツィリルの背筋を冷や汗が流れる。


「え、ええい!やはり貴様に任せるのは危険だ!」


しかし、ツィリルも上司の性欲処理に関して、シャールカ以外に頼る先がないのもまた事実であった。


「閣下は普段花街には近寄らない方であるし、いくらなんでも僕の姉を紹介するわけにもいかない…。一体、どうしたら――」


言葉の途中で、ふと視線が止まる。部屋の姿見に反射し映ったのは自分の姿。当然、女装している。その瞬間、天啓に似た閃きは落ちた。鏡を見ながら呆然と呟く。


「僕、か…!?」


新たな可能性に気が付いてしまったツィリルを横目に、シャールカは思い悩む。無理矢理ヨハナに見立て相談相手を作ると言う策を凝らしてはみたものの、モンスターを産み出して終わった。


(こんなことでは…こんなことではいけません!)


シャールカはぐっと拳を握る。どう足掻いてもここにヨハナは居ないのだ。


(私ひとりで、何とかしてみせます!)








「このシャールカ!一計を案じます!」


そう決意した数時間後。シャールカは寝所に居た。


「…何だこれは」


そして目の前にはバルトロメイの姿。自身の足元に絡み付いた縄を見て、シャールカに視線を戻す。


「私共が狩りや武器に使うものでございます!」


ボーラ。石縄。微塵。縄の先に石や錘を取り付けた投擲道具である。簡素な作りながらも性能は折り紙つきで、シャールカ達の間でも主に野鳥や小動物を狩る目的で使っていた。そして予備の石縄を手首だけでぶんぶん振り回しながら、シャールカは必死な表情で言った。


「私はもう、強行手段に出るしか道はありません!」

「……」


バルトロメイは無言を返す。シャールカのこの、真っ赤に染まった顔、どこかふらつく足元。この様子には見覚えがあった。


「シャールカ。お前…酔っているな」

「酔ってなどいませんわ!」


彼女はそう明言するが、バルトロメイはすぐに嘘だと見抜く。机の上の空いた酒壺と酒器、回らない滑舌、そして何よりも部屋に入った瞬間「隙あり!」と言って石縄を投げてきたこの行動力が証明である。


主人に怪我をさせないよう、縄の先の重りを柔らかい素材に変えたところまでは素面だった。けれどまたバルトロメイを前にすれば、感情に邪魔をされるだろう。自身を奮い立たせ目標まで一直線に走らせる“何か”が必要である。と言うわけで、シャールカは酔っ払っていた。念の為にと飲んだ量が少々多かったのか、予想以上にへべれけになってしまったが、それでも目標を忘れてはいない。


前回は酔い潰すことを目的にした為に失敗したのだ。今度は酔った勢いで襲おうと言う計画だった。犯罪である。


「…早く寝るぞ」


あくまで冷静なバルトロメイが足の拘束を外そうと屈む。するとその瞬間、前からシャールカがぶつかってきた。


「させません!」

「おい、っ!?」


そのままふたりして、寝台へと突っ込む。これまた怪我をしないようにと敷かれたぶ厚い布団の上に、ぼふんと埋まった。


「旦那様…」

「っ…!」


体の前面から飛びかかって来られたのだ。当然、シャールカが彼の身体に全身を預ける体勢になる。顔にさらりと掛かった金髪に、バルトロメイがひきつった。


さて。バルトロメイの心情を知った者ならば、疑問に思う筈だ。それほど好きな女性と、同じ寝室、同じ寝台で寝ていたのに一体どうして――平気だったのかと。ほんの少し手を伸ばせば届く距離、更に性奴隷と主人と言うこの上ない大義名分を抱えた立ち位置にも関わらず、魔が差さなかった理由は何か。


それ即ち、我慢である。若くして将軍にまで上り詰めた男は、尋常ならざる精神力の持ち主でもあった。隣の性奴隷が打ち上げられた魚の如く調理されるのを待っていようが、突如として発情しようが、彼は我慢して我慢して我慢し続けてきた。ごく稀に抱えた欲望が少しばかり現実となることはあったが、意識がない中行われたのでそれはご愛嬌である。


「今日こそは…旦那様に手を出してみせます!」


が、しかしこれはまずい。あまりにも近すぎる。服越しに伝わってくる体温に、たおやかな匂い、押し付けられた体。彼の中で欲の詰まった理性の袋が震え出す。


「や、やめ、ろっ!?」


シャールカを止める為、延いては自身の理性を守り抜く為、咄嗟に下から彼女の腕を掴んだ。しかし、その細さに折れるのではないかと思い慌てて手を離す。シャールカは健康的な若い女性であって、昇天寸前の爺ではない。弓の弦を引く力もある。いくらバルトロメイと言えど簡単には折れる筈はないのだが、普段屈強な男達に囲まれている彼からすれば、この生き物はあまりにも生態が違った。端的に言えば柔らかくてびっくりしちゃったのである。


「バルトロメイ様!さあ寝間着を寄越してください!」

「っ…!」


手を出すこともできなければ、止めることもできない。シャールカが完全に彼の腹に馬乗りになった。咄嗟にバルトロメイは天井を見上げ、目を瞑った。


「だんなさま…」


主人の心、性奴隷知らず。シャールカは身を屈め、彼に近付く。首筋に息が掛かりバルトロメイがびくりと震えるがそれに気が付かず、とても哀しそうに呟いた。


「私のことは、おきらいですか…?」

「っ…!」


何故手を出さないのか、バルトロメイはそれを彼女に明かすつもりはなかった。シャールカの市民権を得る予定であることも、心底惚れ抜いていることも、言うつもりはなかったのだ。彼女が恩を感じバルトロメイの為に自身の幸せを投げ出せば、元も子もない。


だがしかし、限界である。度重なる攻撃で彼の理性の袋は破裂寸前である。


「…シャールカ」


意を決し、瞼を開ける。悲しげに揺れる碧と目を合わせ、真剣な表情で口を開く。


「俺は――」


瞬間、シャールカの金糸が落ちた。バルトロメイの胸元にどすんと埋まる。


「…シャールカ?」


呆然とするバルトロメイをよそに、彼女はぐうぐう寝息を立て始めた。その様子に思い出す。前回も酔っ払ったシャールカは、平気で机の上で寝た。今回はそれが、バルトロメイの身体の上だっただけだ。


「……」

「……」


そっと服の袖だけを掴み引っ張るが、離れない。小さな手でバルトロメイの服をしかと持って放さない。一体全体どこにそんな力があるのか、ぴったりくっついたままだ。


首筋に息は掛かっているし相変わらず良い香りもする。体温は感じるし、意識を集中させれば柔らかな膨らみも感じ取ってしまう。更に言えば何にとは言わないが、触れている。主にシャールカの太もものあたりがバルトロメイの大事なところにのっしりと乗ってしまっている。


「ん…」

「!」


シャールカが身動ぎし我に返った。いつの間にかその金糸に触れてしまっていた両手を、慌てて上げる。


(い、いつの間に…)


シャールカが寝たことで、安堵し理性が緩んだのだろう。バルトロメイは自分に恐怖し、背中をどっと汗が流れた。


「……」


健やかな寝息を立てる彼女を胸の上に乗せながら、そっと視線を走らせる。窓の外にはのんびり浮かぶ月。夜空の濃度から、朝日が上るまでの時間を計算する。


彼は悟った。地獄の我慢大会終了まで、あと半日はあると言う事実を。









「まさか貴殿がお越しになるとは思わなかったぞ」


さて。人知れず行われた耐久レースのせいでバルトロメイが一睡も出来ず、シャールカが昨夜の快眠に首を捻っている翌日の話である。


自身の庭園で、オルドジシュカは1人の人物と向かい合っていた。手元の茶器からは芳醇で煌びやかな香り。大紅袍だいこうほう。険山の上、岩棚で育てられた茶樹から取れる岩茶であり、非常に価値の高い茶として知られる。その中でも選りすぐりの一級品だ。皇帝と言えども、これを出す相手と場所は限られている。国を挙げての祝い事、皇室所縁の儀礼、または――国外からの賓客。


「北クルカ王国第8王子、エリアス・コゼル殿」


その一言に、彼女の目の前に居た人物がゆるりと微笑んだ。褐色の肌の上で、銀の髪が揺れる。


「よく驚かれますが、私の地位ほど外交に向いた立場もありませんよ」


まだ若い外交官は、そう言って目を細めた。


(まあ、貴殿はだろうな)


オルドジシュカは心のうちで苦笑する。卒の無い受け答えに柔らかで丁寧な物腰。若い年齢、非の打ち所のない容姿、何よりも常人との違いを決定付ける華。この男を前にすれば老若男女問わず心を開くに違いない。


が、少し話せば分かる。飾りとしての側面は、彼の一部に過ぎない。彼の、外交官としての知識や立ち居振舞いは既に完成しきっている。少し油断すれば、あっという間に不利な状況下に置かれるだろう。


「…何にしても今回の件に好意的な返事を得られそうで良かった。こちらの申し出であるのにわざわざそちらから来ていただいたのだ。こちらに滞在する間、最高の護衛を付けよう」


オルドジシュカの言葉に、エリアスは頭を下げた。


「ご厚情に感謝します。それと、私の訪問の件は貴女がお気にすることでは。遅かれ早かれ、我らもこの道を選択していたかと思いますから」

「部下に宿泊場所を手配させてある。本来ならば、王宮内に泊めるべきではあるのだが…貴殿が居ると私の可愛い花達が、悪い興味を持ってしまいそうだ」


そこで言葉を切って、オルドジシュカが周囲を見回した。彼女の若い妻とその侍女達が、興味津々と言った様子でこちらを見つめている。皆一様に頬を染め、嬉しそうに話に花を咲かせている。端正な顔立ちに異国の王子と言う肩書きは、乙女心をいたく擽るものなのだろう。


(非公式な会談とあって、後宮にほど近いこの庭を選んだが…よもやこれほどとは…)


けれど、国中から集められた選りすぐりの美姫から熱視線を向けられていると言うのに、エリアスは一瞥もくれずに茶器を手に取った。茶に口をつけ、微笑む。


「ご心配には及びません。こう見えても、心に決めた女性がいるもので」

「…例の尋ね人か?」


オルドジシュカが静かに聞いた。エリアスの反応をじっと見つめる。


「噂でな。聞いたのだ。北クルカの8番目の王子が自ら国外を回る理由は、人を探している為だと」

「…まさか」


彼はくすりと笑って手を振る。相も変わらず余裕然とした佇まいだったが、オルドジシュカの心には確信が落ちた。


(…図星か)


彼女にとっては軽口のつもりだった。どんな小さな情報でも外交の切り札になり得る。それと、単なる興味だ。先程から決して隙を見せないこの男の綻びを見たかった。


人の感情に聡いオルドジシュカでなければ気付かなかったであろう、僅かな変化。ぴりぴりと張り詰めた空気。それを隠せない程度には、エリアスは焦っている。まだ若い外交官の素を見た気がした。オルドジシュカは安心させるように微笑んだ。


「そうか。であれば、私自ら否定しておこう」

「……」


エリアスは無言を返す。けれどやがて、観念したように瞳を伏せた。


「…感謝します。王室の者がただ1人の人間を探していると知られれば、余計な事を考える輩も出てきますから」

「それほど大切な相手か?」

「…ええ」


短くそれだけを返し、彼は遠くを見るような目をする。その内に目的の記憶に辿り着いたのか、僅かに口角が上がる。そうして彼はオルドジシュカが今日見た中で、いちばん人間らしい表情で肩を竦めた。


「尤も彼女本人は、私の事を兄程度にしか思っていないでしょうが」

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