第25話


「私と一緒に行く?」


時は少し遡る。シャールカの前で、煌びやかな衣装を身に纏った女主人は、そう言って首を傾げた。続けて一言、事実を口にする。


「…アンタが私と行くって言ったって、兄様は止めないわ」


静寂がその場を支配した。それでも黙ったままのヨハナに、彼女が本気であることを知る。突如として降ってきたその申し出は、シャールカが予想だにしていなかったことだった。


「わたし、は…」


だから、呆然と声を発した拍子に、本音がするりと滑り落ちる。


「バルトロメイ様のことが、好きです…」


そう言った瞬間、まるで鍵穴に鍵が嵌まるようだと思った。見て見ぬふりをして仕舞い込んでいた感情が、かちりと音を立てる。そうして開いた心の隙間から、想いが溢れる。


「私は…奴隷になることの本当の意味を、分かっていなかったように思います」


瞼を閉じれば、あの日の光景が昨日の事のように思い浮かぶ。叩きつける雨にひどい匂い、絶望を詰め込んだような場所。奴隷市場だ。


奴隷になる選択をしたことは今も、後悔してはいない。けれど当時の自分は何一つ知らなかったのだと、そう思う。


「人としての権利を失うことがどういうことかも、恋も許されない本当の、痛みも…」


『俺はシャールカと、共に生きる気はない』


バルトロメイのあの言葉に、この先自身がどう足掻こうとも、彼と結ばれることはないのだと知った。仕方の無いことだ。この身分は、たったひとりの好きな人と共に生きる権利さえない。


「シャールカ。なら…私と一緒に…」


ヨハナが手を差し出した。けれどそれを受け取らず、シャールカは静かに首を振る。


「私を…絶望の淵から救い出してくださったのは、バルトロメイ様でした」


彼の名を口にすると、自然と顔が緩む。

気付けば傍にいて、必ず守ってくれる。優しくて強い、シャールカの好きな人。


「今後一切、旦那様が私を受け入れてくださらなくても、奴隷のままで終わっても、構いません」


頬を薄紅色に色付けて、口角を柔らかに上げて、彼女は小さな希望を口にする。


「旦那様を幸せにしたい。共に生きることができなくても、いずれ別れが来ることになろうとも、あの方に必要とされなくなるまで、お傍に」

「シャールカ…」


ヨハナが目を伏せた。片手を差し出したまま、もう片方を前に体の前に伸ばす。両手を差し出すような格好になった。


「……?」

「シャールカ。私ね…兄様のこと、大ッ嫌いだったの」


ところがどうしてその瞬間、ヨハナの声が一気に低くなった。シャールカが一度ぱちりと瞬きをして、女主人を見やる。


「…ヨハナ様?」

「だって聞いてよ。私がいちばん最初に兄に会った時…母様を背負って家を出たあの時よ。奴は何て言ったと思う?」


目を丸くしてこちらを見るシャールカには構わず、ヨハナは机を殴った。恨みのこもったガンと言う音が響く。


「舌打ちされたのよ…!あの屑!」


化粧によって美しく整えられた筈の顔が、憤怒の形相になっている。恐れおののきながら、シャールカは慌てて女主人を抑える。


「よ、ヨハナ様。新郎様がいらっしゃいます。お、抑えて…」

「気持ちは分からなくはない…分からなくはないわ。会ったこともない穀潰し2匹が突然現れて頼ってきた訳だし。けど普通、明らかに弱ってる人に向かって舌打ちする?とりあえず第一印象は最悪だったわね」


だがしかしヨハナは止まらない。開け放たれた扉からは積年の恨みが溢れる。ぎりぎりと歯軋りをしながら、彼女は先を続ける。


「笑顔のひとつも見せないし、つっけんどんだし…。恩は感じてたからその態度も仕方ないと割りきってたけど、私は大嫌いだったわ」


ぼろくそに扱き下ろす。バルトロメイが好きだと言った本人にこの台詞。シャールカはもうお腹一杯である。それでもヨハナは侍女の恋心に容赦のない言葉を浴びせる。


「いつだって逆境を自分の努力と実力でどうにかしてきた人だったから、私のような惰弱が許せなかったんでしょうね。私と母のことだって、見捨ててのたれ死ぬのも目覚めが悪いし、多少の利用価値があるから助けただけよ。あの冷血漢」

「れ、冷血漢…」


そこで、ヨハナが声を止めた。眉間の皺がふと消えて、遠くを見るような目をする。


「なのに。言ったのよ。あの人が」


『縁談を寄越してきたのは、ルミール・ペシュカと言う男だ』


空から目を離して、バルトロメイはそう言った。出てきた名前にヨハナは戸惑いながらも、何とか声を出す。


『け、けど、ペシュカ様のところに嫁に行っても、兄様には何の得も無いわ。宮廷料理人だけど、まだ、見習いだし…』


バルトロメイが得をするような縁談は、いくらでもある筈だ。わざわざたかが料理人見習いの縁談を受ける必要はない。


『お前が望むのなら、俺はそれで良い』


けれど、バルトロメイはそう言った。そのままこちらに向かって歩く。ヨハナの前まで来て、足を止めた。


『今まで多くの苦労をさせた。幸せになれ、ヨハナ』


頭に置かれた大きな手。本気で妹の未来を想う彼の姿は、ヨハナの想像の片隅にも無かったものだった。


「ほら。ストラチル様も仰っていたでしょう。兄様は、変わったの」


そこで言葉を切り、ヨハナは顔を上げた。


「きっと、アンタのせいね。シャールカ」


言い切って、目の前の奴隷を見つめる。続けて自身の両腕を、もう一度高く上げた。


「兄様は、アンタに会えて良かった」


瞳に溜まった滴が、一粒転がり落ちる。ゆっくりと微笑んだ。


「もちろん私も。私もよ。この屋敷に来てくれて、ありがとう」

「っ…!」


青い瞳が歪む。その時シャールカは、目の前に差し出された両手の意味を知った。


「よ、ヨハナさま…!」


一歩近付く。彼女の両手の間に体を入れて、前からヨハナを抱き締めた。その両目からはぼろぼろと涙が溢れる。


「ヨハナ様…っ!しあわせに、っ…なってください…!」

「っ…バカね…」


遠慮がちに触れる体を強く抱き返して、ヨハナは震える声を絞り出す。シャールカの肩に顔を寄せ、大量の涙をこぼす瞼を閉じた。


「アンタのおかげで私、ずっと…幸せだったわよ…!」


背中に回した手を、ぎゅうと結ぶ。


(本当はね…。無理矢理にでも連れていってやろうと思ってた)


誰に頼まれた訳でも、望まれた訳でもない。ヨハナの我が儘。できればこのまま一緒に、生きていきたかった。いちばん苦しい時に、傍にいてくれた侍女。彼女の大切な友人。


「けど、やらない。兄様には、負けたわ」






『俺はシャールカと、共に生きる気はない』


あの言葉には、続きがあった。バルトロメイは目を伏せて、静かに口を開く。


『…シャールカが奴隷でいる内は、俺の子を宿し俺と生きるしか、道は無い』

『え、ええ…』


ヨハナが頷く。だから、そう言ったのだ。考え得る限りで、シャールカがいちばん幸せになれる道を、提示した筈だった。けれどバルトロメイはその先を見据え、言った。


『たった1本しか道が無い者がどうなるか…ヨハナ。お前は知っている筈だ』


そう言われ、ヨハナの脳裏に過る。誰にも頼れず、誰にも守られずに追い詰められていった母親のことだ。


『け、けど、他にどうしろって…』

『シャールカの市民権を得る』


間髪を容れずに返ってきた答えは、ヨハナのどんな想像とも違った。バルトロメイは続ける。


『この国で、国民として生きられれば、俺に依存することもない。好きな仕事ができる。好きな場所で生きられる。俺が守らずとも、法が守ってくれる』

『けど、それは…』


突き付けられた提案を前に、ヨハナは呆然と口を開いた。


『移民で、しかも金糸雀人が瑞の戸籍を取得するだなんて聞いたことがない…。いくら兄様が将軍でも…お金だって、手間だって、どれだけ掛かるか…』

『構わん』


バルトロメイは一言で遮った。ヨハナがその理由を聞く前に、彼は先を口にする。


『シャールカを、愛している』


短い言葉は、宙に落ちた。ずっと苦手だった兄の声は変わらず低く、素っ気ない。それなのにまるで楽器の音色のように、とても優しい音がした。


『だから、シャールカには手を出さない。彼女の人生を、俺だけで潰すような真似はしない』


彼の瞳には強い意志が浮かぶ。好きだと囁くのも、求婚も、今ではない。


『いつか人権を取り戻した時。シャールカ自身が本当に幸福だと思う道を、選べるように』


バルトロメイが顔を上げた。衣擦れの音が響く。窓の外、空を悠然と飛ぶ鳥を見ながら、彼はぽつりと呟いた。


『たとえそれが、俺と生きる道ではなくとも』

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