第24話
『ヨハナ様。ひとつ、宜しいでしょうか?』
シャールカが現れてから、ちょうど7日が経った時のことだった。
『…何?』
その頃、父がヨハナと同年代の女性を後妻に迎えたと聞いた。ヨハナが母を連れ出ていった当時から交際していた女性だった筈だ。母が死に、ほとぼりが冷めるのを待っていたような時期に、腹が立つと言うよりも呆れの方が勝ったものだ。
(今度はこの子に、追い出されるのかもね)
シャールカを見て、自嘲気味に笑う。ヨハナの侍女として兄が宛がった奴隷は、夜はバルトロメイの相手をしている筈だ。ところがそんな寵妾は愕然とした表情で、口を開いた。
『ご存知でしたか…?赤子を持ってくるのはどうやら、
一瞬で場が静かになった。ヨハナは信じられない面持ちで、シャールカに視線を向ける。
『嘘でしょ…。あんな作り話、今どき子供だって信じないわよ…』
『うう…。母が早逝し、父は薬があれば何とかなるの一点張りだったもので、いかんせんそういった方向の知識がなくてですね…』
『…そう』
『旦那様がお手を出されるのを待てば良いと思っておりましたのに、一向にその気配がありませんし…。このままでは追い出されるのも時間の問題でございます…』
そう肩を落とす彼女を前に、僅かながら警戒心が解けた。母を亡くし、この屋敷もいつ追い出されるかも分からない。身の上が少し似ていた為に、湧いた情だった。
(私の方が年上だし、ここは私が折れてあげるべきね…)
ちょいちょいと指だけで、シャールカを呼び寄せる。
『耳を貸しなさい。いい?赤ん坊って言うのはね…』
そのまま、真剣な顔で言った。
『男女が接吻すると、できるのよ…』
がたんと音を立てた。シャールカが仰け反ったのだ。驚愕の表情をしている。
『な、なんと…!接吻で…!』
『子供がやるような、触れ合う程度の接吻じゃ駄目よ。何でも、深くて長い接吻じゃないといけないらしいわ』
『深くて長い、接吻…!?』
『恐ろしいわよね…』
ヨハナは静かに頷く。彼女は大真面目である。
母が早世し父とも不仲。残念ながらヨハナも、正しい性知識は不足していた。
『ヨハナ様!性交のいろはに関する蔵書を、借りてきました!』
それから数日後、シャールカは本を片手に意気揚々と現れた。
『性交の理解はしましたから、今度は進め方を学ぶべきかと思いまして!』
『ああ…。アンタまだ兄様とできてないんだ…』
察するヨハナに、シャールカは本を差し出す。明らかに大衆向けであろう俗本だった。ヨハナは何とも無しに手に取り、ぱらぱらと捲る。
『聞いてくださいヨハナ様…。驚きの事実が、明かになりました…』
そしてシャールカと言えば、ごくりと喉を鳴らして口を開く。その額には汗が浮かんでいる。
『これによると、接吻以外にどうやら…連結作業が必要らしいのです…』
『はあ?どこに何を連結する、って…』
ちょうど頁を捲ったヨハナの指が、ぴたりと固まった。文章の一部分に、まるで吸い込まれるように注視する。主に艶事の箇所、接吻のその後。周辺を2周ほど読んでから、ヨハナが顔を上げる。互いに目配せをした。
『いや、無理でしょ…』
思わず口からこぼれ出た。背中を大量の汗が伝う。
『ヨハナ様』
『無理無理無理無理!どこに入る隙間なんてあるのよ!』
首を激しく横に振りながら、そんなもんは無い!とヨハナは主張する。するとシャールカが胸を張った。
『私にお任せください!この大いなる謎を必ずや解いてみせます!』
意気揚々と宣言した。
『必ずやヨハナ様に、先輩として体験談をお聞かせしますわ!』
「あんなこと、言ってたのにね…」
懐かしい記憶を引っ張り出して、思い出に浸る。あの日も今日のような、穏やかな陽気だった。ヨハナの背後で、部屋の片付けと装飾を行っていたシャールカはしょんぼりと肩を落とす。
「まさか、ヨハナ様に先を越されてしまうとは…。性奴隷失格です…」
「まだ分かんないわよ」
くすりと笑って、ヨハナが振り返った。彼女の頭には冠。傾くと、飾りがきんきんと鳴った。頬に差す桃色に唇を彩る紅、目の覚めるような朱色の衣装には細かな金と銀の刺繍が踊る。
今日はヨハナの、結婚式だった。式が執り行われるのは相手の屋敷。花嫁は自宅で、新郎の到着を待つ。
「いえいえ!このように美しいヨハナ様を見れば、ルミール様は手を出さずにはいれません」
椅子に座るヨハナを見て、目を細めた。
「本当に素敵で…憧れますわ」
「シャールカ…」
ヨハナの瞳が揺れる。華やかな婚姻儀礼は奴隷である彼女には手が届かないものだ。シャールカは少しだけ切なそうに微笑んで、そっとささやかな願いを口にした。
「もしルミール様との間にお子ができることがあれば、是非名付けは私にさせてくださいね」
「…それだけは嫌」
「何故ですか!皆が羨むような素敵な名前に致しますわ!」
「絶対嫌」
先程まで湧いていた情を完全に捨て去り、断固として拒否をする。その後で、ヨハナは彼女の名を呼んだ。
「シャールカ」
『俺はシャールカと、共に生きる気はない』
首を傾げる彼女を前にして、兄の言葉が過った。伏し目で一度瞬き、顔を上げる。誰に頼まれた訳でも、望まれた訳でもない。
(これは、私の我が儘)
「相手からは、侍女も連れてきて構わないって言われてるの」
ヨハナは今日、この家を出る。兄とは違う場所で生きて行く。じっとシャールカを見つめ、問いかけた。
「私と一緒に行く?」
シャールカが僅かに身動ぎする。返事を待たずに、ヨハナは事実を口にした。
「…アンタが私と行くって言ったって、兄様は止めないわ」
「ヨハナ!おめでとう!」
室内に響く甲高い声色。膨らんだ腹を視界に入れて、ヨハナは彼女の名を呼んだ。
「…リリアナ」
椅子に座ったまま、部屋に入ってくるリリアナを受け入れる。シャールカは花婿を迎え入れようと、屋敷の玄関の方へ行ってしまった。ここにはリリアナとヨハナのふたりだけだ。恐らくはそれを狙って来たのであろう彼女は、ヨハナの爪先から頭の先まで見回して眉尻を大きく下げた。
「まあ…あんまりお金は掛けられなかったのね。でもそうよね。これからの暮らしの事を考えると、ここで使い切ってしまうのは得策じゃないわ」
そう言って、リリアナが宙に手を広げた。まるで舞台に立つ演者のように、まるで歌うように同情を口にする。
「ああ、よりにもよって貧乏人の元に嫁に行くなんて!可哀想なヨハナ!」
けれどその言葉を受けた彼女は顔色ひとつ変えずに、じっとリリアナを見つめた。
「…自分より不幸な人を作ったら、アンタは幸せになれるの?」
「はあ?」
ヨハナが腰を上げた。訝しげな顔をする彼女に、一歩近付く。その名を呼んだ。
「ねえ、リリアナ」
長く伸ばされた睫毛で一度瞬いて、呟く。
「本当は妊娠してなんか、いないんでしょう」
「は…?」
リリアナが驚いた顔でこちらを見返す。けれどヨハナの目は咄嗟に腹を押さえた彼女の手を、見逃さなかった。
「な、何言ってんのよ…」
確証があったわけではない。けれどリリアナのその様子で、疑惑は確信へと変わる。
(違和感はあった)
園遊会でも、今も、わざわざふたりきりの状況を彼女は作った。当然陰口を他人に聞かれることはないが、逆上したヨハナに危害を加えられてもおかしくはない。子を宿す母の行動としては、あまりに軽率だ。ヨハナが彼女を振りほどいた時も、赤子のいる筈の腹を庇う素振りさえ見せなかった。
ヨハナが確信を得たことには気が付かず、リリアナは鼻で笑う。
「そっ、そんな訳ないじゃない!このお腹は、この子は、正真正銘!イヴァン様との…」
「父様に、会った」
短い一言だった。けれどリリアナの肩は、びくりと揺れた。その様子を見ながら、ヨハナは続ける。
「…最後の挨拶だと思って、結婚の報告をしに行ったの」
おおよそ数年ぶりに、彼女は自身が生まれた屋敷へと踏み入れた。何も変わらない。母と過ごした棟も、やたらに立派な門構えも、仕える使用人にも大きな変化は無かった。けれど彼女の父親は既に、ヨハナの知る彼ではなくなっていた。
『当然だ、君を置いて行きはしない…』
『ああ、私も、同じ気持ちだ』
焦点の合わない瞳で、ひとりきりでぶつぶつと呟く。記憶よりもずっと小さくなってしまった彼は、実の娘であるヨハナのことも認識できなかった。ヨハナの母親と同じだ。
このような状態で、イヴァンが子を作れたとは到底思えない。そして何よりも、呆けてしまった彼が繰り返し口にしていたのは、ヨハナの母親の名だった。
(年を取ったから捨てて、惜しくなったら恋しがって、本当に、自分勝手で愚かな男…)
「な、何よ!弱味を握ったつもり!?」
肩に何かがぶつかり、我に返った。リリアナが腹に入っていた詰め物を、投げ付けてきたのだ。
「言いたいなら言えば良いじゃない!屋敷の中じゃ既に知られてるし、母親が母親だもの!誰もアンタの言うことなんて――」
「…どうして嘘をついたの?」
ヨハナは静かに聞く。あんなに大きく絶対的だったリリアナが、随分とか弱く見えた。そのまま畳み掛けるように先を続ける。
「自分が成功者だって、信じたいから?周囲から貴女はとびきり幸せねって、思われたいから?」
「っ…」
リリアナは花街の出身だ。庶民から権力者の妻に成り上がった者としての面子、自身は必ず幸せになる筈だと言う期待を抱いて嫁いで来た。けれど夫はおかしくなり、昔の嫁の事ばかり思い出す。そしてラーンスキー家からすれば、せっかく迎え入れた若い嫁だ。男児を産めと古くさい思想を強く振りかざされた可能性もある。幸せな結婚生活には程遠い。こんな筈ではなかったと言う後悔は、想像に難くない。
「リリアナ。自分が幸せかどうかってたぶん、自分が決めるのよ。こんなところで私を苛めてたって、幸せになれるわけじゃない」
ヨハナが机の上を見る。小さな花瓶。一輪挿しの先端には、金色の椿。
「母様はとても弱い人で、最後には、心が壊れてしまったけれど…。そうなるぐらい彼女には、…あの人達にとっては確かに、幸せな結婚だったんだと思う」
気付いたことがある。母が晩年に言っていた言葉。ヨハナと夫を間違え、言ったあの台詞。
『ああ、イヴァン様…』
『来て、くださると、信じておりました…!』
『あなた様となら、私はどこへでも行きます…!』
あれは、若い時に実家を捨て駆け落ちをした時の記憶だ。そしてまるでその足りない会話の片方を埋めるように、イヴァンが先の言葉を口にしていたことも。
『当然だ、君を置いて行きはしない…』
『ああ、私も、同じ気持ちだ』
イヴァンがああなってしまった理由が、罪悪感ゆえのものなのか、単なる病なのか、それともただ純粋な愛だったのか、真意はもう分からない。けれどふたりはきっと、手を取り合い駆け落ちをしたあの瞬間を、永遠に繰り返している。
「貴女の言う通りよ。私たぶん、苦労するわ。こんな世の中だもの。幸せになれる保証なんて、どこにもないわね」
黙ってしまったリリアナに、ヨハナは静かに言う。
「よ、ヨハナ様!」
そんな室内に、ごんと鈍い音が響いた。視線を向ければ、大きな背丈に赤い衣装。その顔は真っ赤だ。
どうやら花婿が、ヨハナに見とれたあまり鴨居に額を打ち付けたらしい。頭を抱え悶絶するその様子に苦笑して、ヨハナは彼の元へと歩いて行った。
「けど、私もう、誰かに幸せにしてもらおうなんて思ってないの」
ルミール・ペシュカ。料理人見習いであり、文通相手であり、これから結婚するヨハナの夫。
彼の手を取り、ヨハナは笑う。
「私が貴方を、幸せにするわ」
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