第23話


『本当にあり得ない!』


その年の春の訪れは、例年よりも遅かった。やっと地上に届いた日差しは冬の間降り積もっていた雪に当たり、燦然と輝く。耳をすませば雪解け水の流れる音がする。


そんな春の陽気に包まれた父親の屋敷。おもちのような頬を膨らませて、小さなヨハナは口を開いた。


『どうしてみんな、自分よりも体が大きいからなんてくだらない理由で、いじめなんかするのかしら!』


顔には雪、服には泥汚れが付いている。近所の子供達と、取っ組み合いの喧嘩をしてきたのだ。いじめっ子を成敗した勲章を拭き取りながら、ヨハナの母は穏やかに笑った。


『彼らはあんまり幸せじゃあ、ないのかもしれないわね。自分より下の人を作って、きっと、安心したいのよ』


柔らかな布が顔を優しく行き来する。けれどそんな説明では、ヨハナが納得できる筈もない。むっと唇を尖らせた。


『それが理由にはならないわ!傷付けられる側には、何の関係もないんだから!』

『そうね。人を傷付けて良い道理なんて、この世のどこにも無いわね』


同意を口にし、母は綺麗になった娘の顔に、顔を近付ける。目を細めた。


『ヨハナ。あなたの瞳は本当に、イヴァン様に似てる』


言いながら、彼女はヨハナの耳に花を差した。金花茶きんかちゃ。少し変わった、金色の椿。母の好きな花だった。


『愛する人に囲まれて、私はとても幸せ。私の子だもの。きっとあなたも、幸せな結婚をするわ』


そう言って母が微笑んだので、ヨハナも笑う。ふと机の上に置かれた新聞が目に入った。


『また、兄様が功績を挙げたの?』

『ええ。父様から養子に迎える打診があっても、断ったのですって。ひとりでこの地位まで上り詰めるなんて、本当にすごいことだわ』


半分しか血の繋がっていない兄の記事。ヨハナは話したことも、会ったことさえない人だったが、このように立派な兄がいると思うと誇らしかった。


『けど、母様は良いの?父様が他の女性と遊んでいても』


当時、イヴァンには複数の恋人や妾が居た。正式な妻以外に囲う女性がいると言う事実はあまり喜ばれることではないと、幼いヨハナも理解していた。


『…たくさんの愛をお持ちの方なのよ』


娘から指摘を受けると決まって、母はこう言った。


『大丈夫。イヴァン様は、戻ってきてくださるわ。静かに待ちましょう。私には、あの人しかいないから』


この母が生まれた家を、ヨハナは見たことがない。母は故郷には戻らなかったし、祖父母が孫の元に寄り付くこともなかった。後から聞いたところによると既に勘当され、親子の縁はとうの昔に断絶されていたのだそうだ。ヨハナの母親が実家を捨てた理由は至極簡単で、とても単純なことだった。


恋に落ちたから。


元々、彼女は瑞でも有数の富豪の家に生まれた。対してラーンスキー家は代々太守の位を継ぐ名家だったが、イヴァンは次男だった。そのすぐ後に兄が病で亡くなり彼が太守の座に就くことが決まるものの、当時は誰もそのことを知る由がない。何の利益もない次男坊との恋愛に母方の周囲は大反対、若い彼女はそれを押しきり、殆ど駆け落ち同然で家を飛び出した。





だからだろうか。ヨハナの母親が、夫から捨てられた理由は至極簡単で、とても単純なことだった。


年を取ったから。


若い時は美しかった妻が、年を取り老いて行く。生物としては当たり前のことだが、イヴァンが愛したのはどうやら、その若さだったらしい。太守を継ぐことが決まり、今までとは打って変わってちやほやされるようになったことも、理由のひとつだったのかもしれない。妻よりも若い女性に、のめり込むようになった。


そして彼はその理由を、妻が他の男と関係を持ったからだと語った。当然、そのような事実はない。相手から同情を得る為の作戦だったのだろう。不倫や浮気をする大義名分が欲しかったのかもしれない。何にしても彼からしてみれば、気軽についた嘘だった。問題は相手の女性がそれを信じ、大衆がそうだと思ってしまったことだ。


ヨハナの母は男誑の烙印を押され、祖父母や周囲からは謂れのない罪でひどく責められた。嘘をついた後ろめたさもあったのか、イヴァンは段々と、妻と娘が暮らす棟に寄り付かなくなった。それからすぐ、ヨハナの母親はおかしくなり始める。あまり物を食べられなくなり、夜中に徘徊するようになった。会話をしていても、途中の記憶が消えていることがある。


味方は誰もいない。少しずつ壊れて行く母親を見るのは辛かった。だからヨハナは母だけを背負って、着の身着のまま生まれ育った家を出た。彼女がまだ、18の時だった。


『お願い』


けれど、実家を捨てた母子が頼る先は限られている。


『助けて…』


ヨハナが助けを求めた先は、顔も知らない腹違いの兄の元だった。当時のバルトロメイはまだ、将官ではなく佐官だったことを覚えている。






『ほら、母様が好きな花。今年も咲いたのよ』


その年の春の訪れも、非常に遅かった。兄の屋敷、雪景色の中、未だ届かぬ日差しを待つ。それでも金色の花を目にすると、寝台に横たわる母は嬉しそうに顔を綻ばせた。


『綺麗ね。とっても綺麗…』


声は掠れていて、ほとんど聞き取れない。美しかった黒髪は、まるで雪のように真っ白になってしまった。骨と皮ばかり、日中の多くの時間を寝て過ごす。この時の母は既に末期で、娘のことが分からなくなる瞬間も多々あった。


何よりもヨハナが辛かったことは、こうなってもまだ、母はほんの一言も父への恨み節を吐かなかったことだ。


(全てを捨てて付いてきたのに、いざ出世したらこの仕打ち。心底憎い筈なのに…)


『ほら。付けてあげる』


袖で、目尻に溜まった涙を拭く。ヨハナが母の隣へ座り、花を1輪差し出した。昔母親がしてくれたように、彼女の耳へと掛ける。


『すごく似合うわ。母、様…』


言いながら視線を上げ、言葉を止める。母が驚いた顔でこちらを見ていたからだ。


『イヴァン様…!』


震える声で呼ばれたのは、父の名前だった。


『っ…!?』


あたりを見回すが部屋には誰もいない。何よりも彼女はじっと、ヨハナを見ている。骨張った硬い手に触れられた瞬間、昔の母の言葉を思い出した。


“ヨハナ。あなたの瞳は本当に、イヴァン様に似てる”


彼女は両手でヨハナの顔を挟む。夫と瓜二つの娘の瞳を見つめ、もう一度名を呼んだ。


『ああ、イヴァン様…』

『か、母様、』


違うと言いたかった。捨てられたのだと、父親のせいでこのようなことになったのだと怒鳴り付けたかった。けれど、できなかった。


『来て、くださると、信じておりました…!』


母は涙を流して、微笑んでいたからだ。彼女は娘の手を取り、愛した男を見て泣いた。


『あなた様となら、私はどこへでも行きます…!』


弱い人だった。優しい愛の中でしか生きられない女性だった。


翌年、娘に看取られながら彼女の母は死んだ。たった一人きり。恋が全てだった女性の、あまりにも寂しい最期だった。






そこからの記憶は、あまり無い。ただぼうっと宙を見て、たまに本を読んで、味のしない食事を無理矢理詰め込んで、寝る。そうして毎日を過ごした。兄はあまり妹に関心を示さなかったし、ヨハナもまた然りだった。けれど追い出されなかったことは、今でも感謝している。母の最期を見た後では、あの父の元に戻りたいとは思わない。


そうして何度目かの冷たく凍てついた季節の後、よく晴れた小春日和のあの日。


『シャールカと申します』


兄が連れてきた奴隷は、そう言って顔を上げた。緊張した面持ちが目に入る。彼女の髪は、母が好きだった花と同じ色をしていた。

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