第22話


「…へ?あなたが、ペシュカ様なの?」


両手で包んだ白湯からは生姜の香り。一口飲んでみると辛味は無く飲みやすい。蜂蜜だろうか、舌に乗る仄かな甘味にヨハナはほっと息を吐く。


この白湯を作った人物、そしてヨハナをリリアナから助けた男は、彼女の文通相手だった。


「そういえば、料理人だって言ってたものね…」


料理人は料理人でも、宮廷料理人だったらしい。正しくは、見習い。

大きな体格に優しげな顔つき、まるで熊のような出で立ちの彼は、ヨハナの様子を見ながら控えめに口を開く。


「あの、実は…15年ほど前にお会いしたことがあるのですが、覚えてはいませんか?」

「15年前?」

「はい。近所に住んでいたので、ヨハナ様とたまに遊ぶこともあったのですが」

「ま、またえらく昔の話ね…」


(ええと、当時はまだ父様の屋敷にいる時だから…)


くるりと一通り記憶を一周させたが、該当する思い出は見つからない。緊張した面持ちで待つ彼に、正直に残酷な事実を打ち明けた。


「…ごめんなさい、ちょっと分からないわ」

「いえ!あの時の僕は体が大きいだけのいじめられっ子でしたし、ヨハナ様が覚えてなくても、当然、です…」


そうは言いながらも、彼はしょんぼりと肩を落とす。まるで目に見えない尻尾と耳が、垂れ下がったように見えた。


(ぜ、全然、そうは思ってないじゃないのよ…)


隠しきれない彼の落胆は、ヨハナの心をちくちくと刺す。


「あの後、ヨハナ様は居なくなってしまって…」

「あ、ああ。私、母と一緒に兄の屋敷に移ったの」

「そうだったのですね。驚きました。まさか大事な財布を拾ってくれた女性が、ヨハナ様だったとは…。もう二度とお会いできないのかと思っていたから、すごく嬉しくて…」


まるで幸せな思い出を語るように、彼の口元が綻ぶ。けれどすぐに眉尻を下げた。


「手紙、すみませんでした。園遊会の準備が忙しく、返信を書く時間が取れなくて…」

「ああ、そうなの。気にしなくて良いわ」

「宜しければその、今後も文通を続けていきたいのですが…ご返信は頂けますか」


緊張した面持ち。目の前で動く喉。ヨハナがぱちりと瞬きをする。


「も、もちろん。私も楽しかったし」

「本当ですか!?」


喜びのあまりか、彼の両手がヨハナの手を掴んだ。ところがすぐに我に返り、慌てて手を放す。その顔は真っ赤である。


「す、すみません!!とんだ失礼を!」

「い、いえ。大丈夫よ…」


再会を喜んだ彼だったが、長くその場に居ることはできなかった。上司だろう、彼の名を呼ぶ声が聞こえたのだ。大慌てで立ち上がる。盆と空になった容器を手にヨハナに一礼し、走って行った。


「忙しい人ね…」


ヨハナと目が合うと、彼女に向かって大きく手を振った。思わず笑って、手を振り返す。

先程までの鬱々とした気分は既に、跡形もなく消えていた。






「……」


それから数日後、宣言通り彼からの返事は来た。ヨハナは自室でその手紙を読む。便箋をめくる度に、自然と笑みがこぼれた。


(可愛い人だったわね)


手紙には、会えたことの感謝と喜びが綴られている。あの日の嬉しそうな顔を思い浮かべて、ヨハナの心は勝手に弾む。


「ヨハナ」


静かな室内に声が響く。バルトロメイだった。夕陽に背を向けて立っていて、身体の前面が影になり黒く見えた。その姿に一瞬、どきりとした。


「縁談が来た」


バルトロメイはたった一言、そう言った。


『決めた。もっと酷い縁談をアンタに宛がってあげるから』


リリアナの台詞が過る。あれから数日、宣言を実行に移すには十分だ。ヨハナも権力者の娘であり、この国の将軍の妹だ。父親に、そしてバルトロメイに多大な利益のある結婚なのだろう。


(…分かってる)


自分に言い聞かせるようにそう思って、椅子から立ち上がった。


「その縁談、受けるわ。兄様」


先程まで浮き足立っていた心が、底に落ちる。手の中の手紙から目を逸らした。


「そうか」


妹の決断に、バルトロメイはそれだけ言って頷いた。


「兄様」


用が済み立ち去ろうとするその背中に、ひとつ声を掛けた。彼の足が止まる。


「私、知ってるの」


その言葉にバルトロメイが振り向いた。返事は無い。けれどヨハナは意に介さず、口を開く。


「たとえ戸籍が無くたって、シャールカが幸せになる方法が、ひとつだけある」

「……」


そう言っても、バルトロメイは眉ひとつ動かさない。だから、腹が立った。


「シャールカが、兄様の子供を産めばいい!」


叫ぶように、事実を口にする。これまで何ひとつ口答えをしてこなかったヨハナの一言は、確かにバルトロメイの耳に届いた。


母親が誰であろうと、国で生まれた権力者の赤子ならば当然戸籍は発行される。将軍の子供を誰も邪険にはしない。それは同時に、その母親であるシャールカが蔑ろにはされなくなることを示している。条件が揃えば、シャールカが人権を得るのも夢ではない。


「そうして兄様が周囲に示せば!シャールカが誰かに襲われることも、物のような扱いをされることだってなくなる!子供を生んで、妻になる、人並みの幸せも掴める!」


そう言って、自身の胸に手を当てる。


「私は、政略結婚の道具になるつもりで生きてきた。母の恩もある。兄様が望む通り、兄様が最大限得をするように、結婚するつもり」


この家に来た時に、ヨハナが最初に決意したことだった。私情は二の次、結婚なぞ彼女にとっては何の期待もない。


「けど、シャールカは違うでしょう!?ただ普通に生きてきて、人の為にここへ来て、そして兄様が、兄様だけが、幸せにできる力を持ってる…!」


声が震える。バルトロメイは当然、この事実に気付いていた筈だ。それでも一切手を出さず、飼い殺しにし続けた理由を、今ヨハナは聞いている。


「あの子が大事なら、一体どうして!一緒に生きようとしないのよ!!」


静寂が訪れた。肩で息をする彼女の息遣いだけが、場に響く。


「…シャールカが、奴隷だからだ」


けれど、返ってきたのはいつもと変わらない冷静な声色。瞬間、頭に血が上った。咄嗟に近くにあった机を、勢いよく叩く。乾いた音が響いた。


「ああそう、責任は取りたくないってわけ!美味しいところだけ持っていきたいの!?若い内だけ手元に置いて、飽きたらハイさよなら!?」


いつの間にか、ヨハナの両目からは涙が溢れていた。期待を裏切られた為に生じたものであると理解するのに、少し時間が掛かった。


(兄様は、父親とは違うって、心のどこかでそう思ってた…)


服の袖で、涙を乱暴に拭った。吐き捨てるように小さく呟く。


「やっぱり、あの男の息子ね。本当、最低…最低よ…!」

「…ヨハナ」


顔を上げると、バルトロメイと目が合った。いつもの通りの無表情。黒い瞳に射抜かれて、ヨハナが身動ぎする。


「っ…」


ヨハナは兄のことが、ずっと苦手だった。何を考えているのか分からない冷徹な表情に、有無を言わさぬ物言い。そうして、彼はたった一言、強い言葉を落とした。


「俺はシャールカと、共に生きる気はない」




「……」


その台詞を、シャールカは扉越しに聞いていた。突き付けられた非情な宣告を、半ば放心状態でゆっくりと反芻させる。扉の向こうで、ヨハナが言葉に詰まる音が聞こえ、黙って、その場を後にした。


「……」


(旦那様が私を買った理由は不明ですが…手を出さない理由はこれで、判明しましたね)


回廊から、沈み行く夕陽を見て目を細める。先日よりも少しだけ早くなった日没は、シャールカの髪よりも金色に輝き、空全体を鮮やかな錦色に染め上げていた。


(調子に乗って、いたのです)


バルトロメイが、少なからず自分に情を移してくれている。そのことは理解している。


けれど単純に、失念していたのだ。シャールカは奴隷だ。国籍も戸籍も市民権もなければ、人権もない。結婚など夢のまた夢、恋が成就することも有り得ない。いつか現れるバルトロメイの結婚相手と同じ土俵に立つこともなく、ただ捨てられる、それだけの話である。


「っ…!」


一粒、こぼれた涙が頬を伝って地面に落ちていく。持ってはいけない希望だったと、奴隷と言う身分をこの日初めて、悔しく思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る