第21話
頭がくらくらする。視界の四隅が黒ずんだことで、そこではじめて呼吸ができていなかったのだと気が付いた。
「まあ!大丈夫?」
ふらついたヨハナの腕を、リリアナが掴んだ。強い力で引き寄せられて、思わず眉根を寄せる。けれど痛みで我に返った。
(一体どの口が、言うのよ…)
強く睨み付けたものの、リリアナはどこ吹く風。両手を合わせ、微笑んだ。
「ふふ、ヨハナ。貴女に良い縁談があるの」
「…へえ、どんな?」
震えながらも、何とか声を出す。崩れそうになる足を立たせ、意志を強く持つ。反応すれば彼女の術中に嵌まるだけ。このまま冷静に、場をやり過ごそうと思ったのだ。
「お父様が見つけた方なんだけどね、中都市の太守のご子息らしいのよ」
「…へえ、良いわね」
「確かに地位は高いし、将来性も高いわ。けど、ひどく短気で加虐趣味のある人なんですって」
そう言って、リリアナは大袈裟に眉尻を下げた。
「そんな暴力的な人、ヨハナが可哀想でしょう?だから、私…」
「別に良いわ」
ヨハナはあっさりと肯定的な台詞を口にする。予想外の一言だったのか、リリアナが一瞬止まった。それでも気を取り直し、彼女は先を続ける。
「ええ…だって、そんなの絶対、幸せな結婚じゃあないじゃない」
「だから?別に私、結婚で伸し上がろうとか、間違いなく幸せになれるなんて、思っちゃいないもの」
ヨハナは淡々と口にする。それが心の底から言った彼女の本音であることは、すぐに分かったのだろう。リリアナの取って付けたような哀れみの表情が一転、つまらなそうなそれに変わる。最後にため息と共に、呟いた。
「まあ、困ったら他の男性に縋れば良いものね。方法は母親から聞いてるでしょうし」
ばちんと、何かが破裂するような音が鳴った。
「は…?」
リリアナが呆然と自身の手を見る。痺れるような痛み。ヨハナか彼女の腕を、強い力で振り払ったのだ。予想外の行動に驚く彼女に向かって、ヨハナは口を開く。
「どうして分からないの?」
「何を…」
「私の母親が捨てられたように、アンタだって捨てられるに決まってる」
ヨハナが言い切る。厳しい口調だったが、父であるイヴァンに似た黒い瞳はどこか、同情的だった。
「大体、アンタが信じてることだって――っ!?」
言葉の途中でヨハナがよろけた。壁に背中がぶつかり、鈍い痛みが走る。顔を上げた先にふたつの手のひらを見て、リリアナに突き飛ばされたのだと知った。
「ムカつく女…!」
先程までの愛想が嘘のように、憤怒の形相でこちらを睨み付けている。その振り上げた手が、平手打ちの形を取った瞬間のことだった。
「白湯は如何でしょう」
第三者の声が響いた。視線を向ければ、盆を手に持つ男の姿。服装や台詞からして、この園遊会の配膳係だろう。彼は剣呑な空気の中で、笑って口を開いた。
「妊娠されているご婦人専用に、配っておりまして」
「はあ!?要るわけないでしょ!」
この場に似つかわしくない笑顔と台詞に思わず、リリアナが大声を出した。少し離れた位置にいた者も驚き、注目が集まる。
「これは失礼を。ですがそろそろ陛下のお目見えの時間でもありますので、会場に…」
周囲の視線を感じ、リリアナが舌打ちをする。潮時と判断したのか体は会場へ向けつつも、最後に、こちらに顔を近付ける。血走った瞳がヨハナを捉え、桜色の唇が歪な弧を描いた。
「決めた。もっと酷い縁談をアンタに宛がってあげるから。性格も見た目も最悪、けど位だけは高い相手なんてどう?」
ヨハナの答えは聞かなかった。服の裾を翻し、こちらに背を向けた。吐き捨てるように呟く。
「アンタが頼りにしてる義兄さんだって、守ってくれはしないわよ」
その背中が会場へ消えていく様子を見送って、ヨハナが壁に身を預け息を吐いた。
(そんなこと、分かってるわ…)
「……」
「あの、具合は大丈夫ですか…?」
眉間に皺を寄せ目を閉じていると、先程の青年が恐る恐る話し掛けてきた。ヨハナは軽く微笑んで、彼に礼を口にする。
「ええ、平気…平気よ。助けてくれたのね。感謝するわ…」
「白湯をどうぞ。ほら、座って」
「ありがとう…」
彼に示された通り、傍にあった切り株に腰を落とし白湯を受け取る。自身の指の先を見ると震えていた。
「……」
再び俯き瞼を閉じた瞬間、ふわりと何かが掛かった。柔らかで温かい感覚に、顔を上げる。
「……?」
その何かは、彼の上衣だった。思わず笑って、彼に突き返す。
「良いのよ。係員用の衣装を今脱いだら貴方、怒られるでしょう」
「いっ、いえ!大丈夫ですから!使ってください」
ぶんぶんと首を振る。自信の無さそうな細かな動きが、まるで小動物のようだと思った。硬い石のようだった緊張が解れて、ヨハナの顔からは笑みが溢れる。少しばかり緩んだ彼女の表情を目にして、彼は迷ったのちに先を紡いだ。
「あの。こんな時に不躾かとは思うのですが…」
ごくんと喉を鳴らして、緊張した面持ちで口を開く。
「ヨハナ様でいらっしゃいますか…?」
「え…?」
予想だにしなかった発言に、ヨハナが顔を上げ彼を見つめる。少し大きな体格の彼は、とても人の良さそうな青年だった。
『力の強い者を相手にした時こそ背筋を伸ばせ』
これは、シャールカの父が会談の際に言った言葉だった。相手は北クルカの役人で、彼らの貿易拠点を作るために住処の立ち退きを迫られていた。相手は大国で、こちらは弱小民族。受け答えひとつ間違えば、国際問題へと発展する。まだ若く幼いシャールカには荷が重すぎた。
『見るべきは装飾や地位、容姿でも言葉でもない。本質だ』
けれど彼女の父親は、小さな娘に一切の妥協を許さなかった。多大な権力を持つ者を前にしてこそ、対等な位置に居ろと言う。当然、自信がなく尻込みする彼女に、彼は背中を向けた。
『シャールカ。忘れるな』
「……」
ゆっくりと瞼を開ける。懐かしい思い出を端へと追いやって、シャールカは前を見据える。あの時とは違う。当時父と共に会談した場所は双方の中間地点、殆ど自分達の生活圏内だった。けれど今彼女が居る場所は大国の真ん中、後宮、そして相手は役人どころか皇帝だ。
それでも父の教えの通り、背筋を伸ばして口を開く。
「お話は、できません」
その答えを聞いて、オルドジシュカは一度だけ瞬いた。
「…部族の恨みを晴らそうとは思わないのか?」
それには答えずに、シャールカは彼女から視線を外した。金の睫毛を一度だけしば叩いて、口を開く。
「私も、父さえも生まれるずっと前。多くの国に囲まれて、我らの祖先は生きてきました」
村の年寄りから聞いた昔話。文字を持たない彼らが、口伝によって伝えてきた自分達の歴史。
「そこで先祖が得た教訓は、人を殺すこと。老人を忌み戦士を尊ぶ…他者を蹂躙し略奪することこそ、この大陸で生き残る唯一の手段である。彼らはそう結論に達しました」
「……」
「その教えに背き、当時の部族から抜けたのが我ら東の民。そして残った部族が西胡と呼ばれる遊牧民となったのです」
そこから袂を分かち、住む土地を、信仰を違え生きてきた。人数が減ったことで互いに全滅の危機に晒されたこともあった。永い時が経って、当時を知る者は死に、既に縁も、親交も途絶えた。
「それでも、東も西も元は同じ民族。おそらくは似ている点も多い」
「ああ。だからこそ…」
「その後は?」
オルドジシュカの声に、被せるように聞く。彼女の瞳の奥をじっと見つめる。重ねて、疑問を口にした。
「怒りに身を任せ貴女方に情報を明け渡し、復讐を遂げて、その後は?」
「平和に暮らせば良いだろう。前のように、動物を飼い畑を耕し生きれば良い」
提示されたのは、目の眩むような美しい過去。それでもシャールカの瞳は幻想を映さない。静かに首を振る。
「西と東は似ている。だからこそ、我らにとっても重要な情報が大国に奪われることになる。そして…いざ貴女方と敵対をした時に、その牙は私達の子孫に向くでしょう」
『シャールカ』
あの日。広い背中の向こうで、父は言った。
『忘れるな。お前の肩にはいつだって、守るべき者がいる』
「情報は、お渡しできません」
はっきりと宣言する。するとオルドジシュカがわずかに動いた。静かな室内に、衣擦れの音が響く。
「…未来を案じている場合か?このままだと、呼び名の通りになるぞ」
その一言に、シャールカの心臓が大きく鳴った。同時に息も止まるが、最後には鼓動を抑え希望を吐き出す。
「そうはなりません。父は、王は…まだ生きていますから」
あの大きく広い背中を思い出す。伏し目で瞬いた。
「他者から奪わない選択を取った先祖を臆病者だと言う者も居ましたが…私はあの村に生まれて、幸せでした」
決して豊かな暮らしぶりではなかった。この国のような豪華な装飾品や食事もなければ、娯楽もずっと少ない。過酷な土地で生きるが故に、苦労は多かった。
けれど、好きだった。共に生きる家族も、生に溢れた暮らしも、息を呑むほど美しい風景も、その全てが詰まった故郷も。
「……」
「…底意地の悪いことばかり言ったな。すまなかった」
黙っていると、髪に、オルドジシュカが触れた。彼女は銀の混じる長い睫毛をひと度閉じて、どこか遠くを見つめる。
「王になれば全てを守ることができると思っていたが…なかなかどうして、私の手のひらは小さなままだ」
か細い声で呟く。
「私が守れるものと言えば、この箱庭ぐらいしかないよ」
「……」
その時垣間見た子供のような表情に、オルドジシュカの素を見た気がした。どこか悟りにも似た彼女の諦観は、ここから来ているのだろうとも思った。
「が、お主に興味があるのは本当だ」
オルドジシュカの声色が変わった。別の意味で子供染みた表情になり、興味津々と言った様子でシャールカの顔を覗き込む。
「聞かせてくれ。クルハーネクとの関係は順調か?」
「!」
その一言に、痛いところを突かれたとばかりにシャールカが黙り込んだ。
「……」
「……?」
額からは汗、握りしめた拳は震え、視線を外す。それでもオルドジシュカが見つめていると、やがて観念したように、口を開いた。
「順風満帆などとは正反対でございます…!」
唇を噛み締める。
「旦那様と来たら、私にほんとひと触りでさえしないのですよ…!」
「奴が?」
「はい!媚薬を飲んだ時も、足を露出させた時も、この間などは偽乳にさえ触れられなかった…!私の女としての矜持は既にぼろ雑巾のようでございます!」
「……」
オルドジシュカはぱちりと目を丸くする。そして次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。ひとしきり笑った後で、湧き出る笑みを押し殺しながら、口を開く。
「あ、あいつがそのように優しい男だったとは…初耳だ」
「そうでございましょう!私も驚いているのです!鬼神と名が付くからには、性奴隷を買ったからには、さぞや恐ろしく深い欲望があるのかと私はすっかり思っておりましたのに!股の間に付いている大将軍閣下は、一体何をしているのか」
「大将軍なのか」
先程までの厳格な情報制限が嘘のように、凄まじい勢いで情報が開示される。積もり積もった不満が止められない止まらない。最後に拳を振り上げ、シャールカは思い切り叫んだ。
「旦那様が私に触れたことがあるのは数える限り!寝惚けた時と、あと…」
「あと?」
目元を拭いながら、オルドジシュカが顔を上げる。同時に、振り上げたシャールカの拳は下を向いた。
「私を、助けるとき…」
消え入りそうな声で呟いた。オルドジシュカはその表情をじっと見つめる。机の上で、頬杖をついた。
「…先程お主のことはイグナーツに聞いたと言ったが、私が初めて知ったのは、もっと前だ」
「……?」
言わんとすることを計りかね、シャールカが首を傾げる。オルドジシュカは微笑んで、先を続けた。
「書庫で、クルハーネクが事件を起こしてな」
「旦那様が…?」
「ニーヴルトと一悶着あったのだ。奴はあまり多くは語らなかったそうだが、奴の所持品を傷つけようとした為に怒ったのだと、ストラチルは言っていた」
そこで言葉を切って、こちらを見た。
「お主のことだったのだな」
「っ…」
シャールカが言葉に詰まる。そんなわけがないとは思いながらも、逸る心が止められない。顔を押さえると、とても熱かった。
その様子を見ながらオルドジシュカは目を細め、シャールカの頭に触れた。
「そう、お主に興味があるのは本当だ。このまま帰さずにおくのも手かとは思っていた。私の元に居れば幸福を保証できる」
そう言って、自信たっぷりに微笑み胸を張った。
「戸籍の有無も後宮には関係ない。この国で最も不自由ない暮らしに安全な生活をくれてやる。それに私は博愛主義者だ。何人妻がいようと平等に愛する。一度こちらの世界に来れば、男には戻れん」
言いながら、喉の奥で笑う。けれど最後にはシャールカの髪から手を放し、少しだけ寂しそうに呟いた。
「が、あいにく無理を強いる趣味はない」
手を放されたことで、金糸が空中にきらきらと落ちる。そんなふたりの耳に、遠くから物音と喧騒が聞こえてきた。
「……?」
「迎えが来たようだ。クルハーネクが指名手配される前に、行きなさい。私もそろそろ時間だしな」
「し、指名手配…?」
物騒な単語に、シャールカが大慌てで立ち上がる。扉の前まで来て、深く頭を下げた。
「失礼しました」
「ああ」
オルドジシュカは背を向けたまま、頭を傾けた。銀髪がさらりと揺れる。最後に一言だけ、口にした。
「話せて良かった。東胡の王よ」
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