第20話
「全く、何だと言うんだ…」
ツィリルがぶつぶつと不満を漏らす。あの目立つ金糸が消えて行った奥殿の方を見ながら、眉根を寄せた。
「陛下は何故あの女を…」
「単に、陛下のお好みだったのでは?」
そんな彼に、背後の部下が声を掛けてきた。
「シャールカ嬢と言うのですか。初めてお会いしましたが、自分は好きです。ああいった気の強い女性」
少しばかり好色のきらいがある彼は、後頭部を掻きながら続ける。
「容姿も声も好みですし、しかもあれで夜伽の相手もできるとは。陛下と閣下のお気に入りでなければ声を掛けていたかも」
「はあ?趣味が悪いぞお前、はっ…!?」
言い掛けて、ツィリルが固まった。いつの間にか背後に、バルトロメイが居たからだ。汗が吹き出す。部下も振り返りこそしなかったが、溢れ出る殺気に鬼の登場を感じ取った。
「か、閣下…っ!」
そしてバルトロメイと言えば、射殺さんばかりの血走った目でこちらを見ていた。正しくは悪口を言ったツィリルではなく、彼女を誘わんとした部下の方を。彼は一言だけ呟く。
「…そうか」
一瞬で、場の気温が著しく下がった。やがて部下がシャールカを思い出すだけで心臓が縮み上がるようになった頃、バルトロメイが動いた。それに反応してふたりの肩がびくりと震える。
「ヨハナとシャールカが来ているのか?俺は聞いていないが」
「え!ええと、ヨハナ様は先ほどお見かけしました」
確かにこの兄妹は離れと母屋と微妙に住む敷地は違うが、同じ家に暮らしてはいる筈だ。つまりは今日の式典への参加も同じ家から出てきている筈で。それを知らないとはお前の家庭はどうなってんだと思いながらも、先を口にする。
「閣下の性奴隷は、陛下に連れられて後宮に」
それを聞いた瞬間、普段テコでも動かない無表情を持つバルトロメイの顔色が変わった。
「何…?」
そこからの動きは早かった。彼はすぐさまその場から踵を返して歩き出す。
「か、閣下!どちらに行くのですか!」
嫌な予感に襲われ、ツィリルが慌てて引き留める。バルトロメイは振り返らずに、一言だけ呟いた。
「後宮だ」
間髪を容れずに返ってきた答えに、ツィリルと部下がぎょっと息を呑む。
「おっ、お待ちください!後宮に男が一歩でも立ち入れば即刻打ち首です!!」
「構わん。そいつの首を刎ねる」
あまりに堂々と宣言したことで、一瞬皆が納得しかけた。だがしかしすぐに事の重大性に気が付き、大慌てでバルトロメイの体にしがみつく。
「閣下が乱心された!」
「クルハーネク閣下を止めろ!」
屈強な男達に阻まれてもバルトロメイは歩みを止めない。盛大に蹴散らし前に進む。一体何の余興かと招待客が集まってきた。拍手を受けながら、歩を進める彼の首筋を、一筋の汗が流れた。
バルトロメイが焦燥を抱くのも無理はない。後宮に男が立ち入ることを禁止されている理由は、万が一にも王が囲う妻達と不貞行為があってはならないからだ。その通り、この国の現皇帝が性愛を向ける対象は男ではない。女だ。
オルドジシュカは筋金入りの――女色家だった。
「権力者の多妻制度が、より多くの世継ぎ候補を設けることを第一目的として始まった制度であることは周知の事実だが…」
建物全体を包む洗練された空気に、花の香り、鈴を転がすような笑い声。入念な身体検査を終え、回廊を歩くシャールカを、興味津々といった面持ちで見送る妻達。そして彼女の前を歩いていたオルドジシュカが足を止め、振り返った。
「王位継承者同士が殺し合いの末に全滅したせいで、私のような王宮の外で育った末席の姉妹が王へと祭り上げられるとは皮肉でしかないな」
廊下で頭を下げていた妻のひとりの顔に手を当てる。赤く染まっていく頬を近くで見ながら、その切れ長の目を細めた。
「やはり争う相手は少ない方が良い。王位は妹の息子に継がせることになっている。お陰で、私は子を産む必要もなく勝手気儘に愛らしい花に囲まれることができると言うわけだ」
言いながら、オルドジシュカが部屋の一室に入った。中央に置かれた椅子に腰掛ける。机に肘を置き、向かいの椅子を指し示す。
「茶に菓子、服や装飾品。ここには何でもあるぞ。何が欲しい?」
けれど示された椅子には座らず、シャールカは首を振った。姿勢を正し、じっとオルドジシュカの目を見つめる。
「私はまだ、貴女の目的を聞いていません」
それを聞くと、彼女は肩を揺らして笑った。辺りに居た妻を数人呼ぶ。
「花を愛でるのに理由が必要か?」
ひとりに自身の冠を外させ、もうひとりには菓子を持ってこさせた。そうして細く美しい指先で運ばれた落雁をひとつ、口にする。
「お主のことはイグナーツから聞いたのだ。故郷を追われた遊牧民の姫だと。会ってみたくなった。権力者の気紛れだ。王とは、我が儘なものだからな」
器に並んだ落雁の中からひとつを選び取り、シャールカの前に掲げた。けれど顔のすぐ前まで差し出された干菓子には一瞥もくれず、彼女は銀の混じる瞳を見続けている。
「父は言いました」
やがて開いた口からは、迷いのない声が溢れた。予想外の一言にオルドジシュカが片方の眉を上げ、それに応えるように、シャールカは先を紡ぐ。
「『力の強い者を相手にした時こそ背筋を伸ばせ。見るべきは装飾や地位、容姿でも言葉でもない。本質である』」
「…ほお」
オルドジシュカが落雁を手にしたまま、机に肘を付いた。シャールカは続ける。
「誰も遣わせず、わざわざ人前に姿を現し、私を連れ出した理由は何ですか?」
「……」
「『その娘の王は私ではない』とのあの台詞。当たり前です。私は奴隷ですから、『その娘は私の民ではない』が本来の意図でしょう。けれど貴女はそうは言わなかった。わざわざ、自身の立場を下に置くような言い方を選んだ」
シャールカが唾を飲み込むと、きゅうと喉が鳴った。けれど辺りの彼女の妻達の表情に、確信を持って先を続ける。
「全て、私の立場を気遣ったと考えなければ、説明がつきません」
連れ出す時も、ツィリルに責められるシャールカを、まるで助けるように現れた。女王との繋がりがあると分かれば今後誰も彼女を無下にはできない。皆の前で突き放すような言い方を避け、自身を謙譲する真似をした。オルドジシュカの民でもない、一介の奴隷に。
「我が儘などとんでもない。貴女の本質は思慮深く、優しく、他愛に溢れた方です」
シャールカが、彼女の向かい側の椅子に腰掛けた。最後に笑って付け足す。
「何よりも、モクリー様がそう仰っていましたから」
「あいつめ…」
オルドジシュカが頭を押さえた。隙間から、小さな舌打ちが漏れる。
「だから、貴女が私をここに連れてきたのには、興味以外の重要な理由がある筈です」
顔を上げたオルドジシュカと、視線がかち合った。彼女の目を見てもう一度聞く。
「…私に何のご用でしょう」
「……」
オルドジシュカが素早く周囲の人間に視線を送る。すると直ぐに、菓子や香炉、花瓶の類いが片付けられ、部屋を仕切る幕が閉められた。妻達ひとりひとりが頭を垂れて退室する様を見送る。最後に護衛ひとりだけが部屋の隅に残るのを待って、彼女はシャールカに顔を戻した。
「…先日、ニーヴルトが率いる小隊が消えた」
知った名前に、シャールカの指先がぴくりと動く。オルドジシュカは彼女の表情を見ながら続けた。
「気持ちの良い男では無かったかもしれんが、私の部下で、この国に必要な将軍で、何よりも国を愛していた」
「……」
「ニーヴルトが国境を越えたとの噂もある。亡命に謀反、王宮内では様々な憶測が飛び交っているが、私はそうは思わん」
そこで言葉を止め、たった一言、単語を口にした。
「ハヴェル・ドルボフラフ」
「!」
シャールカの顔色が僅かに変わる。その細かな表情の変化を察知して、オルドジシュカは畳み掛けるように言う。
「そうだ。お主の仲間を殺し、お主を故郷から追い出した当人よ」
心臓が一際大きな音を立てた。シャールカの瞳が沈み、机の下で手のひらを握る。
「家族から聞いた話によれば、ニーヴルトは西胡に赴いたとの情報もある。おそらくはハヴェル本人に牽制をしに向かったのだと思う」
「なぜ、そのような無茶を…」
「皆、一度は滅びかけた弱小民族には何もできはしないと甘く見ているのだろう。その状況で、私だけが不安を口にした。…それら全てが事実ならば、ニーヴルトの遠征は私の責任だ」
「そんなことは…」
否定をしようとシャールカ開きかけた口を、彼女は手を掲げ止める。伏し目で一度、瞬いた。
「彼の地は戦争好きな先代さえも手を出さなかった領域。便宜上、必要のない土地であると侵攻を止めたが、そうでない。得るものよりも犠牲の方が多いと判断したのだ」
そこでオルドジシュカが言葉を止める。外の喧騒が聞こえてきた。朗らかで陽気な笑い声、鳥のさえずり、風が吹き舞い散る葉の響き。それをじっと聞きながら、どこか遠くを見るような目で宙を見る。
「…先々代は国を創り、先代は国として自立が可能なまでに国土を広げた。私の役目はこの平穏を維持することだと思っている」
「……」
「だが、西胡の王がニーヴルトをこの瑞の将軍と分かっていて殺したとなれば、それは宣戦布告に他ならん」
眉間に皺を寄せ一点を見つめる。それに気が付いたオルドジシュカが、立ち上がった。
「あの男が憎いだろう」
体を前に机に手を付く。とん、と音がした。そのまま、シャールカへと囁くように先を続けた。
「平和に生きてきたお主達の幸福を壊し、生活を踏みにじり、それでもまだ歩を止めぬあの男が」
机に付いた手とは別の手を、シャールカの頬へ寄せる。年相応に骨張った、けれど長く美しい指が白い肌を撫でた。
「情報が欲しい。草原に生きる部族ならではの暮らし、生き方に信仰、そして弱味」
そうして指先が唇へと到達した瞬間、ぐいと顔を近付けた。
「我らに手を貸せ。何の力もない娘が復讐を遂げるには、それしかない」
オルドジシュカの表情がシャールカの瞳に映る。部下を失った悲しみ、事態を引き起こした慚愧の念、そして覆い尽くさんばかりの諦念が見えた。
「まあヨハナ!」
明るく楽しげな声とは裏腹に、名前を呼ばれた彼女の心臓はぎくりと震える。垂れ目に愛らしい顔立ちは人畜無害そのものだが、ヨハナは警戒したように現れた女性から一歩距離を置いた。
「リリアナ…」
「とっても久しぶりね!」
「そうね…」
言いながら、助けを求めるように周囲を見回すが、会場から少し外れた建物の影に、殆ど人通りはない。目立たないように行動していたことが災いしたと、心の中で舌打ちをする。嫌々ながら戻した視界に、ふと見慣れないものが過った。
「その、お腹…」
「ふふ。分かっちゃった?」
そう悪戯っぽく笑う目の前の彼女の下腹部は、細い四肢からは想像できない膨らみがあった。
(あの人との、子供か…)
本来ならば祝うべき慶事であるのだが、ヨハナの視線は冷たい。彼女が自身と同年代であると言う事実には、いつだって吐き気を覚える。
「リリアナ。お元気そうで良かったわ。急ぐから、それじゃ」
その場から立ち去ろうとしたが、彼女に腕を掴まれた。思わず振りほどこうとするヨハナに対し、彼女は満面の笑顔を向ける。
「ヨハナ、もっとお話しましょうよ!私達、家族でしょう?それとも、お父上を呼んで欲しいのかしら?」
ほんの僅かに声が低くなる。掴まれた腕からは、ぎちりと音がした。
「……」
「ふふ。こんなところで会うなんて、びっくりしたわ!私はイヴァン様の伴侶として招かれたの!何たって、元太守様ですから」
黙ってしまったヨハナにはお構いなしに、リリアナは話し出す。最後に、わざとらしい仕草で小首を傾げた。
「あら?とすると貴女は一体、どうやってここに来たの?」
「さあ、兄様の伝じゃない?」
突き放すような返事を放つが、彼女がその手を放す様子はない。苛々と唇を噛む。その後も無視を決め込んでいると、リリアナが桜色の唇を開けた。
「貴女のお母様はお元気かしら?」
その一言にヨハナが目を見開いた。信じられないものを見る目で、リリアナを見つめる。だって彼女が、知らない筈がない。
「アンタ一体、何を…」
「ああ、忘れてたわ。死んだのでしたっけ?」
まるで何ともないように、冷淡な言葉が落ちる。けれどリリアナはほんの少しも悪びれずに、とびきりの笑顔で微笑んだ。
「気を悪くしたらごめんなさいね。だってイヴァン様は、葬儀にさえ行かなかったものだから」
リリアナは花街の出身だ。そしてヨハナの父、イヴァン・ラーンスキーの後妻だった。
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