第18話


「ヨハナ様。またお手紙ですか?」


その言葉に手を止め、ヨハナが顔を上げた。自室いっぱいに広がるのは墨の香り。椅子に腰掛け裁縫をしていたシャールカと目が合った。彼女は首を傾げ先を続ける。


「ペシュカ様との文通で?」

「…ええ」


質問に頷き、再び机に向かう。竹紙の上で文の続きを描き始めた。


先日ヨハナが、大金の入った財布を拾った。財布に名前と住所が記されていた為、それを元にシャールカに届けさせた。するといたく感激をした持ち主から感謝の手紙を預かった。是非お礼がしたいと望む彼に、そこまでして頂く程のことではとその返信をまた返す。そうしてヨハナと彼の文通は続いていた。


「相手は料理人らしくてね。料理の話もそうだけど、どの店の何が美味しいとか、私の知らない食材の話とか。けっこう楽しいのよ」

「まあ、素敵ですね」


布に針を通しながら、シャールカが微笑んだ。縫った箇所を確認し、最後にぱちりと鋏で糸を切り落とす。


「ふふ。お手紙を直接届けに伺うと、ペシュカ様ご本人が出てきてとても嬉しそうに迎えてくださるのです。ヨハナ様のお返事が待ち遠しいのですね」

「そう…」

「年頃の男性ですし、どうでしょう?お手紙から始まる恋も多くあると聞きますよ」


その言葉に、ヨハナは軽く笑って手を振った。


「会ったこともないのよ。…そんなんじゃないわ」


最後の方は、自分に言い聞かせるように小さく呟く。するとがたんと音を立てて、シャールカが立ち上がった。


「できました!ヨハナ様。どうぞこちらを」

「ああ。ありがと…」


差し出されたのはヨハナの上衣。ほつれてしまった箇所を、シャールカに縫わせていたのだ。なんともなしに裏側を捲って、びくっと身を震わせた。


「アンタ…裁縫下ッ手くそね…」


表はそれらしく仕上がってはいるものの、裏面はもみくちゃに糸が踊っている。完成した現物を前に、シャールカがぐうと唇を噛み締めた。


「あいにく裁縫や料理よりも、野山で獣を狩ったり弓や乗馬の訓練の方が向いていたようで…」


悔しそうに呟きながら、続いて別の素材を取り出す。剥き出しの真綿を両手に持ち、はっきりと宣言した。


「ですがそうも言ってはいられません!今は大いなる目的があるのですから!」


そう言うシャールカの指先にはあちこち包帯が巻かれている。いくら不器用とは言え、ヨハナの上衣を直すぐらいではこのようなことにはならない。一昨日から彼女が熱心に作っている何かの為に、負った怪我だった。


「このシャールカ!一計を案じます!」


こちらに背を向け、意気揚々と作業を進める。


「……」


その様子を見守るヨハナの脳裏に浮かぶのは、先日の光景だった。シャールカの赤く染まった顔、見開かれた瞳。そしてバルトロメイが彼女の為に出世を捨てたと言う事実。


(シャールカの…あの時の顔は、どう見たって…)


今も苦手な裁縫で指先をぼろぼろにしている理由は、バルトロメイの為だと聞いている。そして彼女の兄もまた、シャールカにただならぬ感情を抱いていることも、薄々ではあるが把握している。けれどそれを知っていても尚、ヨハナの顔には暗い翳が落ちる。


(シャールカには戸籍がない。結婚なんて夢のまた夢。それどころか、また襲われたり命の危険が迫ったとしても、誰も助けられない。助ける理由がない)


「…シャールカ」


部屋の隅の小さな背中に向かって、迷いながらも先を紡ぐ。


「アンタが本気で兄様と幸せになりたいのなら、ひとつだけ方法が…」

「いかがでしょう!ヨハナ様!」


ヨハナがすべての言葉を言い切る前に、シャールカが勢いよく振り返った。同時にシャールカの胸のあたりがどしんと動く。


「……」


をしばらく眺めて、ヨハナは一度瞬きをした。


「……何?それ…」

「胸です!」


そう頷くシャールカの胸にあったのは、豊満な乳。服を内側から押し、確かに強大な存在を主張している。だがしかしご存知の通り、シャールカの胸は平均値よりも慎ましやかだ。もちろん急に生えたり伸びたりするものでもない。つまりなんだと言われれば、これは真綿と布で作った詰め物である。


「先日、御姉様方に胸の谷間に挟んで頂いた際、私はまるで天にも昇るような心持ちでございました…」


そう、シャールカは知ってしまった。大きな胸と言うのは、素晴らしい。程よい弾力に瑞々しい肌、自身を包む熱、良い匂いまでした。


そして気付いたのだ。自分に足りないものはこれであると。無理矢理膨張させた胸を張り、彼女は大きく宣言する。


「この乳を餌に旦那様を釣り、のこのこと寄ってきたところを捕獲します!名付けて巨乳大作戦です!」

「……」


そしてそんな胸を突き付けられたヨハナと言えば、ただその場で黙りこくる。そんな彼女に、シャールカが気が付いた。主人の顔を覗き込む。


「申し訳ありません、ヨハナ様。何か言い掛けました?」


ヨハナはしょっぱい顔で首を横に振った。


「ううん。忘れた」






「指をぼろぼろにした甲斐がありました…」


窓から月光が落ちる室内で、シャールカは呟く。


「先日は旦那様からとんだ攻撃を食らいましたが…」


バルトロメイが自分を守る為に出世をなげうった。その事実を聞いた時は、心が浮き足立ち鼓動は激しく音を立て、これは恋ではと思ったりもした。が、それから数日経った今、彼女は結論を出した。


「気のせいでございます!」


腰に手を当て力強く言い切る。


(私の務めは旦那様の性奴隷!小事に気を取られて大事を逃している場合ではないのです!)


ぱつんぱつんに膨らんだ胸を張って、彼女は目の前の扉を睨む。いつもの寝室の扉だ。ここから、バルトロメイは入ってくる。巨乳大作戦の決行は、今日この日今だった。自前で勝負しないと言う事実には少々負けた気はするものの、背に腹は代えられない。


(少々欲張りすぎた為に、普段の倍ほどの大きさになってしまっていますが、目的が目的ですからね。目立つに越したことはないでしょう)


胸を見ながらそうひとりごちる彼女の前で、ふと扉が開いた。廊下から入ってきたのは、今日も今日とて眉間に皺を寄せた仏頂面のバルトロメイの姿。


「旦那様。お疲れ様でございます」


彼に深く頭を下げて、シャールカは茶の準備を始める。


「ああ……」


なんともなしにこちらを見た、バルトロメイの視線が止まった。


「……」


そのまま彼の黒い瞳はじっと、シャールカの胸元に釘付けになる。その様子を横目で見ながら、彼女は満足げにほくそ笑んだ。


(ふふ…どうやら旦那様はこの豊乳が気になっているご様子…)


視線に気づかないふりをしながら、茶葉を取り出しせっせと移す。もちろん作業に乗じて偽乳を揺らすことも忘れない。そしてそんなシャールカに、実際に事が始まれば服を脱ぐのだと言う発想はなかった。


(この胸で旦那様のお顔を挟み、油断した隙に服を剥ぎ取り性交に至ります!)


「シャールカ。来い」


そう息巻く彼女を、バルトロメイが呼んだ。


「は、はい!」


(食い付いた!)


茶器を置き、慌てて彼の元へと近付く。この時シャールカの心にあったのは、達成感だった。気分は作った罠に掛かった獲物を見る狩人である。


「……」

「……」


近くに来たシャールカを、バルトロメイはじっと見つめる。黒い虹彩に真っ直ぐに射抜かれて、いよいよだと彼女の心臓が鳴り響く。そしてバルトロメイはその大きな手を伸ばし――シャールカを抱えた。


「何故言わなかった」

「え」


足が宙に浮いた。呆気に取られている間に、バルトロメイは彼女の背中と膝裏に腕を回し、横抱きにする。体勢が崩れ、そのまま彼の胸板に収まった。ぽかんと口を開けていると、バルトロメイが顔をこちらに向けてきた。


「明らかな異常だ。そんなにも胸部が腫れるとはただ事ではない」

「は、腫れ…!?」


彼が言っているのは当然、シャールカの偽乳のことだ。不器用な彼女が夜なべして一生懸命作った詰め物。もちろんバルトロメイを誘惑する為に。予想外の勘違いにぎょっと息を呑むが、バルトロメイは真剣だった。


「ち、違います!」


誤解を解こうと、シャールカは慌てて口を開いた。


「確かに普段の2倍ほどの大きさかもしれませんが、これは」

「馬鹿を言うな。よく見ろ。通常の4倍は腫れ上がっている」

「えっ。そ、それは言い過ぎでは」

「いや、間違いない。元は4分の1ほどの大きさだった筈だ」


シャールカの小さな胸にぐさぐさと言葉の刃を突き刺しながら、バルトロメイは扉を開けた。


「行くぞ。すぐにヨハナを起こし医者を呼ぶ」

「え!い、いえその、」

「安心しろ」


バルトロメイがシャールカから視線を外す。廊下を歩き出した。そして前を見ながら、力強く言った。


「必ず助ける」


そう言われた瞬間、シャールカの視界に変化が起きた。彼の周りがきらきら光って見えたのだ。その輝く何かがシャールカの額にこつんと当たる。心臓が高鳴り、思考が停止する。だから、思わず言ってしまった。


「はい…!」

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