第17話


「性奴隷。僕はお前のことが嫌いだ」


ツィリルが腕を組んで背筋を伸ばす。足の間を広げ、宙を睨む。所謂仁王立ちで、入ってきたばかりの扉近くから威圧を飛ばした。


「…それは奇遇です。私も貴方に対しては、嫉妬を抱えておりますから」


自身へと向けられた敵意に、シャールカが怯むことはない。キッと目の前の男を睨む。


「聞いてしまったのですよ…!妓楼の皆様方が、貴方のことを男色副官と呼んでいたことを…!」

「は、はあ!?僕はそんな風に思われていたのか!?だからっ!僕の恭敬をそのような下世話な感情と一緒にするな!」


二人揃って、ばちばち火花を飛ばし合いながら、今にも噛みつかんばかりの勢いで睨み合う。


「……」


そんな暑苦しい光景を前に、ヨハナは氷菓を口にする。舌の上を一瞬ひやりと冷やした甘味はすぐに、溶けて消えていく。


それをゆっくり堪能した後で、視線を上げる。彼女の部屋で威嚇し合うふたり。ひと月前に見た光景だ。違うところと言えば。


「…ストラチル様。そのお顔、どうされたの?」


ヨハナが質問した瞬間、ツィリルがぴたりと固まる。こちらを見て、言い辛そうに口を開いた。


「これは、その、閣下に…」


そう呻くように呟く彼の頬には赤み。わずかに膨らんでいる上、よく見れば小さく鬱血も浮かんでいる。

明らかに人為的な怪我の跡を前に、ヨハナはぱちぱち瞬きをして、彼の瞳へと視線を移した。


「え…。兄様に…?」

「はい…。これでもましになった方なのですが…」


自身の頬をそっと撫で、ツィリルは目を閉じる。


「だがしかし1ヶ月経つと言うのに、まだ腫れが残るとは…!さすが閣下の拳だ…」


どうやら殴打系の仕置きだったらしい。ツィリルは痛みを思い出したのか顔を歪めつつ、どこか嬉しそうにそう語る。そんな彼に大いに引きながら、シャールカは庇うようにそっと女主人の前に立った。


「ストラチル様。あの、何のご用でしょう…。ヨハナ様のご気分を害するので、なるべく早く帰って頂きたいのですが」

「…今日僕は、文句を言いに来たのだ」


するとツィリルは腕を組み直し、彼女を睨んだ。


「僕は一度殴られるだけで済んだ上、閣下を訴える気など微塵もない…しかし、ニーヴルトはそうは行かない」


唇を噛む。あの茶屋での夜、バルトロメイは彼をボコボコに叩きのめした。大慌てでツィリルが止めた為に殺人事件にこそ発展しなかったものの、殆ど半殺しに近い状態であった。


「完治にふた月ほど掛かる重症だ。僕が止めなければ更に長引いていただろう。そして今奴は、クルハーネク閣下の処罰を求める準備を着々と進めていると聞いている」

「……」

「このひと月、僕も動き回っては見たものの、地位争いをしていた相手を始末する気で暴力を振るったとなれば、モクリー公でさえ庇い切れんそうだ。奴が訴えを取り下げない限り、閣下の大将軍位は絶望的だ…」


ニーヴルトのことだ。今回の事件は、あらゆる根回しをした上で軍法会議にかけてくるだろう。バルトロメイは大将軍位の獲得どころか、下手をすれば降格、つまるところ将軍位の剥奪もあり得る。そこで言葉を切って、ツィリルは目の前のシャールカをじろりと睨んだ。


「そんな閣下の危機に対し、当事者の貴様がのうのうと暮らしていることに苛立ちを覚えてな」


と言うわけで彼は文句をぶつけに来た訳である。これ即ち八つ当たりである。


「……?」


ところがそんな怒りを向けられても、シャールカが謝罪を口にすることはない。この時彼女の心には、ひとつの疑問が落ちていた。


「あの…酒宴には勝ったのでしょう?一体何故、そのようなことに…?」

「は…?」


ツィリルの瞳が丸く弧を描いた。そのまま、信じられないものを見る目で彼女を見つめる。


「貴様、本気で言っているのか…?」

「え、ええ…」


戸惑いながらもシャールカが頷く。妓女の女性達には後日謝礼を持って会いに行ったが、そこでも何故彼女が助かったのかは分からなかった。ニーヴルトが都合の悪い事実には箝口令を敷いた為である。シャールカが聞かされていたのは、理由は分からないが自分の身が無事だったことだけだ。


そんな彼女に、ツィリルは目を見開いたまま続けた。


「性奴隷!ニーヴルトに襲われた貴様を、助ける為だろう!閣下は奴を止める為に、危険を冒したのだ!」

「だ、旦那様が…?」


シャールカが一歩後退ると、腰に机が当たった。一瞬視線を迷わせて、あり得ないと思い至り彼に視線を戻す。


「そんな筈は…」

「事実だ!あの時、僕は…」


ツィリルの声が尻すぼみになる。眉間に皺を寄せ、シャールカから視線を外す。そのまま伏し目で瞬き口を開いた。


「僕は、見捨てるべきだと思った…。大将軍の位だ。貴様ごときの価値とは、比べ物にならん」

「……」

「閣下は…あのような方では無かった!閣下は高潔で、野心家で、手段を選ばない方だったのだ!性奴隷!貴様が来てから全てが狂った!」


そこまで言って、ツィリルは背を向けた。苦々しい口調で吐き捨てる。


「貴様は、閣下にとって疫病神だ…」


扉が勢いよく閉じられる。その音が合図だったかのように、シャールカがふらつき、机に手を置いた。


「っ…」

「シャールカ」


ヨハナが声を掛けた。優しく彼女の背中を撫でる。


「あんまり気にしなくて良いわよ。この国のお偉い男性にとって、女は出世の道具なの」


遠くを見ながら呟く。


「…それは奴隷じゃない私も、変わらないし」

「……」


そんな慰めにも、シャールカは黙ったままだ。自分の体よりも地位の方が重要だと言われた訳で。無理もないだろうとヨハナは納得する。


「シャールカ…?」


だから顔を上げた時、目に入ってきた光景に驚いた。


「……」


女主人が驚いていることにも気が付かず、シャールカは呆然と前を見ていた。


(旦那様が、私を。守って…)


奴隷の身よりも主人の位を重要視するのは当たり前だ。彼女本人でさえ性奴隷になってしまったからには仕方ないと、軽視していた体だった。けれど他ならぬバルトロメイがシャールカを守った。地位や彼本人よりも大切だと、そう言われたような気がして。


「っ…!」


その事実が堪らなく嬉しかった。考えすぎだと警鐘が鳴る。彼にはそんなつもりはなかったかもしれない。それでも額を撫でる優しい指先を、暖かな黒い瞳を思い出す度に、彼女の心は幸福に触れる。


これが恋なのかもしれないと、逸る鼓動と熱くなる体の内側で、そう思った。











「クルハーネク…必ず失脚させてやる」


遮蔽物の無い空と地面の間を我が物顔で風が吹く。その風を受けて、ニーヴルトが恨みがましく呟いた。彼の顔や四肢に巻かれているのは包帯。触れれば未だ痛む傷に、思わず舌打ちが漏れる。


彼の立つ場所は、四方を分厚い天幕に囲まれている。同じくその中に居た男が、ニーヴルトへと諂いを向けた。


「仰る通り、閣下こそが大将軍に相応しいですよ。クルハーネクが昇進どころか将軍位さえも失うのはもはや時間の問題でしょう。そのお怪我のこともありますし」


そう言ってニーヴルトの体の中央で吊るされた腕を見やる。彼の軍の副官だった。そしてそれを受けた上官の彼は、髭を撫でて鼻を鳴らす。


「ふん。奴を失脚させあの金糸雀人の娘を手に入れた暁には、反抗的な態度を矯正してやる。何、私の如意棒にかかれば一夜で堕ちるだろう。クルハーネクとは違い私は容赦ないぞ。泣いて縋る様が目に見えるようだ!」


自信満々で腰を振る。そんな彼は、妓女達に裏で短小閣下と呼ばれている悲劇的な事実を知らない。


「それにしても…いつまで待たせるつもりだ」


眉を顰め、ニーヴルトが辺りを見回した。苛々と足を鳴らす。


「もうすぐは経つぞ!私は怪我を押してこのような僻地まで来たと言うに!」


文句を口にしていると、ちょうど天幕の入り口が開いた。頭を下げた大男が、彼の前に立つ。


「お待たせしました、客人」

「ああ全くだ。一体いつまで待たせ――っ!?」


怒りを口にしている途中で、相手の男が顔を上げた。その顔を見て、ニーヴルトがぎょっと息を呑む。


「ああ、これは失礼」


ニーヴルトの様子に、彼は安心させるように微笑んだ。自身の顔面を指して口を開く。


「古い風習なのですがね。我らが民族の男子は幼少時に両頬を削ぎ落とすのです」


そのままにこやかに笑って続ける。


「いわゆる瘢痕文身はんこんぶんしんの一種ですな。初めて見ると、驚くでしょう。本来の目的ではありませんが…これは相手を怖がらせるに、何かと都合が良く。さあどうぞこちらに。ご案内しましょう」


天幕の先を手で示される。先を歩く男の背中を追いながら、ニーヴルトが再度舌打ちをした。


「野蛮人め…」


低い声で吐き捨てる。歩きながら副官が口元に手を当て、彼の傍で囁いた。


「良かったのでしょうか?自軍とは言え、このような地まで勝手に出征してしまって」

「…こいつら西の胡人はな、お仲間を殺しこの地から追い出したのよ。それで調子に乗ったのか、我らの国にもちょっかいを出して来ているらしい」


言いながらニーヴルトが辺りを見回す。四方八方に張られた天幕に、移動生活を可能にする簡易的な住居。外では子供が遊び、女達は集まって服を繕う。その光景に心底馬鹿にしたような視線を送りながら、足元に転がってきた篭をニーヴルトが蹴り飛ばした。


「所詮は寄せ集めの弱小蛮族。警戒など必要ないと思うが、他ならぬ陛下がその侵攻に危惧を抱いておられるからな。今日は指導者に直接会い、釘を刺す」

「今の陛下は平和主義者ですからね」

「ああ。戦を発生前に抑えられたとなれば、私の昇進は確実なものになる」


何もかも上手くいく。そんな未来を想像し、ほくそ笑んだ。


(クルハーネク、これで貴様の処分がより易くなると言う訳だ)


「お前は後方に控えておけ。私の合図でいつでも、待機させている私の軍で此処が占拠できるようにな」

「分かりました」


そう言うと副官は目立たないように傍から居なくなる。それを見送って、ニーヴルトは目の前を歩く大男に声を投げた。


「ハヴェル殿…と言ったか。それにしても、ここの王はずいぶんなご趣味をお持ちだ」


今、ふたりの足は居住区域の中央に向かっている。恐らくは彼の主導者が住むのであろう、一等大きく立派な天幕に近付くに連れて、住民以外の人間が散見された。若い女に留まらず、男に子供、老人。千差万別の容姿だったが、ひとつだけ共通点があった。その全てが美しい金の髪と青い瞳を持っていたことだ。


「熱心な収集家により、金糸雀人の価値が近頃劇的に上がっていると聞いてはいたが…此処のことだったか」

「これはお恥ずかしい。最近になって、王は彼らの良さに気が付いたのでしょう」


行動を制限する鎖が繋がれ、檻に閉じ込められた者もいる。大方奴隷や捕虜の類いだろう。その光景に、ニーヴルトはふんと鼻で嗤った。


「我が国の将軍と気が合いそうなことだ」

「ほお」

「金糸雀人を性奴隷として、手元に置く者がいてな」

「ああ…。そのような邪な目的と一緒にされては困る。王の目的はあくまで彼らを愛し、慈しみ、観察することなのだから」


その言葉に、ニーヴルトの顔からは嘲笑が漏れる。奴隷を愛し大切にする。ますますバルトロメイのことを思い出したからだ。


「その男も、ただの奴隷をいたく大事に扱っているようなのだ。自国に命を捧げるべき将軍が、奴隷ごときに入れ揚げるとはな。国家の面汚しめ」

「いやはや、お気持ちは分からなくもない。こんなに美しい種族は他にいない。透けるような白い肌!浮き上がる朱に、何よりも脳をも揺らす美しい声!」


ハヴェルがうっとりと宙を見上げる。恍惚に満ちた表情を浮かべ、両手を高く挙げる。最後に納得したように、ひとりごちた。


「ああそうだ…。これは恋なのだろう」

「……?」


その挙動にニーヴルトが首を傾げる。けれど住民のひとりがハヴェルを呼び止めた為に、抱いた違和感が形になることはなかった。駆け寄ってきた男は、ハヴェルに向かって布で覆われた何かを差し出す。


可汗カガン。酒杯が完成致しました」

「おお、素晴らしい出来だ」


布ごと杯を受け取り、ハヴェルはニーヴルトを振り返る。彼に向かって差し出した。


「これは都合が良い。ニーヴルト殿、酒でも飲んで行かれますかな?」

「悪いが貴殿ら食事は私の口には合わなそうなのでな。遠慮し、て…っ!?」


そう小馬鹿にしたように笑ったのも束の間、上等な織物の中を見て、ニーヴルトが息を呑む。


包まれていたのは頭蓋骨。これが酒杯と表現されていた理由を直ぐに察する。人間の頭蓋骨を材料に作られた盃、髑髏杯。後頭部を削り無理矢理に器としての機能を後付けしたそれが、偽物や紛い物の類いではないことは、一目で分かった。彼はこれで、酒を呑むと言っているのだ。誰か、人間の骨で。


「っ…!」


ぞわりと鳥肌が立つ。そんなニーヴルトの様子には目もくれず、彼は杯を持ってきた者と話し始めた。


「ところで、最近仕入れた金糸雀人の双子はどうなった?」

「殺し合いの末、兄の方が生き残りました」

「ああ…非常に仲の良い兄弟なだけあって、楽しめたのだがなあ…片方を殺さねば目を抉り出すと言われれば、さすがに正気を保ってはいられんか」


残念そうに、そして心底愉快そうに話すハヴェルを前に、ニーヴルトが真っ青な顔で一歩下がる。


「っ…!」

「閣下!」


顔を上げると、こちらに駆け寄って来るひとりの男。彼の副官だった。安堵し、慌てて声を張り上げる。


「よっ、良いところに来た!副官!軍を、」

「駄目です!逃げてください!全員、死んで――」


彼が最後まで言葉を口にすることはなかった。声の代わりに、ニーヴルトに血飛沫が掛かる。その温かさに我に返り、同時に自身の顔のすぐ横から伸びた腕と剣が、彼の副官の命を奪ったのだと気が付いた。


「っ…!?」

「ああ…」


耳元で声がする。地の底から這い出たかのような嗄声。心臓を直接掴まれたような焦燥が、彼の背中を駆け巡る。


「金糸雀人には、全く困ったものだ…」


視線を動かし、いちばん最初に目に入ったのは例の酒杯。よく見れば頭蓋骨の額から眼窩を跨ぐようにして、大きな亀裂が入っている。真っ赤な返り血に濡れたハヴェルは舌を出し、欠けた部分ををざらりと舐めた。


「骨になってまで、美しいとは」

「…!」


元々大きな男だったが、ニーヴルトの目には、その何倍も大きく見えた。


「よっ、寄るな!」


咄嗟に剣を抜き構える。力任せに振った拍子に、その切っ先がちょうどハヴェルの手のひらに刺さった。けれど血を流す本人と言えば、迷ったように首を傾げただけだった。


「さて、どうしようか」


そう言って何でもないように、平然と歩を進めて来る。同時に剣の刃が肉に埋まって行く。骨には当たらず、切っ先は手のひらの向こう側へと通過した。その様子を呆然と見つめるニーヴルトを前に、ハヴェルは顔を上げた。


「例えばそうだな。体中に槍を突き刺してその命が危険に晒された時――命より大切だと言う自国の情報を、君は漏らさずにいられるか」


まるで楽しい余興を思い付いてしまったとでも言いたげに、微笑んだ。


「私はそれに、とても興味がある」


その人の良い笑みに、ニーヴルトの背筋を氷のような悪寒が走る。震える足を必死で立たせ、何とか口を開いた。


「き、貴様…!私の軍に、一体何をした…!?」

「…ああ、残念ながら君達の軍は脆弱すぎる。何だあの馬の扱い方は。も持たなかったぞ。これならば我が国の5歳児の方が余程上手く戦える」


唇の端をつり上げる。それと同時に、両頬の疵がまるでひとつの生き物のように動く。


彼ら西胡の男児が顔に傷を刻む理由は、単なる装飾や儀礼の一環ではない。目的はただひとつ、赤子のうちから痛みを覚えさせる為だ。


「そういえば、貴殿は私と話をしに来たのだったな」


言いながら、ニーヴルトの顔を覗き込んだ。鮮血が滴り落ちる。歪んだ瞳に映るのは底無しの欲望。


「私がこの大陸の者をみなごろしにし、天下を取る話かな?」


ハヴェル・ドルボフラフ。西胡を治める王。シャールカ達東の民族を滅ぼした、張本人である。

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