第16話


「…あら、それ本当?見たかったわ」

「間違いないって。自力で立てなくて、担架で運ばれて行ったの。それはもう胸がスッとしたわよ」

「そりゃあそうよ。上客だからって芸妓にさえ肉体関係を強要してくる最低野郎だったもの」

「立派なのは財布と家だけで、あっちは大したことなかったのにねえ。入ってるんだか入ってないんだか分かんなかったわよお」


賑やかで楽しげな笑い声。意識を取り戻してからいちばん最初に耳に入ってきた会話に、シャールカはごくりと唾を飲み込んだ。


(何やらえげつない会話を聞いているような…)


続きを聞きたい欲を押し殺し、瞼を開ける。


「あら、起きた?」

「……」


体を起こすと、長椅子から氷嚢が転がり落ちた。そして頭を動かした瞬間に走る鈍い痛みに、徐々に記憶が戻ってくる。


「私確か…ニーヴルト様に襲われて…」

「ああ。額に傷と、後頭部にちょっとしたたんこぶがあったけど、それだけよ。大丈夫。他は何もされてないわ」


辺りを見回す。知っている場所だった。今夜の酒宴で、シャールカ含め妓女達が身支度をする控え室として用意された部屋の一室。そして目の前には数人の女達。彼女達にも見覚えがある。ニーヴルトに雇われた妓女だった筈だ。ぼんやりした視界であちこち見ていると、ふと机に目が止まった。


「あ…」


砕けた花飾り。シャールカの頭に付いていたものだ。おそらくはニーヴルトに床に叩きつけられた際に、割れてしまったのだろう。


「お借りした物を壊してしまうなんて…」


眉尻を下げ、シャールカが妓女のひとりへと向き直る。深く頭を下げた。


「弁償させて頂きますわ」


飾りは借り物だった。そして貸し主であった彼女は、その大きな胸を揺らして、あっけらかんと笑った。


「弁償なんてしなくて良いわよ。アンタにこれが払えるとは思えないし!」

「ですが…」


シャールカが食い下がる。

礼の品と共に返そうと、そして下手に押し潰してはいけないと、付けたまま帰ってしまったことが、裏目に出てしまった。


「良いの良いの。だいたい、壊したの、短小閣下でしょう。今夜のお代に上乗せして請求しておくから大丈夫よ。何なら多めに請求して、新しい飾りを買うから」


この渾名と同じく秘密よ、そう言って彼女は茶目っ気たっぷりに微笑む。それに思わずくすりと笑って、シャールカは言った。


「…何から何までお世話になってしまいましたね」




『……』


茶屋に連れてこられたシャールカがツィリルに送り出された後。控え室での出来事である。


『アンタ、胸大きくなった?』

『ちょっと!それ私の櫛よ!』

『ねえ!誰か余分に腰帯持ってない!?』


そこには選り抜きの妓女達がいっしょくたに集められていた。彼女達が一心不乱に身支度をする様子は、まさに女の園。戦場だった。


(な、なるべく目立たないように…)


今まで目にしたことのないその圧倒的な迫力に完全に萎縮したシャールカは、こそこそと部屋の隅に座る。ところがどうして、あっさり見つかり呼び止められた。


『アンタ見ない顔ね。どこの店の子?』

『珍しい毛色だわあ。何で染めてるの?』


片手間に化粧をしながらも、彼女達はすぐに集まってくる。見渡す限りの巨乳に圧倒されながら、シャールカは小さな声で言った。


『え、ええと…その、クルハーネク閣下の、性奴隷です』


それを聞いた彼女達は、一瞬ぱちりと瞬きをする。顔を見合わせた後、納得したように声を出した。


『は~!家妓のことね!初めて見たわ』

『あの仏頂面閣下に仕えるの大変でしょう』

『い、いえ。そんなことは…』


そうこうしている内に、「何?」「家妓ですって」「あの無愛想閣下の」と話が広がり彼女を囲む輪はどんどん大きくなる。思わぬところで仕える主人の裏の渾名を知ってしまった。


『今日はこんなところまで駆り出されたの。大変ね。衣装は持ってる?』

『ええ。ここに…』


頷き衣装を見せようとするが、傍らに置いた筈の荷物がない。見れば既に別の妓女により広げられ観察されている真っ最中だった。


『うーん…。品物自体は上等だけど、色が渋くてイマイチね』

『ねえ。髪飾りが無いけど、別に持ってるの?…無さそうね』


頭に疑問符を浮かべぱちぱち瞬きを返す本人を見て、すぐさま判断を下す。シャールカは申し訳なさそうに口を開いた。


『実はこう言った場は初めてで、勝手が分からないのです。これも全て、ストラチル様に用意して頂いたものですから…』

『ああ、あの男色副官。これだから殿方って嫌ね。何でも高いものを買えば女が満足すると思って。ほら、私の飾り貸してあげるわ』

『良いのですか?』


礼を言っている間にどんどん話は進む。シャールカの衣装を見ていた面々が、腕を組み相談を始めた。


『交換して来る?今なら服屋が来てるし。この質なら良いものと交換できるでしょ』

『それがいちばんね。もっと明るくて若い子に合う色にしましょ』


口を挟む間もなく、ツィリルの買ってきた衣装が売り飛ばされる計画が決まる。いつの間にか化粧品も検閲が始まっていた。


『この白粉もこの子の肌には合わないわねえ。ねえ!誰か、もっと白いの持ってる!?』

『髪を結ったことは?やだ、化粧もないの?』


答えを聞くのもそこそこに、顔に化粧を塗られ髪を編まれ、あれよあれよと言う間に事は進む。こうして、少々強引で世話焼きな彼女達によって、シャールカの晴れの装いは完成したのであった。




「私、何もかも分かりませんでしたから、本当に助かりました。ありがとうございます」


一連の流れを思い起こし、もう一度深々と頭を下げる。務めを終えた為か、既にこの場所に残る妓女も数人だ。


「けれど、良かったのですか?ニーヴルト様に雇われている貴女方からすれば、私は完全に敵でしょう」


彼女達の協力が無ければ、シャールカの仕上がりは雲泥の差だった筈だ。ツィリルは撤退を決めていたに違いない。仮に酒宴に参加することができても、笑い者になるだけだっただろう。


だからシャールカの疑問も当然のことだったのだが、目の前の妓女は、胸を張って笑った。


「そりゃあだって、若くて可愛いだけの女に負けるつもりなんて無かったもの」


その自信にシャールカも微笑んだ。金の睫毛を伏せ、呟く。


「ええ。…手も足も出ませんでした」


酒宴を思い出す。会話の運び方から醸し出す色気に至るまで、何ひとつ彼女達に勝てるところなど無かった。


「唯一の特技と、ストラチル様の演奏があったので、何とか…。酒宴の終了時間がもっと遅ければ、分かりませんでした」

「……」


彼女はその切れ長の瞳を細めて、シャールカの隣に腰掛けた。


「モクリー公の武官時代の2つ名を知っている?」

「……?」


首を横に振る。その動作に合わせて、横になっていた為にぺちゃんこになった髪が、さわさわと音を立てた。


「“望郷のイグナーツ”。あの方は母方が異国の出身でね、そこで育ったの。けれど戦争が始まって、父の住む瑞に連れて来られた。生まれた地を捨てるしかなかったの」


言いながら、シャールカの髪に触れた。あちこちに跳ねる1本1本を丁寧に摘まんで、流れの中に戻す。


「だから、故郷には並々ならぬ想いを抱えておいでなのよ。あんな歌を聴かせたら、おじいちゃん泣いちゃうわ。…完敗ね」

「そんなことは…」


ない。シャールカがそう続けようとすると、突然その頭を掴まれ、豊満な胸の谷間にむぎゅうと押し込まれた。


「っ!?」


たわわな双丘に挟まれる。両頬に弾力を感じ、芳しい香りが肺を満たす。ただただ幸せなような、自分にないものが羨ましいような、複雑な気分になる。視線だけで疑問を投げ掛けると、彼女は唇の端をゆるりと上げた。


「今日はよく頑張ったわね。…アンタの悩みは確か、性奴隷の務めが全うできないことだったっけ」


長く美しい指を2本立てて、彼女は先を口にした。


「そんなアンタに、いちばんすべきことと、いちばんしてはいけないことを教えてあげる」






「このシャールカ!一計を案じます!」


バルトロメイの屋敷の廊下で、シャールカは意気揚々と叫んでいた。酒宴が終わった後、彼女が目覚めてから半刻、未だ夜は明けてはいない。


「……」


寝所の扉をそっと開ける。室内を占める大きな寝台。その上に横たわる大きな体を目にし、足音を殺して近付く。


「失礼致します…」


小さな声で呟くように言って、そっと寝台に尻を乗せる。台がわずかに軋む音を立てた瞬間、全く逆の方向を向くバルトロメイの頭が、ぴくりと動いた。


(起きていらっしゃるのですね、旦那様…!)


当然シャールカがそれを見逃す筈はない。今こそ助言を生かす時だと、目を輝かせた。


(御姉様方から啓示を頂いた私は今!無敵でございます!)


『いいこと…?陥落させたい男性を前にした時、すべきことはただひとつ…』


百戦錬磨の彼女達は言った。


『おさわりよ…!』


シャールカに衝撃が走る。それと同時にバルトロメイの体を思い浮かべ、触るに適した箇所を探す。


『…となれば、やはり目標は閣下の股間ですか』

『それは生き急ぎすぎ』


直接的すぎるシャールカの案はやんわり止められた。そして彼女達は語り出す。


妓女達が言うところには、人間とは接触する機会が多いほど好意を抱く生き物らしい。特に男性は女性からの物理的な接触に弱い傾向があるとも聞いた。


(御姉様達は言いました…。焦りは禁物…まずはゆっくり事を進めるべきだと)


じっと見つめ、シャールカは狙いを定める。目標は無防備にさらけ出されたバルトロメイの大きな手のひら。


刺激しないよう、最初は心臓から最も離れた位置から始めよ。少しずつ慣れていけば、最後には必ず標的に辿り着ける筈だ――彼女達はそう言った。シャールカにとっては遠回りで時間が掛かるやり方だったが、いきなり金的を握られても相手は恐怖するだけらしい。男性とは繊細な妖精さんのようですねと、そっと心の内で思いを馳せる。


(今こそ、決行致します!!)


そして繊細さの欠片もないシャールカの手は、まるで猪のごとく目標物に突っ込む。


「!」

「っ…!?」


が、彼女はその手を握ることもできなかった。ほんのちょっと指が触れた瞬間、目標は勢い良く飛んで行ったからだ。バルトロメイが起き上がり、驚いた顔でこちらを見つめる。


「……」

「だ、旦那様…」


シャールカの頭に殴られたような衝撃が走る。バルトロメイの手はまるで、彼女を避けるように逃げた。触ることも許されないなんて、もう嫌われていると同義ではないか――そう思ったからだ。


(やはり私はただの偽装工作…旦那様はあの間男と…!)


シャールカが絶望に打ちひしがれ、頭の中でツィリルを様々な方法で抹殺し始める。それが10通り目、崖から突き落とすに達した時に、ふとバルトロメイの声に邪魔をされた。


「…平気なのか?」

「へ…?」


顔を上げると、じっとこちらを見つめる真剣な純黒の瞳と目が合う。頭の上に疑問符を浮かべるシャールカに、彼は口を開いた。


「あの男に、乱暴をされかけただろう。男に触れられるのは…怖くないのか」


真剣な表情だった。その黒い虹彩を見つめ返し、戸惑いながらも否定の言葉を口にする。


「だ、大丈夫ですわ。頭突きをしたこと以外は覚えておりませんし…寸前で助け出されたようで、何事もありませんでしたから…」

「そうか」


バルトロメイは相変わらず無表情だったが、わずかに息を吐いた。それが安堵から出たものであることに、すぐに気付く。けれどその真意を掴みきる前に、我に返った彼がもう一度顔を上げた。


「…頭突きをしたのか?」

「は、はい!」


寸前まで、彼女は冷静だったのだ。しかしニーヴルトの台詞が状況を変えた。


「思わず…」


月明かりの下、恨みのこもった彼の言葉を思い出す。


『貴様ら胡人に未来などない!人間に飼われ惨めたらしく死ぬだけだ!』


「っ…」


言われた台詞の中身を思い出し、わずかにシャールカの表情が強張る。けれどバルトロメイが見ていることに気が付き、すぐさまその記憶を振り払った。


「え、ええと…。今思えば、不適切な行為をしてしまいました。その、旦那様に仕えるお立場として、同僚の方に頭突きをしてしまうと言うのは…」


彼はあっさりと否定した。


「構わん。どちらにしろ上から潰した。怪我は無かったか」

「……?大きな怪我はありません。頭突きの影響で、額に少し傷ができた程度で…」

「どこだ?」


覗き込んでくる彼に、シャールカが自身の前髪を上げる。バルトロメイの指先が額に触れた。慌てて口を開く。


「旦那様にご心配頂く程のことでは…。この程度ならば痕もなく治りそうで、す…し…」


顔を上げた瞬間、ばちりと視線がかち合った。その時初めて、息が掛かるほどの至近距離に居たのだと気が付いた。


バルトロメイも同じだったのか、目が合ったと分かるや否やぱっと手が離れる。だから、シャールカがそれを認識したのは、ほんの一瞬のことだったのだ。けれど額に灯った熱はみるみるうちに全身へと広がって、心臓を鳴らす。


「……」

「……」


静寂がその場に訪れた。気まずそうに視線を迷わせた後、バルトロメイは再び横になる。またこちらに背を向けてしまった。けれどその大きな背中は、最後に優しい言葉を落とす。


「…あまり、無茶はするな」

「……」


黙るシャールカの脳裏に、茶屋での会話が甦る。


『いちばんしてはいけないこととは何ですか…?』


その質問に、彼女は目の前の性奴隷の顔を覗き込んだ。紅花の乗った妖艶な口元は、優しく言葉を紡ぐ。


『商売女は男性に、一時的な夢を見せてあげるのが仕事。だから彼らが望まなくなったら、私達の関係はおしまい』


そして最後に少しだけ、寂しそうに言った。


『相手に恋をするのだけは、絶対に駄目』


「はい…」


バルトロメイの背中を見ながら、シャールカは小さく呟く。ちくりと心を刺した何かは、見ないふりをした。

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