第15話


「演奏?」


イグナーツがぱちぱちと瞬きをする。彼の前に跪いたツィリルが深く頷いた。


「ええ。最後にどうか、私共の奏楽を聴いて頂きたいのですが」


その言葉の通り、食事も済み、場は既に終宴が近付いている。ニーヴルトが鼻を鳴らした。


「何を今さら…音楽ならば公は散々お聴きになった後だ。私が揃えた一流のな。お前達は知らんだろうが、舞踊も終えたところだぞ」

「それはもう素晴らしかったのお」


思い出したのか、イグナーツが深く頷く。それでもツィリルの真剣な表情に気が付くと、微笑んだ。


「ストラチル。お前の三弦の腕は確かだったな。良い良い。急ぐ訳ではないし、一曲だけじゃ。それが終わればニーヴルト、お前に見送りを頼もうかの」

「は。ありがとうございます」


シャールカと共に今一度頭を下げる。傍を横切った瞬間、ニーヴルトが鼻で嗤った。


「公は既にを私に決めている。無駄なことを」

「……」


そんな囁きを無視して、ツィリルは三弦を取り出し椅子に腰かける。


(状況が状況だけに、1度しか合わせられなかったが…)


顔を上げると、シャールカと目が合った。彼女の青い瞳に迷いはない。小さく合図をして、義爪を付けた指を弦に掛ける。


「……?」


そうして流れ始めた旋律を前に、バルトロメイが顔を上げる。ふたりの重奏とのことだったが、傍に立つ彼女は楽器どころか、何一つ手に持ってはいない。イグナーツも不思議そうに首を傾げている。


けれどシャールカが口を大きく開けた瞬間、彼女の“楽器”の正体を知った。


「歌か…」


その小さな口から飛び出した音色を前に、ニーヴルトまでもが息を呑む。


金糸雀カナリア人。一等目を引く見事な金糸がその語源だと広く認識されているが、本来の名の由来は別にある。カナリアと言えば鮮やかな色の羽毛を持つ鳥、そして何より、他の種族の追随を許さない美しい鳴き声――即ち、天性の歌声である。


彼女の声は三弦の力強い音にも負けない。ぴんと張った絹のような音、それでいて柔らかでどこか悲しい旋律。歌詞の意味に気が付き、イグナーツが傍に居たバルトロメイに声を投げ掛けた。


「クルハーネク。あの娘は北の遊牧民だったか」

「…ええ。山より東の民です」

「…そうか」


どこか遠くを見るような目を向けた後、瞼を閉じ、音色に聴き入る。深く刻まれた皺が、少しだけ緩んだ。


「道理で…」


彼女が歌うのは故郷を想う唄。その為尚のこと聴く者の心に響く。


元々この大陸のどこにも、安寧はなかった。戦国時代の終焉と同時にいくつもの戦争が終わったが、未だ小競り合いや隣り合う国同士の紛争は後を絶たない。それ程全ての国の境界線は非常に不確実で曖昧だ。そして今再び、均衡は崩された。


シャールカ達の住んでいた土地は血を同じくする侵略者に乗っ取られた。周囲にはこの瑞含め、隙あらば自国の領土にせんとする大国も控える。追い出された彼らはもう二度と、故郷には戻れない。






「今日はご苦労だったな」


先刻までの騒々しさが嘘のように静まり返った茶屋。他で行われていた酒宴もお開きとなったのだろう。提灯の赤光は殆ど絞られ、青白い月明かりが廊下を照らす。その中央を、意気揚々とツィリルは歩いていた。帰りの馬車へと向かいながら、背後から付いてくるシャールカに話し掛ける。


「モクリー公は僕らの奏楽をこれ以上ない程喜んでおられた。その証拠に、自身の見送りをクルハーネク閣下に頼まれたからな」


イグナーツの“合図”だ。酒宴の最後には必ず、彼は気に入った者に自身の見送りをさせる。その送り手にバルトロメイを選んだ。接待はこちらの勝ちに終わったと言って良いだろう。顔面蒼白だったニーヴルトの様子を思い出し、ツィリルの溜飲が下がる。


「…性奴隷。貴様のことは、閣下を誑かす女狐だと思っていたが、案外貴様も閣下の従者に相応しいのかもな。…まあ!僕の女装には負ける、が…」


意気揚々と振り返って、ふと言葉を失う。


「おい…?」


辺りを静寂が包む。視線の先に、誰もいなかったからだ。






そして同時刻、シャールカは暗い室内に居た。茶屋の客室のひとつだろうが、今は使われていないのか蝋燭の灯りさえも点いてはいない。


「っ…!…!」


そしてシャールカをその場所に引きずり込んだのは、目の前の大きな影だった。口を塞がれていて声が出せない。そのまま顔を押さえ込まれ引き倒された。金糸がざらりと床に散る。眼前を大きな手の平が横切った瞬間、とっさにその指に噛みついた。


「っ!」


彼女の口を覆っていた手が外れ、息を吸う。思い切り叩き、睨み付けた。


「っ、離し、て…っ!?」


月明かりに照らされた顔を見て、目を見開く。そこに立つのは、ニーヴルトだった。信じられないものを見る目で、シャールカは呆然と声を出す。


「貴方、一体何を…」

「…私が!」


ニーヴルトが彼女の胸ぐらを両手で掴んだ。そのまま無理矢理上に引き上げ、シャールカに詰め寄る。


「私が今まで、どれだけ懸けてきたと思っている!父と母の期待を一身に背負い、必死で爺共の機嫌をとってきたんだぞ!」


そう叫んだ口からは荒い息が漏れる。瞳孔は開き顔は紅潮、明らかに様子がおかしい。即座に逃げ場を求め視線を走らせたものの、この一帯だけひどく暗い上に人の姿は見当たらない。シャールカの背筋を冷たい汗が伝う。


(ここは何とか落ち着かせて、逃げ道を作らなければ…)


「それを…それをだ!私の努力を、期待を、あのような歌ひとつで…!」


ニーヴルトの奥歯がぎしりと鳴った。怒りで震えながら、心底忌々しげに言い放つ。


「何が金糸雀人だ!貴様ら胡人に未来などない!人間に飼われ惨めたらしく死ぬだけだ!“睡蓮の民”、その名の通りにな!」


その一言に、シャールカが動いた。勢いを付け、自身の頭を彼の額へと打ち付ける。


「が…っ!?」


呻き声を上げるニーヴルトの手を振りほどく。そのまま彼の胸ぐらを掴み返し、引き寄せた。


「父は言いました」


額から血を流しながらも、その瞳は揺らがない。目の前の男を静かに睨み付け、口を開く。


「我らは大地の民。天下の産品。たとえ住む地が何度変わろうと、この大地に足を付き続ける限り、我らの命も身も、文化も誇りも。滅ぶことは有り得ない」


ニーヴルトの濁り切った表情を前に、鼻で笑う。


「貴方の誇りは、一体どこに置いてきたのですか?」

「っ…!」


月明かりに照らされたその目に、強い憎悪が宿る。


「黙れッ!!」

「っ…!」


強く肩を押され、床に叩きつけられた。その拍子に後頭部に木板が当たり、くらりと視界が揺れる。挑発を後悔する間もなく、意識が暗転した。


「……」

「チッ…気絶したのか」


静かになった彼女を前に、ニーヴルトが舌打ちする。そして拉致した目的を達成しようと、シャールカの脚に手を掛けた。意識を失い床に身を預けた無防備な姿を前にして、思わず笑みが溢れる。


「声が聞けないのは残念だが…起きた時に一気に絶望を味わわせるのも、悪くないだろう…」

「ニーヴルト将軍!」


伸ばそうとした手は、背後から呼び止められた。見れば扉付近に立ち、こちらを見る男の姿。ツィリルである。


「ここで一体、何を…っ!?」


ニーヴルトの背の向こう、気絶し床に倒れたシャールカを見て、彼は息を呑む。だが制止の言葉を発する前に、声は掻き消された。


「大声を出した瞬間、この女を殺すぞ!」


ニーヴルトが取り出したのは小刀。刃をシャールカの首元に突き立て、ツィリルを振り返った。


「どれだけ爺に気に入られようと、この女は奴隷だ!たとえ殺そうが私が罰せられることはない!この女を生かしたいなら、そこで黙って見ていろ!」

「っ…!ニーヴルト将軍!貴方という方は…!」


剣を抜こうとするツィリルに向かって、彼は尚も続ける。


「上官に手を上げれば重大な規則違反だぞ!時期が時期だ!副官の貴様が犯した罪、その全責任は当然クルハーネクに行く。そうなれば奴はどうなる?昇進どころか、厳罰も有り得る!」


そこで言葉を切って、ニーヴルトは体を正面を戻した。意識のないシャールカに、言い聞かせるように呟く。


「どうだ…!これが、貴様と私の違いだ…!」

「っ…!」


ツィリルの首筋を汗が伝う。鞘に掛ける手が震える。呼吸が浅くなり、視界が狭まった。だから気が付かなかった。


「おい」


いつの間にか、自身の隣を横切る影があったことに。


「な――」


次の瞬間、ニーヴルトが声も出せず吹き飛んだ。轟音と共に部屋が揺れ、壊れた棚がガラガラと崩れる。彼を吹き飛ばした男、そこに立つ影を認識し、ツィリルがぎょっと目を見開く。


「か、閣下!」

「……」


バルトロメイは無言で、シャールカの無事を確かめている。首に手を当て脈を確認したところで、わずかに息を吐いた。ツィリルを振り返り口を開く。


「ストラチル、店の者を呼…」

「クルハーネク…」


愉悦の混じった声が、続く言葉を掻き消した。月明かりも届かない部屋の隅。崩れた棚の中央でニーヴルトが動くと、割れた花瓶がガラリと転がり落ちる。先ほど叩き付けられた時に打ったのだろう。頭から血を流しながら、ニーヴルトは笑っていた。


「お前がこの奴隷に入れ込んでいることは、嫌と言うほど知っている…。この女を犯せば、逆上したお前は当然俺に手を出すだろうと思っていた…!」

「……」


彼の台詞にもバルトロメイは無言と無表情を返す。眉だけがぴくりと動いた。


「まさか目的を達成する前に止められるとは想定外だったが…お前は俺を殴った!次の大将軍の地位を争う好敵手を始末せんと暴力を振るったのだ!その事実があれば十分だ!」

「っ…!」


そこまで聞いた瞬間、ツィリルが気付く。


(これがニーヴルトの目的か!)


武官に関わらず、官吏間での仲間内の私闘は固く禁じられている。特にふたりは次期大将軍候補同士。どちらかが怪我を負ったとなれば、片方は徹底的に調べられ、そこに作為性が認められれば厳罰が下される。彼はバルトロメイを罠に嵌めたのだ。


「妻や国民ならともかく、あのような奴隷ひとり守ろうとしたと主張しても、誰も耳を貸さん!こいつらの価値は、紙にも劣る!」

「……」


喚く彼にバルトロメイが近付く。ニーヴルトの前に来ると、まるで拾うようにして彼の胸ぐらを掴み引き上げた。


「それでもお前は俺を殴った!大将軍になる未来は終わりだ!」


だがしかしニーヴルトの表情は変わらない。勝ち誇った顔で笑みを浮かべ、尚も続ける。


「これで…!」

「ああ、そうだ」


続く言葉はバルトロメイが掻き消した。その額にびきりと血管が浮かんだ。月明かりも当たらない暗闇で瞳が光る。そして地の底から響くような低い声で、言った。


「これで、あと何回殴っても同じだな」

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