第14話


並んだ提灯が闇に浮かぶ。その特徴的な赤光の中に響く、楽器の音色に甲高い笑い声。空気に混じる華やかな香り。


「閣下。お酌を…」


そしてこの茶屋のいちばん奥まった位置にある座敷で、女が老酒の入った白磁の容器を傾けた。それと同時に、はだけた服の隙間から豊満な胸の谷間が覗く。


「必要ない。自分でできる」


けれどそれを受けたバルトロメイは、そう言って酒器を取り上げた。言葉通り、そのまま自身で杯に酒を注ぐ。その様子を見て、上座に座っていた老人がむうと唇を尖らせた。


「全くつれないのお。ほれ。怖い男は放って、こっちに来なさい」


彼女を手招きし、横に侍らせていた妓女達の仲間に加える。


イグナーツ・モクリー。職業を太尉たいい。バルトロメイとニーヴルトが所属する軍部において、皇帝に次ぐ最高権力者にあたる。酌を受けながら、彼は口元を覆う白い髭をもそもそ動かし口を開いた。


「クルハーネク。国を護る者がそのように堅物でどうする。お前が望むならば儂の孫娘を紹介してやると言うに」

「勿体ないお話ですが、今は己の身を立てることに精一杯なもので」


バルトロメイは杯に口を付けたまま、あっさり辞退する。それを聞いたニーヴルトが、胸に手を当て進み出た。


「恐れながら…クルハーネク閣下は奴隷を買うような嗜好をお持ちです。ご令孫を明け渡せばどうなるか分かりませぬ。是非とも私めに」

「お主を紹介すれば娘に怒られるわい」


申し出を一刀両断し、イグナーツはひらひら手を振る。


(ニーヴルト。貴様では力不足だろう)


一連のやり取りにツィリルは心の内でふんと笑った。けれど同時に、歯痒さも感じ唇を噛む。


(実孫の紹介…受ければ閣下の出世は約束されたも同然だと言うのに…)


そんな不満げな彼の視線などどこ吹く風。バルトロメイは涼しい顔で酒を呷る。すると、ニーヴルトが胸を張った。


「如何ですかモクリー公。私の選んだ店は」

「勿論満足じゃ!お前が紹介する店とおなごはいつも間違いない」


隣の妓女から勺子で差し出された点心をぱくりと口に入れ、イグナーツは満面の笑みで肩を揺らす。


「公。ならば、」

「だが」


その一言に顔を輝かせたニーヴルトを押さえるように、酒杯の口を彼に向けた。


「それだけで大将軍の座が決まる訳ではないからの」


唇の端を上げたまま、ほんの少しも笑っていない目を細める。杯の口を彼から一旦離し、今度はバルトロメイに向けた。


「当然、上官から気に入られない者にも未来はないぞ」


人の良い老人の顔が一転、ぴりぴりとした空気が肌を刺した。杯に口を付け、イグナーツが隣の妓女に微笑んだ。


「そう言って、いつも部下を苛めておるんじゃ」


直ぐ様黄色い歓声が上がった。緊張から解放され騒がしくなる室内とは裏腹に、ツィリルはごくりと息を呑む。


(やはり今日の酒宴は、閣下とニーヴルト。どちらを大将軍にするか、その見極めの為に催されたのか…)


イグナーツも、元は将軍である。領地拡大に重きを置いた先代王の戦国時代を生き残り、最高位にまで上り詰めた。歴史に名を刻んだ男の気骨は未だ、衰えることはない。

そんな太尉は再度酌を受けながら、ぽつりと漏らした。


「ニーヴルトが連れてくるおなごはもちろん非の打ち所がないが、こう慣れてしまうと何と言うか…新鮮味が欲しくなるのお」


(来た!!)


鬼神の頭脳――ツィリルは考えた。ニーヴルトに対抗できる手段は少ない。接待に関しては、長年培ってきた彼の手腕に勝てるとは思えない。まともにぶつかり合えば大敗を喫するのは火を見るより明らかだ。


「公。僭越ながら、僕からお話が」


ツィリルが声を出す。イグナーツがこちらを見ると、深々と頭を下げた。


「今宵はクルハーネク将軍から特別な計らいがございまして」

「ほお」


するとその言葉に、バルトロメイが彼を振り返った。


「…ストラチル。何の話だ」

「僕めにお任せください!」

「……」


そう部下に胸を張られ、何も聞いていない彼はひとつ瞬きをする。だが、この副官が自身に足りないものを補って余りある働きをしていることは重々理解している。信頼のおける彼の言うことだと自身を納得させ、静かに盃に口を付けた。


そしてツィリルは上官の無言を是の返事だと見なした。目配せをし、店員に扉を開けさせる。手を広げ、その向こうを指し示した。


「北の遊牧民の生き残り!金糸雀人の末裔!シャールカでございます!」


見知った金糸を前に、バルトロメイがぶふうと酒を吹き出した。


「っ…!?」

「な…!」


室内に入ってきたシャールカを見て、ニーヴルトまでもがギョッと息を呑む。


白い肌は白粉によって輝きを増し、頬に差すのは仄かな紅。整然と編み上げられた金糸の上で、大ぶりの花飾りが揺れる。顔立ちにどこか残っていた幼さは完全に消え失せ、そこに居たのは洗練された美姫だった。彼女は緊張した面持ちで、深く頭を下げた。


「バルトロメイ様の命で参りました、シャールカでございます。どうぞよろしくお願いしますわ」

「普段花街にも近寄らぬ家妓ですが、今宵一晩だけ楼仕えの真似事をさせております。是非モクリー公に座敷遊びを教えて頂きたく」


補足を加えつつ、ツィリルはイグナーツの反応を観察する。玄人に対して素人が唯一提供できるもの――それが、新鮮味である。良くも悪くもこういった場に慣れていないシャールカは、遊びなれた彼には目新しく映るだろう。ツィリルはそう判断した。


(一度は場に出さないことも考えたが…予想以上の仕上がりだった。見た目だけなら他の女に勝るとも劣らん!これならばいける!)


そして彼の目論見通り、イグナーツは瞳を輝かせて身を乗り出した。


「ほお、金糸雀人。本当に鳥のように見事な金色じゃのう」


(よし!掴みは上々だ!)


ツィリルはぐっと拳を握る。よく見ればシャールカの着ていた衣装は彼の買ってきた服と違うようだったが、そんなことは些末なことだ。


(よくやった!性奴れっ、)


そう勝利の雄叫びを上げるツィリルの胸ぐらが、ぐいと引き上げられた。


「か、閣下…!?」

「……」


バルトロメイである。彼にとっては寝耳に水の出来事だったが、彼の職業は刻々と変化する戦場を臨機応変に仕切る将軍だ。混乱に陥りながらも、誰を締め上げるべきかは瞬時に理解した。


と言うことで、バルトロメイはツィリルをボコボコにする判断を下した。酒を吹き出した時の名残か、顎からぽたぽた雫が落ちる。


「だ、旦那様…」


ところが拳を作る前に、その手は制止された。いつの間にか近付いていたシャールカが、バルトロメイの口元をそっと手巾で拭う。


「ご報告もせず出しゃばった真似をして申し訳ありません。けれど私もどうにか、お役に立ちたいのです。その、このようなことしかできませんが、駄目でしょうか…」


そろそろと見上げてくる瞳。華美な衣装にも引けをとらない美貌。そして彼女に対しただならぬ情を抱えるバルトロメイの瞳には、その変化は際立って映る。


控えめに言って――ぐうかわだった。


「……」


すっかり固まってしまったバルトロメイを置いて、時間は進む。満面の笑みで、上座のイグナーツがぶんぶん手を振った。


「良い良い!さあ立っていないで隣に来なさい」


自身のすぐ傍を空ける。彼女が席につくと、上機嫌でシャールカの手を取った。


「愛らしいの~。こう言った場は初めてか?何か食べたいものがあれば遠慮なく言うが良い。今日は部下達の奢りじゃ」


彼女にぺたぺたと触れる骨張った手を見ながら、バルトロメイの殺意は膨れる。けれどイグナーツは仕方ない。根っからの女好きであり、年を取り退した今も、女性を可愛がることが大好きな爺だと言うことも知っている。彼の前に女を出せば、ああなることは分かりきっていた。なので、バルトロメイの怒りが向く先はただひとりだけだ。


(ストラチル…後で殺す…)


そうして凄まじい勢いで身の危険が迫っていたわけだが、残念ながらツィリルは気付いていなかった。その間彼は、焦り固まるニーヴルトに勝ち誇ったような笑顔を浮かべていた。






ところがどうして数刻後、ふたりの表情は逆転していた。ニーヴルトは笑みをたたえ、ツィリルの首筋には汗が流れる。


(ま、まずい…)


ツィリルがごくりと唾を飲み込む。何故かバルトロメイの背中から溢れ出ている怒気も死ぬほど怖いが、今注目すべきはそこではない。


弦楽器を演奏する芸妓に夢中になるイグナーツ。顔を真っ赤に染め上げ妓女に囲まれている。少し離れた位置にいるシャールカには気付いていないらしい。即ち。


(公が、性奴隷に飽き始めている――!)


焦りを持ってそちらを見ていると、シャールカと目が合う。そのまま、目線で合図をされた。ツィリルも小さく頷き、互いに時間をずらしてそっとその場を後にする。




「ストラチル様…これ以上は無理かもしれません」


廊下で、シャールカは呟いた。扉の向こうからは笑い声に話し声、楽器の音。ふたりが離れても会場は賑やかなものだ。


「今さら降りるつもりか!?許さんぞ!なんか知らんが閣下から殺気を向けられているし!」


きりきりする胃を押さえながらツィリルが叫ぶ。彼からしてみれば心臓を縮めてまで挑んだ勝負だ。おいそれと引き下がるわけにはいかない。けれどシャールカは、珍しく意気消沈した様子で肩を落とした。


「私…自分に圧倒的に足りないものに気が付いてしまって…」

「何だ。言ってみろ。否定してやる」


ツィリルが腕を組み彼女を見据える。


(他の女より見目が劣るからとかぶちぶち言うならば、そんなことはない世界でいちばん綺麗だとでも、何でも言ってやる!)


バルトロメイに聞かれれば完全に殺人事件へと発展する案件だが、もちろんこの優しさはシャールカの為ではない。バルトロメイの為だ。自信を取り戻してさっさと席に戻れと言う意思表示だった。


「私に足りないものですが…」


そしてそんな彼に、シャールカは悔しそうに言った。


「色気でございます…!」


控え室で彼女は見た。見てしまった。そこではたくさんの妓女がひしめき合い、身支度をしていた。全て、ニーヴルトによってかき集められた女達だ。


そして彼女達の殆ど全員が、豊満な体をしていた。お尻は大きく、きゅっと絞ったようなくびれ、そして何より着崩した服からはみ出た乳。見渡す限りの乳、乳、乳。乳に埋もれてシャールカは思った。


「私にはない、と…!」

「……」


彼女の身体の一部を見ていたツィリルが、心底申し訳なさそうに口を開いた。


「それに関しては何の慰めもできん…すまんな」

「いえ…私もずっと前から、気付いてはいたのです」


そっと瞼を閉じる。


「父は言いました…」


それは、シャールカが父と仲間の数人で狩猟へ出掛けていた時の話だ。10代半ば、肉体的にも精神的にも、彼女が大人の女性として花開いた時期、まさにその最中だった筈だった。


山の中腹で偶然にも水源を見つけた彼らは、水浴びをすることにした。次々と服を脱ぎ下着姿になる中年男性の中で、シャールカだけは服の隙間から体を拭こうと準備を始める。すると父は、心底不思議そうな顔で聞いてきた。


『シャールカ。お前は何故服を脱がないんだ?』

『……?』


何を言っているのかと首を捻る。父だけならばともかく、他の男性もいるこの状況。彼らと同じく下着姿で泳ぐ訳にはいかないだろう。


『父上…?私は女ですが』


その一言に、彼女の父は驚き目を見開いた。そして豪快に笑って、言った。


「『どうせ脱いでも男か女か分からん体だから、安心しろ!』と…!」

「お前の父親は残酷すぎる」


シャールカはぐうと唇を噛み締めた。


「気付いているのです…!私には谷間もありませんし、男性ひとり満足に誘惑することもできはしない…。それどころか旦那様の乳を押し付けられた折には、そのあまりの色香に意識を失う始末…」

「閣下の大胸筋を乳と言うな」

「ですが…たとえ色気があったとしても、今回は勝てそうにありません」


イグナーツの接待をした時。少しの時間ではあるが、シャールカは悟った。自分は話に付いていくことができない。元々彼女の祖国でも何でもない国の高官が相手だ。彼の活躍も知らなければ、国の成り立ちさえよくは知らない。


対して妓女達の話術は一級品だ。誰かが受け答えを間違えようとも会話を繋げ盛り上げる圧倒的な組織力もある。


(私が勝てるわけが…)


あちらは接客を生業にし、その身ひとつでのし上がった女性達だ。豊富な知識に高い教養、相手を惹き付けて止まない美しい所作、彼女達が積み上げてきた手練手管に敵うわけがない。


「モクリー様の記憶には多少残ったかもしれませんが、閣下の昇進を後押しするまでには…」

「……」


すると顎に手を当てて何事か考えていたツィリルが、口を開いた。


「ならば、僕が女装するしかないな…」

「…は?」


一拍置いてシャールカが顔を上げる。聞き間違いかとも思ったのだ。だがしかし、ツィリルは真っ直ぐな目で言った。


「そうと決まれば化粧道具を持ってこい。僕は衣装を買ってくる。せっかくだから三弦でも弾くか」


言いながらくるりと踵を返す。その背中がどこかへ行ってしまう前に、シャールカは大慌てで彼の腕を掴んだ。


「お、お待ちください!そのような化物を出してはモクリー様のお怒りに触れます!」

「誰が化物だ!」


いくら通常の成人男性より愛らしい顔立ちをしていると言っても、軍人である。鍛えられた四肢に大きな図体、女と言い切るにはどう足掻いても無理がある。だからシャールカが止めたことも当然なのだが、ツィリルは堂々と胸を張って続けた。


「女装は古今東西皆が皆大好きな鉄板芸だろう!公はかなり酔っているし、女が喜べばあの方も喜ぶ!僕の女装と演奏で会場は大いに盛り上がるに違いない!」

「い、嫌です!私の命に代えても貴方を出すわけにはいきません!何より貴方の女装に負けたとなっては、私立ち直れそうにありませんわ!」

「ええい!貴様の乏しい色気事情など知るか!自信が無いのなら隅にでも居ろ!」


そう言い切って、ツィリルはシャールカの手を振りほどいた。


「クルハーネク閣下は早くに母君を亡くされている。当時は父君とも疎遠、軍に入り兵士として戦い功績を上げ続けることしか生きる手段はなかった」


目の前の碧い瞳をじっと睨む。


「なに一つ後ろ楯の無いところから、身を賭し命を懸け今の地位を築かれたのだ!」


“鬼神のクルハーネク”の名はそこから来ている。武勲を立てねば生きられないが、いちばんの手柄はいちばん危険な場所にある。だからこそ彼の戦場は、常に後には引けない背水の陣。それでも、死を目前にしようとも、バルトロメイが二の足を踏むことはない。圧倒的な強さで敵を捩じ伏せ戦う姿はまさに鬼神。ツィリルはその背に憧れたのだ。


「そんな閣下が今、大出世の機を迎えようとしている。ならば僕は大恥を掻こうが解雇になろうが最後まで、足掻くつもりだ!」

「っ…!」


再び歩き出そうとするその肩を、シャールカは掴んだ。


「なんだ。まだ邪魔する気か」

「いいえ」


断言する。当然、この女装男を人目に晒してはいけないと言う思いもある。けれど確かに、彼の覚悟はシャールカの心に刺さった。


(自信を失っている場合ではありません!無いものは無いで仕方がないのです!)


色気や足りないのなら、それに代わる物をするまで。ツィリルの瞳を睨み、はっきりと宣言した。


「このシャールカ、一計を案じます!」

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