第13話


心臓の音が耳の奥で鳴り響く。まるで警報のようなそれをどこか遠くに聞きながら、呆然と前を見つめた。


『シャールカ』


暗闇の中、ほんのすぐ近くでバルトロメイの瞳がじっとこちらに視線を落としている。月の明かりが顔の陰影を照らし出し、いつもとは違う雰囲気に、どきりと心臓が鳴った。


頬に柔らかなぬくもりを感じる。それが彼の手だと分かるのに、少し時間が掛かった。そしてバルトロメイの顔が、ゆっくりとこちらに近付いた。


「っ…!!」


ぎゅうと目を瞑る。それでも、彼の顔はお構い無しにそのまま接近して来る。そしてふたつの唇が重なる寸前――シャールカは覚醒した。


「……」


目を開けないでも分かる。部屋を満たす朝日に呑気な鳥の鳴き声。朝だ。浮上してくる意識の最中、未だ熱い頬と動き回る心臓を抑え、ぐうと唇を噛む。


(ま、またあの時の夢ですか…)


夢の内容には覚えがある。先日、天宮でバルトロメイに寝台に引きずり込まれた時の光景だ。刺激が強すぎたのか、こうして何度もシャールカの夢に出てくる。


(私ときたら…!修行が足りません…!)


真っ赤にはなりながらも、現実では無かったことに安堵し、ほっと息を吐く。そして何とも無しに瞼を開けて――


「っ…!?」


固まった。ほんの目と鼻の先、そこに、バルトロメイの顔があったからだ。


シャールカの本業は性奴隷だ。主人が隣で寝ていても何ら不思議ではないのだが、やっぱり未だ、性交には至っていない。普段彼は逆を向いて寝る上、昨夜もその体勢で就寝した筈だった。ところがどうして、寝ているうちに移動してしまったのだろう。


(ゆ、ゆっくり離れ、)


そろそろ腰を動かし距離を置く。けれど離れきる前に、バルトロメイがぴくりと動いた。


「ん…」

「ヒ、ッ…!」


突然腕が伸びてきたと思ったら、そのまま引き寄せられた。太い腕にぎゅうと挟まれ、頬に体を押し付けられる。心臓があり得ない速度でばくばく鳴る。それでも、バルトロメイは起きることなく静かに寝息を立てている。


「っ…」


視線を上にすれば、彼の顔があった。黒い髪に黒い睫毛。眉間に刻まれた皺はすっかり鳴りを潜め、普段よりも幼く見えた。そして太い首筋を伝って下にいけば、寝間着を内側から押し上げる胸の筋肉。ちらりとはみ出た胸元から、言葉では表せない乱れた何かを感知する。そしてそのいやらしい何かに当てられ、自身の体力がどんどん減って行く。


「……」


彼の体と敷布に挟まれて、シャールカは白目を剥いて気絶した。






「性奴隷。僕はお前のことが嫌いだ」


ツィリルが腕を組んで背筋を伸ばす。足の間を広げ、宙を睨む。所謂仁王立ちで、入ってきたばかりの扉近くから威圧を飛ばした。


「…それは奇遇です。私も貴方に対しては、嫉妬を抱えておりますから」


自身へと向けられた敵意に、シャールカが怯むことはない。キッと目の前の男を睨む。


「私の疑いは、まだ完全に晴れた訳ではございません…!閣下を男色の道に引きずり込まんとする間男…!」

「まっまだ疑ってたのか!だから!僕と閣下が肉体関係にあるわけないだろう!僕らの関係をそのような淫らな一言で片付けるな!」


ばちばち火花を飛ばし合いながら、今にも噛みつかんばかりの勢いで睨み合う。出会い頭に威嚇を始める動物のようなふたりを前にして、室内で座っていたヨハナが呆れた声を出した。


「ねえ。暑苦しいから、喧嘩するなら他所でやってくれる?」

「む。これは失礼を…」


ツィリルがこほんと咳払いをし、姿勢を正した。女主人の言葉にシャールカも威嚇を止め、ヨハナを団扇であおぐ作業に戻る。

ぱたぱた団扇を動かすと、兄と同色の黒髪がふわわと宙に揺れる。ヨハナは椅子を示して彼を座らせた。


「ストラチル様。突然いらして、どうされたの?兄様なら今日は居ないけど…」

「ええ。それを狙って来ました。そこの性奴隷に、用がありまして」


ツィリルがシャールカへと視線を移す。目が合うと、再びウーと唸り合う。けれどヨハナが呆れた目で見ていることに気が付くと、再び咳払いをし仕切り直した。


「2日後、バルトロメイ閣下が参加される酒宴があることは知っているか?」

「…いいえ。存じませんわ。旦那様はあまり、仕事の話はなさいませんから」


そう言って、シャールカがむっと口を尖らせる。最初は、嫌味かとも思ったのだ。自分はお前が知らない閣下を知っているぞと言う、彼の当て付けであると。ところがツィリルは少しだけ口元を綻ばせながらも、複雑な表情になった。


「やはり連れて行く気はないのか…」


口の中で何やら呟く。シャールカに向き直った。


「表向きには小規模の個人的な酒の席だ。出席するのは3人。その中心人物がイグナーツ・モクリー公。瑞の三公のひとりだ」

「さんこう、ですか…?」

「シャールカ。この国で唯一、皇族以外で陛下から“公”を名乗ることを許された功臣のことをそう呼ぶの」


ツィリルに冷茶を差し出しながら、ヨハナが補足する。


三公。官吏の中でも最高位に位置する役職である。その数字の通り、3の役職が存在する。丞相、御史大夫、そして最後のひとつ。


「モクリー御大老の役職は太尉たいい。瑞の軍事に関する最高責任者だ。実戦での部隊の配置、人事の采配、その全権を握るお方に相違ない」


そこで言葉を切って、ツィリルが茶に口を付ける。一口飲んだ後で、声を潜め言葉を発した。


「そしてつい先日…将軍位の上、大将軍の地位がひとつだけ空いた。となれば、次なる大将軍が選任されることになるだろう」


当然、大将軍には数多の将軍の中から選ばれることになる。字面こそ頭文字に一文字足されるだけの位だが、その権力は大きく変わってくる。率いる部隊の規模も段違い。権威によりもたらされる富も、将来の筋道も別世界のそれとなる。


「そして今、最もその座に近いのがクルハーネク閣下、そして次点に謀略のニーヴルト」

「“謀略”ですか…?」


その物騒な名前に、シャールカはぱちぱちと瞬きをする。それに頷き、ツィリルは忌々しげに吐き捨てる。


「ああ。2つ名だ。その名の通り、戦で戦績を挙げるよりも裏で手を回し物事を思い通りに進めることを得意にする狡猾で嫌な男だ」


だがしかし、どれだけ彼が嫌おうとも、その手腕で将軍にまで上り詰めたニーヴルトの“謀略”は本物だ。


「当然、実力を鑑みれば次の大将軍は閣下に違いない。が、ニーヴルトは閣下が持ち得ない物を持つこともまた事実」


バルトロメイは勢いも実力も申し分ないが、若く融通が利かない一面がある。反面、ニーヴルトは知略に長けた男だ。上司に取り入るのも上手く、次期大将軍に彼を推す声も決して少なくはない。


「モクリー公はどちらを大将軍に任命するか悩んでいると、専らの噂だ。今回設けられた酒宴の席の参加者は、まさにクルハーネク閣下とニーヴルト、そして公の3人。単なる遊興ではない。任命の決定に大きく関わってくるだろうと言われている」

「旦那様にとっては、非常に重要な会席なのですね…」

「ああ。しかし閣下は小細工を弄する方ではない。だからこそ、右腕の僕が引き受けなければならない役目だと思っている」


そこでツィリルは瞳を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは彼の尊敬する上司の姿。


(クルハーネク閣下にいくら実力があろうとも、この先それだけで勝ち上がることは殆ど不可能…)


そう覚悟を決め、彼はカッと目を見開く。目の前の奴隷、そして自分自身に言い聞かせるよう口を開いた。


「僕とてお前の力を借りるなど不本意、非常に不本意だ!」


そう言い切って、机に拳を叩き付ける。次に頭を抱えて呻き声を出した。


「だがしかしよりにもよって今回の件は奴の専門分野…。質と量共に申し分ない手札を揃えてくるはずだ。ならばせめて珍しい毛色で対抗するしかない…!」


うんうん唸り始めた彼を前に、ヨハナが困ったように視線をさ迷わせる。背後のシャールカに小声で話しかけた。


「一体何の話かしらね」

「この暑さで頭がおかしくなってしまわれたのでは。ヨハナ様、危険ですから別室に」


囁き合い、こそこそと立ち上がる。ところがふたりが廊下へと出る前に、ツィリルが顔を上げた。


「性奴隷!僕はお前のことが嫌いだ!だがしかしここは恥を忍んで命令する!」


椅子から立ち上がり、シャールカをびしりと指し示す。


「2日後の酒宴に行き、モクリー公の接待をしろ!」


ヨハナは聞き返そうと、シャールカは理由を聞こうと開けた口は直ぐに閉まる。何故ならツィリルは、その台詞の後、畳み掛けるように言ったからだ。


「あの御方は、大の女好きなんだ!」






瑞で唯一の花街、花柳界かりゅうかい。日は既に傾き空に星が散らばり始めている時刻だが、この街はこれからが本番だ。大通りには人が行き交い店には灯りが点く。


そんな華やかな街の一角。決して大通りの目立つ位置ではないものの、他のどんな店よりも敷地を広く取り一流の調度品が揃えられた茶屋の廊下で、小さな声が響いた。


「自信がありません…」


珍しく眉尻を下げて、シャールカは肩を落としていた。ツィリルが片方の眉を上げる。


「自信ならいつも腐るほどあるだろう。どうした」


ツィリルがバルトロメイの屋敷に来た、2日後のことである。例の酒宴は今日この店で行われる。身分の高い客人が来るとあって、辺りは荷物を持って行き来する者や身支度に勤しむ妓女達で騒がしい。


「相も変わらず旦那様は性奴隷である私に手をお出しにはなりません…そのくせ男に先を越されている始末…。私の女としての魅力は一体どこに行ってしまったのかと、自信を失っているのです…」

「だから閣下と僕の関係を邪推するな」


そう言って、ツィリルは彼女の手に買ったばかりの新品の衣装を乗せる。普段シャールカやヨハナが着ているような機能的で地味な漢服ではない。花街独特の華やかな衣装だ。


「それに私、こう言った場も初めてで…」


花街独特の喧騒に、強い香水の香り。日常とはかけ離れた光景を前に、シャールカはすっかり気圧されてしまった。青い瞳が心許なく翳る。その様子にため息をついて、ツィリルは口を開いた。


「別に色目を使えと言っている訳ではない。モクリー公はご高齢であるし、芸妓に手を出すような無粋な御方でもない。何と言うか…ただ、女性に囲まれてお酒が飲みたい人なのだ」


衣装の上にさらに化粧品の入った箱を積み重ねる。これもまた、今日の為に揃えた高級品だった。


「モクリー公もクルハーネク閣下も既にこちらへ向かっている。化粧なり身支度なりさっさと準備をして来い」


そう言ってシャールカを立たせる。妓女が支度を行う控えの部屋へと、送り出そうとしたその時だった。


「おや、これはこれはストラチル副官。こんなところで、どうされたのかな?」


皮肉を込めた嫌味な声。その声を聞きつけた瞬間、ツィリルの眉間に皺が寄る。何とか無表情を繕い、振り向いた。


「…ニーヴルト将軍。貴方こそ、どうされたのですか?」

「なに、下見と準備を兼ねて早めに会場入りした次第よ。何せ今日は、将来の大将軍が決まる重要な日だからな」


ニーヴルトは髭を膨らませ辺りを見渡す。動き回る妓女達を見て、満足そうに頷いた。


「貴殿の上官殿が頭を下げて頼んでくれば、こちらの抱える妓女のひとりやふたり、貴様ら名義にしてやっても良かったのだぞ」


そう言ってから、シャールカに視線を移す。上から下まで目を通し、抱える衣装を見つけた瞬間鼻で笑った。


「ああ、噂の胡姫か。そんな芋臭い野蛮人の娘に頼るしかないとは…クルハーネク陣営に対し、憐れみすら感じるな」


そこで言葉を切り、彼はツィリルの肩を押した。勝ち誇ったような笑みを浮かべ、先を続ける。


「貴殿が女装をした方がまだ、可能性があるのではないか?何せ貴殿の名称は“鬼神の愛人”だっただろう?」

「…お戯れは程々にしていただきたいのですが」

「ああこれは失礼、“鬼神の頭脳”だったか。何にせよ、そのような芋娘を公の前に出せば恥を掻くだけだぞ」


そう言って笑いながら歩いていく。その背中を見送りつつ、シャールカが真顔で口を開いた。


「ストラチル様…。あの男性の頭は射抜いて良いのでしょうか」

「ふざけるな。頭だと即死だろう。より長く苦しませるためにも股間周辺を狙え」






「そうやって始末できたら苦労はしないのだがな…」


賑やかな廊下でツィリルが漏らす。支度を終え出てきた女性が、酒宴の会場へと向かって行く。


「……」


当たり前のように美しい顔立ちに体、洗練された佇まい。男でも女でも息を呑み思わず目で追ってしまうような彼女達は全て、今日の為にニーヴルトが用意した妓女である。


(同僚を蹴落とし上司に媚びることで成り上がってきた男だ。“謀略”はさすがに伊達ではないな、ニーヴルトめ…)


2つ名を思い返し、ツィリルは唇を噛む。ニーヴルトにとっても一世一代の大舞台となる今回の酒宴。抜かりはなかった。有名な青楼の妓女を軒並み押さえるだけでは飽き足らず、どうやら自前の結び付きを使い、敵には一切塩を送らぬよう言い含めたらしい。ツィリルがどこに連絡しようとも貸し出しを断られた。これこそが“謀略のニーヴルト”のやり方だ。


「まずいな…」


また1人と、とんでもない美人を見送って、こちらの手札の心許なさに焦燥を抱く。


(いくら珍しい容姿とは言え、やはり無理があるか…)


シャールカを思い浮かべる。ニーヴルトばかり目立ってしまうのは不味いと至った結論だったが、悪い意味で目立ってしまうのは本末転倒だ。恥を掻くのはバルトロメイである。ただでさえも彼には秘密裏に動いている訳で。


「ストラチル様」


悩む彼の隣に、人影が立った。その声と視界の端に映った金糸に、シャールカだと悟る。ツィリルはそちらを見ずに口を開いた。


「ああ…準備が終わったのか。ここまでさせて悪いが、貴様の出番はないかもしれ、な…」


言いながら、顔を上げたツィリルがぎょっと目を剥く。言葉を失った。


「っ…!?」

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