第12話
「父は言いました…」
月明かりの下、沈香の匂いが漂う室内に、シャールカは居た。
「不可能が立ち塞がる時、それは敗北ではない…」
状況が状況なだけに、音量は低めである。月光に照らされて、髪は輝き瞳の碧は深く色付く。そして最後に、ぐあっと目を見開いた。
「心が屈した時こそ、真の敗北である、と!」
こちらも小声で言い切って、そっと背後の窓を閉める。侵入に使った矢と縄を回収した後で、部屋に向き直った。彼女の視線の先には寝台。その上に横たわる人影を確認し、シャールカは唇を噛んだ。
(私は負けた訳ではありません…!諦めてたまるものですか…!)
黒い髪に大きな体躯。バルトロメイである。そう、シャールカは未だ、諦めてはいなかった。
(先程は驚いてしまっただけです。慣れさえすれば変わるはず。まずはそう、触れ合うところから…)
寝ている彼の股間辺りに熱視線を浴びせながら、そっと近付く。初めて見た時は自分には備わっていないものであることと、予想より猛々しい佇まいだった為に怖じ気付いてしまったが、そんなことでは駄目だ。
(多少見た目が凶悪でも、心の内は優しいかもしれませんし…)
そう自身を納得させ、うんうん頷く。気分はさながら手負いの猛獣に近付く調教師である。諦めるのはまだ早い。こちらが心を開けば、友好的な関係を築けるかもしれない。それを期待し、寝台の隣に立ったその時だった。
「っ…!?」
伸ばした手が空中でびたりと固まる。それはそうだろう。仰向けに横たわるバルトロメイの目が、開いていたのだから。一瞬、目を開けて寝る性質のある男かとも思いかけるが、黒い虹彩は迷いなく動き、彼女を捉えた。
「シャールカ。どうした」
「!!」
彼の口からは淀みのない声が飛び出す。意識があると分かり、シャールカの心臓が体ごとびくりと震えた。
(ど、どうしたも、何も…)
頭の中で警鐘が鳴り響く。何せ寝る時は居なかった人間が、勝手に部屋に忍び込んでいるのだ。出入り口はツィリルが見張っている訳で。言い訳のしようがない。
「っ…!」
ごくりと喉を鳴らす。バルトロメイは黙ってこちらを見ている。その目を真っ直ぐ見つめ返して、シャールカは覚悟を決めた。女性としての羞恥心やら、立てていた作戦やら全てをかなぐり捨てて、言い切った。
「これは…夜這いでございます!」
静まり返った室内に、彼女の声が響き渡る。反響した後に、再び静寂が場を支配する。恥ずかしさで顔が火照って行くのを感じつつ、シャールカは負けじと彼を睨んだ。
(こ…これでどう出ますか!旦那様…!)
これまで、バルトロメイにはっきりと性交を示唆する発言をしたことは無かった。何らかの反応を期待できるかもしれない、そう思っての行動だった。
しかしそんなとんでもない宣言をぶつけられても、バルトロメイの表情は変わらなかった。数回の瞬きの後、真顔で頷く。
「そうか、夜這いか…」
「へ」
突然、腕を掴まれた。そのまま強い力で引っ張られる。
「!?」
完全に予想を超えた出来事に、されるがまま布団の中に突っ込む。気付いた時には、寝台の上、バルトロメイの腕の中だった。
「……!?!?」
1拍遅れて、シャールカが声にならない声をあげる。首筋に掛かる息、体のあちこちを包む体温。先程溺れた時以上の混乱に陥る。曲げた脚のちょうど脹ら脛の部分を撫でられて、ぞわわと鳥肌が立った。
「だっ、だんなさ、」
「シャールカ」
バルトロメイの瞳がじっとこちらを見つめる。月の明かりが顔の陰影を照らし出し、いつもとは違う雰囲気に、どきりと心臓が鳴った。
頬に柔らかなぬくもりを感じる。それが彼の手だと分かるのに、少し時間が掛かった。そしてバルトロメイの顔が、ゆっくりとこちらに近付いた。
「っ…!!」
ぎゅうと目を瞑る。彼の顔はそのまま接近し――そして敷布へと落ちた。
「……へ?」
シャールカがゆっくり顔を動かす。聞こえてくるのは健やかな寝息。規則正しく動く頭を見て、寝惚けていたのだと理解した。
「……」
「ぶっ…!?」
廊下に出たシャールカが静かに扉を閉めると、それを見たツィリルが飲んでいた水を口から吹き出した。
「きっ貴様ァ!何故また中にいるんだ!一体どうやって、入…っ!?」
憤慨しながら近付いて来たものの、彼女を見てぴたりと止まった。耳の先まで赤くなった、シャールカの顔に気付いたのだろう。
「……」
「……」
そのまま何も言わず、彼女はその場を後にする。止めることも忘れ、ツィリルは呆然と見送るしかできない。早足で駆けて行く彼女の背中と、閉じられた寝室とを交互に見比べて、ごくりと唾を飲み込んだ。
(一体、中で何が…?)
「……」
(これは、少し驚いただけです)
シャールカは廊下を歩く。心臓の音が五月蝿い。今にも破裂しそうな鼓動を何とか抑え込み、自分に言い聞かせた。
(他意などある訳がありません)
咄嗟に湧いた感情から目を逸らす。けれどそれを邪魔するように不意に降ってきたのは、今朝の占い師の言葉だった。
『シャールカ。貴女は直ぐに、恋の目覚めを迎えることになります』
バルトロメイの声が、まだ耳に残る。どこか情熱を込めて呼ばれた、自身の名。彼の息がかかった首筋の一部が、触れられた頬が熱い。
「っ…!」
「やっぱり、結果。変わんないなあ…」
時は少し遡る。シャールカが弓を買った後、陽も傾きかけた仕事場でソニャは占い机へと向かっていた。出てきた結果を受けて、難しい顔をしながら天幕を仰ぐ。
(経験上、こうなった時の占いって外れないんだよねえ…)
「ソニャ。収入、あったみたいね」
「ギャッ!」
突然声を掛けられ、悲鳴を上げる。そして入り口を見て、呻き声を漏らした。
「お、大家さん…」
「滞納してる家賃、払えるわね?」
幕の隙間からこちらを覗くのは、彼女の住む家の、大家だった。目尻は柔らかに下がり、波打った髪の毛が揺れる。が、のほほんとした見た目に騙されることなかれ。こと金のことに関しては鬼である。ソニャが大慌てで、弓の売上を匿う。
「か、監視してたんですか!?この守銭奴!」
「失礼ねえ。監視してなくったって見えるわよ。だってあの金糸雀人の子、目立ってたもの」
言いながら、彼女は中に入って腰を下ろした。聞きなれない単語に、ソニャはぱちぱち瞬きをする。
「金糸雀人、ですか…?」
「あの子の髪と目の色、あと声からして間違いなくそうでしょう」
そう言って、ソニャが大事に抱えていた稼ぎを掴む。両側から引っ張られた皮袋が、みちみちと音を立てた。
「けれどまあ…流れ者のソニャじゃあ知らなくて当然ね。この国に住む金糸雀人なんて、奴隷以外に居ないのよ」
「そうなんだ…。ここに来る前も見た髪色だったので、てっきり瑞では珍しくないものなのかと…」
戸惑いながらも、ソニャは決して皮袋を手放さない。一進一退の攻防を繰り広げつつ、占いの結果が広げられた台を横目で見た。
(金糸雀人…。この結果と、何か関係があるのかな…)
ソニャが扱うのはジプシー占い。ごくごく近い将来から、現在、過去、果ては遠くの未来まで映す。タロットカードの起源とも言われるこの占いは、他にはない具体的な結果が出ることが特徴である。
『その恋はやがて、身を捧げるような深い愛にまで発展するでしょう』
ソニャが繰り返し占ったことは、シャールカの恋愛に関する未来だった。
「ですが…」
続きを口にする。そう、彼女の職業は占い師。客の意に沿わない運命を見ることも多々ある。そして何度も見てきた。人間がどれほど足掻こうとも、運命を覆すことはできない。たとえそれが、最悪の結末だったとしても。
ソニャが視線を向ける。そう遠くない将来、いずれシャールカに訪れる未来の位置。
意味は、「その恋が実る前に、片方が死ぬ」。
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