第11話


「僕は閣下のお傍に控える。いいか?あの奴隷だけは絶対に入れるな!」


奥殿に繋がる唯一の廊下で、ツィリルは声高に命令する。目の前にいた部下が手を挙げた。


「外壁周囲の警備はどうしましょう?」

「…あの壁の高さだ。弓矢どころか、おおゆみを使っても届かないだろう」


一般的な弓矢の射程はおおよそ100メートル前後。クロスボウと同種の弩であっても、せいぜい300メートル前後だと言われている。

そちらに人員を割くよりは、中からの侵入を警戒した方が良い――ツィリルはそう判断した。


「小娘ごときに何もできはしないと、知らしめてやれ!」






「ここなら届きますね…」


シャールカの呟きは夜空に溶ける。庭木の幹に跨がった彼女の目の前には、奥殿を守る高い石壁。


弦に指を掛け弓を引く。矢じりの先、壁の向こうを見据え、息を吐いた。


「父は言いました…」


合成弓。別名を、コンポジット・ボウ。

複数の素材を掛け合わせた弓の総称である。製造には木や竹の他に、動物の腱や骨まで使われた。


更に、騎馬民族が使うこの弓には、他にはない特徴がある。馬に騎乗したまま扱えるよう小型、そして弓の両端や中央部分が反り返った、奇妙な形を取る。このような特殊な素材と形状で作られる理由は全て、攻撃力向上の為。徹底的に威力を追求した彼らの弓の性能は凄まじく、弓矢の中でも世界最長の射出距離を誇る。


使いこなすことが困難な点、また工法が秘密にされていた為に当時の合成弓は現代には殆ど残ってはいないが、その射程は500メートルをゆうに超えたとの記録も存在する。


「不可能が立ち塞がる時、それは敗北ではない!」


シャールカが指を離した。紐が結ばれた矢が、空を切り裂く。壁を越え、奥殿の屋根へと刺さった。






「ふう…」


壁の中で、シャールカは息を吐いていた。侵入に使った矢と縄を回収し、汗を拭う。


「ここは…風呂場のようですね…」


中庭だと思っていたが、どうやら違うらしい。夜空に立ち上る湯気に、辺りを囲む石、こんこんと湧く湯。露天風呂である。


「あの間男は、夕食の後に湯治があると言っていましたね…」


眼下に広がる湯面を見ながら、シャールカは裸足で辺りを散策する。


「ならば黙っていてもバルトロメイ様はここに来る筈…」


目的地には到着したが、下手に動くのは危険である。万が一見つかれば追い出されてしまうだろう。

だからシャールカは決めた。ここでバルトロメイを待ち、作戦を決行する。


「旦那様のお背中をお流しするついでに、性交に至ります!」


月に向かって声高に誓う。いくら護衛として付いて回っているとは言え、さすがのツィリルも風呂まで付いてはこないだろう。ふたりきりの空間で、バルトロメイの手伝いをするふりをして、偶然を装ってどこにとは言わないが手を滑り込ませてしまえば良い。ラッキースケベを狙った作戦だった。


(そうと決まれば…)


自身の立てた作戦をより完璧にするべく、あちこちを見て回る。ところが全体を見渡そうと風呂に背中を向けた時、足元がつるんと滑った。


「へっ!?」


間抜けな声を出した瞬間、視界が夜空で埋め尽くされる。欠けひとつない見事な満月だったが、それを堪能する余裕など無かった。そのまま、ひっくり返るように湯の中に落ちる。月の下にドボンと重い音が響き、水しぶきが上がった。


「…っ!?」


さて。この時シャールカが落ちたのは自噴泉と呼ばれる、自然に出来た温泉だった。浴槽も人為的に作られたものではなく、元々温泉が湧き出ていた場所を整備し使っている。つまり、箇所によっては水位や温度が人間用ではない。もちろん、危険な部分には念の為注意書きが置かれ簡易的な柵が張られているものの、上から飛び込んでしまえばそんなものは意味がなかった。


そしてシャールカが落ちた場所は、運悪くいちばん水深の深い箇所だった。


「っ!」


全身を温かい湯が包むが、彼女はそれどころではない。地面に足が付かず、無我夢中で暴れる。転んだ拍子に足をつってしまった上に、着たままだった服が水を吸って重くなる。そして更に言えば、草原育ちのシャールカは泳げない。


「ゴボッ!」


呼吸しようと口を開けても、大量の水が流れ込んでくる。完全に混乱に陥った彼女の脳裏に、最悪な結末が浮かんだ。


(死…!)


水底へと沈む。けれどその予感が現実になることはなかった。肺の空気が全て無くなる前に、強い力で引き上げられたのだ。


「おい!大丈夫か!?」


声と同時に、水中から半身が出る。ぼやけていた視界が、急に鮮明になった。髪や肌を通って水が伝い、湯面に落ちる。抱えられたまま、呆然と視線を移した。


「だ、だんなさま…っごほ、」


器官に入った水を何とか吐き出す。それが一区切りつくのを待って、彼女を抱えたバルトロメイは風呂の外へと移動する。浅い場所まで来たところで、シャールカを縁に下ろした。


「シャールカ。何故ここにいる」

「!も、申し訳、ありません…」


未だ尾を引く酸欠に足を引っ張られながらも、何とか謝罪を口にする。彼の言葉に、目的を思い出したのだ。


「お、お背中を、流しに、参りまして…」


目の前には、バルトロメイの鍛え上げられた肉体。どうやらちょうど、湯に浸かろうとしていたらしい。一糸纏わぬ裸を、放心状態で見つめる。


傷痕が散らばる腹筋の上で、珠のような水滴が光る。しかしながら、その視線が更に下まで行ったところで、シャールカが息を呑んだ。


「ヒッ…!」

「何事ですか閣下!!」


それと同時に彼女の背後で扉が開く。騒ぎを聞き付けたのだろう、ツィリルだった。シャールカを目にした瞬間、ギョッと目を見開く。


「貴様ー!どこから入っ、…っ!?」


今度はツィリルが固まる番だった。


「……」

「……」

「…何だ」


黙ってしまったふたりを前に、バルトロメイだけが平然と発言する。だがしかしシャールカとツィリルは、言葉も出ない。彼に釘付けである。


いや正しくは、バルトロメイの股間に。






「……」

「……」


シャールカとツィリルは、脱衣場で並んで座っていた。ふたりとも呆然と宙を見て、顔色は絶望に染まっている。雰囲気はさながらお葬式である。背後の扉からざばばと響いてくる水の音を聞きながら、シャールカは静かに口を開いた。


「…確かに私は、純然たる生娘です…。それ故に殿方の股間と言うものに触れたことはおろか、見たことすらありませんでしたが…」


そこで言葉を切って、わっと両手で顔を覆った。


「あのように恐ろしげで禍々しい見た目であるとは思ってもみませんでした…!」


乾いた布にくるまって、ぶるぶる震える。その横で、全く同じものを見たツィリルも神妙な顔で頷いた。


「ああ…。まさか、閣下の閣下が将軍どころか大将軍だったとはな…」

「うう…。てっきりもっと、親しみやすい形状なのかとばかり…!」

「言っておけば、閣下は規格外だ。あと基本的に男の股間と言うものは膨張するぞ」

「ヒッ…!それはもはや妖怪ではないですか…!なんと恐ろしい…!」


悲鳴を上げて、シャールカが顔を青くさせる。妖怪デカチンコーを思い浮かべ更に打ち震えたところで、ツィリルの様子に、ふと首を傾げた。


「ところで何故、貴方まで落ち込んでいらっしゃるのです?」

「……」

「貴方は既に、旦那様といやらしいご関係なのかと疑っていたのですが」

「は、はあ!?ふざけるな貴様!僕と閣下の関係がそのように淫らなものであるわけがないだろう!」


ツィリルが拳を握って口を開く。一通り怒った後で、自分達の関係を表するに相応しい単語を探して頭の中を捜索する。


「僕達はこう、もっと…純粋で清らかで、尊敬と信頼に満ちた上司と部下の関係だ!」


より怪しさの増す発言だが、誤解は解けた。肉体関係がないと知り、シャールカはほっと息を吐く。


「安心しました…。黙っていたのは、旦那様と比べた時の己の矮小さに男としての自信を失い、落ち込んでいただけの話ですか…」

「本当に最低だな貴様は…」


恨み節を呟く彼を横目に、シャールカが息を吐いた。疑惑は晴れたが、彼女の心は晴れない。手に持っていた弓がちゃきりと音を立てる。ツィリルがそれを見て、眉を顰めた。


「何だその、妙ちきりんな弓は」

「……」


シャールカが生まれ育った胡国ここくの地は、瑞の北側に位置する。だから、北から来たと言うソニャがその道中で手に入れた弓ならば、自分達が使用していた物に近いと踏んで買いに行ったのだ。


(確かに予想以上に、我らが使用していたものに似ていましたが…)


と言うより、殆どそっくりな代物であった。彼女の故郷近く、同じ弓職人の手で造られたものに間違いはないだろう。

これが略奪された物なのか、それとも正規の手段で売買されたものなのか、彼女には分からないが、故郷を思い出し嬉しく思ったのだ。まるで、皆が応援してくれているような。


(と、思いましたのに…)


「はあ…」


道のりの険しさを思い、ため息をついた。

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