第10話
「私はどうやら…偽装工作の道具のようなのです…」
賓館の一室、今夜のヨハナの寝所。主人が落ち着けるよう、香炉の準備をしているシャールカの口からは、不穏な単語が飛び出した。
「偽装…?」
その言葉に、庭を眺めていたヨハナが視線を移す。先程からどうも静かだとは思っていたが、また何か考え付いたらしい。
「ずっと…疑問には思っていたのです…。バルトロメイ様が何故、金を払って買った性奴隷に手を出さないのか…。逆に言えば何故、手を出さない性奴隷を買ったのか…」
シャールカは宙を睨み付ける。そして香木を、勢いよく香炉に刺した。
「それはずばり!表向きは正常な性癖を持つことを装う為の、偽装工作だったのです!」
ふわわと辺りを白檀の甘い香りが包む。その芳香を吸ってから、ヨハナは首を傾げた。
「うーん…そんなことはないんじゃない?」
(兄様たぶん、アンタのこと大事みたいだし)
先日の1件で、彼女の兄がシャールカに対しただならぬ情を抱えていることは、薄ぼんやりとではあるが察している。推測に過ぎない上に自分から言うのはどうかと思い、彼女に明確に伝えてはいないが。そのまま、言葉を濁しつつ先を続ける。
「ていうかそうじゃないと、兄様が偽装しなきゃいけないような特殊な性癖を持ってることになるし…」
「ヨハナ様…」
ところがシャールカは、真顔で静かに首を振った。
「我らを今日この地に招いた殿方…何でも、バルトロメイ様の部下であらせられるとか」
「ああ。ストラチル様ね」
ヨハナが声を漏らす。バルトロメイの主な部下とは、彼女も会った。副官のツィリルとも当然面識がある。武骨な無頼漢が多い中、可愛らしい顔立ちに貴族さながらの優雅な所作を珍しく思ったのものだ。
「…ん?まさか」
「聞いて、しまったのです…!」
準備ができた香炉を、シャールカがそっと部屋の隅に戻す。その顔には暗い翳が落ちている。
「ヨハナ様が易者の方をひとしきり苛め、こちらに戻ってきた後の話です…」
「言っとくけど、いちばん困らせてたのアンタだからね」
「旦那様の今日のご寝所を確認する為、バルトロメイ様の元へと向かったのでございます…」
シャールカは性奴隷である。夜はバルトロメイと共に就寝するのが、彼女の日課だ。同じ寝室、同じ寝台の上、彼の隣に横たわる。たったそれだけの何の生産性もない業務だが、未だ性交に至ることができない彼女にとっては、唯一の仕事だった。
そうして、主人の客室を見つけた時の話だ。声を掛け入ろうと戸の前に立った瞬間、シャールカは聞いてしまった。
「閣下の部屋から…声が聞こえたのです…!」
「…何て言ってたの?」
ヨハナが話半分に聞き返す。シャールカはゆっくり息を吸って、そして絞り出すように口を開いた。
「ストラチル様のお声で、『僕の性感帯は、耳の後ろです』と…!」
その場を静寂が支配した。陽の傾きかけた庭から、小川の水音だけが響いてくる。しばらくしてヨハナが、小さく声を漏らした。
「なんですって…?」
「更にその後、どこがどのように良いのか旦那様は詳しく追求していて…!」
あの衝撃的な光景を思い出しながら、シャールカは拳を握る。ぐうと唇を噛み締めて、結論を言った。
「旦那様は、あのストラチルと言う男と恋愛関係、ともすれば肉体関係であらせられるのです…!」
「……」
何かの勘違いでは、聞き間違いに過ぎないのでは、そもそも人の兄を憶測で男色家にするな――あらゆる台詞を世界の彼方に吹き飛ばし、ヨハナは頷いた。
「それは、真っ黒ね…」
「……」
辺りを警戒しながら、シャールカは館内を歩く。すると広い廊下をせかせかと移動するその背中に、ふと声が掛かった。
「待て。どこへ行く」
「……」
シャールカが顔を上げる。こちらを訝しげに見つめる瞳に、亜麻色の髪。ツィリルだった。
「…バルトロメイ様のご寝所にお邪魔しようかと思っただけですわ」
それだけ言って、シャールカは彼を睨み付ける。一言一言を区切り、強調するように口を開いた。
「私はあの方の、性奴隷ですので」
「…ヨハナ嬢の侍女として仕方なく連れて来ただけだ。貴様を呼んだ覚えはない」
ツィリルが鼻を鳴らす。そのまま、バルトロメイの寝室へと繋がる廊下の中央に立ちはだかった。
「閣下は夕餉の後に、今回の目的である湯治に入られる。貴様のような淫猥で下衆な小娘の侵入を許す訳にはいかん!僕の目が黒い内は、閣下に一歩も近付けさせはしない!」
「……!」
その使命感に燃える瞳を見て、シャールカは確信を得た。
(やはりこの男…旦那様とただならぬ関係なのですね…!)
バルトロメイの本命の男を目の前にしても、シャールカの心に宿るのは諦めではない。自身の使命を阻む邪魔者に対する、明確な対抗心である。
(私の敵…!)
(僕の敵め…!)
ちょうどその時、ツィリルも同じ敵意を抱えていた。
(ただでさえも、閣下は“性奴隷を買った物好き”なのだ…)
公言した訳ではないが、バルトロメイが奴隷を買ったとの情報は、すぐに広まった。瑞の国では人身売買制度はない。無いだけで制度そのものが禁じられているわけではないので、他国で買うぶんには何ら問題はないのものの、あの派手な容姿に若い年齢。性奴隷であることは一目瞭然だ。
彼のような、若く強い肉体を持ち女に困ることなど決してないであろう男が、わざわざ大金を払って人間ひとりを買う。当然、周りはバルトロメイのことを一晩女を買うだけでは満足ならない欲求がある、通常の女性では吐き出しきれない欲望を持つ男と判断する。つまるところ変態として見られる。
(まだ、閣下の恐ろしい印象が先行し、口にするのも憚られるような凌辱でもする為に買ったのかと思われたのは救いだった。現に僕もそう思っていたが…)
ところがどうだ。件の性奴隷はピンピンしている。それどころか、最近のバルトロメイは様子がおかしい。定期的に人間が発情すると信じ込み、脹ら脛が性感帯へと進化する始末。それもこれも、この性奴隷が原因に決まっている。
「閣下に指一本触れさせんぞ!」
目の前の起爆剤を睨み付け、ツィリルは心に誓う。
(妙な噂が出回る前に、僕が何とかしなくては!!)
「私から唯一の仕事を奪うとは許せません…!あの間男…!」
ヨハナの元へと戻ったシャールカは、櫛を片手にうんうん唸っていた。結局あの後、ツィリルが見張っていた為に、バルトロメイの客室には近付けなかった。半ば叩き出されるようにしてここへ戻ってきたのだ。
「あんなぽっと出の男に閣下を奪われるとは…!」
激しい敵意に駆られながらも、シャールカは慣れた手つきで女主人の髪を梳かす。
「けどもし本当に偽装工作なら、アンタは何もしなくても、居るだけで務めは全うしてることになると思うけど…」
ヨハナが振り向くと、黒髪がきらきらと光った。けれどその言葉を受けても、シャールカの瞳から意志が消えることはない。髪をすっかり梳かし終えると、その場から立ち上がった。
「いいえ!このような役立ち方は本意ではありません!」
そう、彼女は性奴隷。たとえ世間を欺くことを目的に買われた身であったとしても、その事実が確定するまでは使命を全うすべきだ。
「必ずや閣下の性欲処理を成し遂げて見せます!それに、旅行中の今が絶好の機会なのですから!」
そう言い切り、シャールカはうんうん頷く。
(いくら閣下と言えども、普段と違う環境下に置かれれば少しばかりは浮かれると言うもの…)
何せ、天宮には療養に来た。顎が落ちるような料理に体を温める温泉。このような心地好い非日常のおかげで、バルトロメイの普段は張り詰めた心にも隙間ができるかもしれない。ほんのひとつも手を出さない性奴隷に触れるようなことがあるかもしれないのだ。
「で、どうするの?」
あれこれと思案を巡らせてたシャールカだが、ヨハナからの一言に現実へと戻った。そう、いくら彼の気が緩んだところで、この場にいる限り本懐が達成されることはない。
「この賓館、昔は近くに関所があったとかで、建物全体が頑丈だけど…兄様の居る場所、更に警備が厳重なんでしょう?」
「ええ…」
シャールカが静かに頷く。
「あの間男の奸計により、本日のバルトロメイ様は奥殿にご宿泊予定なのです。四方は高い壁で囲まれ、繋がる唯一の扉には警備の控える奥殿に!」
バルトロメイの旅行は、寝室どころか建物さえヨハナ達とは別だった。湯治も大浴場ではなく、特別に設えられた露天風呂を使うのだそうだ。
「ああバルトロメイ様…!まさに囚われの姫…!」
「姫…?」
「そんな閣下に会いに参上する…私はさながら、華麗な怪盗と言ったところでしょうか…」
「どっちかって言うと、何とかして夜這いしようと画策する助兵衛爺じゃない?」
(さて、どうするべきでしょう…)
ヨハナの悪口も無視して、彼女は考え込む。先ほど確認してきたが、奥殿の侵入者を阻む塀は高く、通常の矢は届かないように出来ている。一本道にいる警備員は人間だ。付け入る隙はあるかもしれないが、問題は、必ず傍に控えているであろうツィリルである。彼が騙されるとは思えない。いくら女性らしい姿形をしていても、本職が軍人で、男だ。単純な力勝負でシャールカが敵う訳がない。
「……」
「もう諦めたら?」
すっかり黙ってしまった彼女に、ヨハナが声を掛ける。幸いにも客室は広く、シャールカの寝る場所ぐらいなら何とでもなるだろう。良かれと思って言ったことだったが、シャールカは大きく首を振った。青い瞳が宙を睨む。
「いいえ!このシャールカ!一計を案じます!」
「うう…」
自身の仕事場の中で、ソニャはがっくりと肩を落としていた。薄い布の隙間からは、楽しげな外の喧騒が聞こえてくる。
「今日もこれだけかあ…」
机代わりの木箱の上には本日の売上。今日は客も入ったが、先ほど大家が現れその大部分を滞納している家賃にあてられた為に、残ったのは雀の涙ほどの稼ぎである。
「また水っ腹になるの嫌だよぉ…」
消え入りそうなぼやきと共に涙を流していると、突然入り口の布が大きく開け放たれた。
「へ、」
「すみません!」
「ギャッ!出た性交女!」
そこから飛び込んできたシャールカに、思わず悲鳴をあげてひっくり返る。けれど彼女と言えば、付けられた妙なあだ名も気にすることなく、ソニャに詰め寄った。
「先程、北の地で妙な形の弓を得たと仰っていましたね?それを見せてください!」
言いながら、皮袋を出し叩きつける。何もなくては不便だろうと、働き始めた時からヨハナから渡されていた給金だ。使い道もなくずっと貯めていたそれを指して、言った。
「その弓が私の思っていたものと同一ならば、買い取りますわ!」
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