第8話
「どうやら、嫌がらせを受けているようなのです…」
シャールカは真剣な表情で呟く。数日前にどこかで見たような既視感を前に、ヨハナの口からは思わずそれを指す言葉が出た。
「…また?」
当然、笑い事ではない。が、「これは苛めである」と認識し傷付くに至るまでが妙に遅い彼女が、これほど短期間に2度も悩まされるとは。珍しいこともあるものだと思いながら、ヨハナは視線を移す。憂いに沈んだ碧い瞳と目が合った。
「…今度は誰に?」
「他ならぬ、バルトロメイ様にですわ…!」
言いながら、シャールカがギリィと歯を食い縛る。部屋に広がるのは淹れたての白茶の甘い香りだが、そんな癒し効果など今の彼女の前では無意味だった。
「発情の有無を確認する行為がやっと止んだかと思えば、『寝ている俺に手を出したのか』と、執拗に聞かれたのです…」
その一言に、ヨハナは茶杯に口をつけたままぱちぱち瞬きをする。
「…襲ったの?」
「とんでもありません!」
シャールカが勢いよく否定し、ぶんぶん首を振った。滑らかな金糸が、横に揺れる。
「先日酔い潰れたのは私の方でしたから、万にひとつもそのような真似ができる筈がないのです…!完全に煽られたのです私は…!ああ何と憎らしい!」
勘違いとは言えど実際に「お前の玉袋を襲った」と宣言してしまった訳で、バルトロメイが再度確認するのも致し方ない。が、残念ながらシャールカに記憶はない。丸々消えている。その為に、彼の行為は嫌がらせの最たるものである――シャールカはそう理解していた。
「しかも!しかもですよ!」
茶壺の中に新しく湯を継ぎ足し、彼女は叫ぶ。
「昨夜などは、寝間着の裾を少し短くして足を見せて寝所で待機したのですよ…どうなったと思います?」
「…どうなったの?」
世の中には女性の四肢に偏執を抱く殿方も少なくはない、そう小耳に挟んだが故の行動だった。そうでなくとも、普段人には見せない少々破廉恥な部位をちらりと覗かせた性奴隷が寝台に居れば察すると言うものだろう。そう言うものだろう。ところがどうして、バルトロメイの行動は期待したものではなかった。
「下衣を、穿かせられたのです…!」
「ああ…」
ヨハナの口からは声が漏れる。こちらは全身全霊を懸けて誘っていると言うのに、まるで介護のごとき行動を取られた訳である。同じ女として、自負が傷付いたことは容易に想像できた。
「しかも言うことに欠いて、『そんなに脹ら脛を露出させて、お前が発情したらどうするんだ』ですよ…!」
「え…?うん」
(兄様は何を言っているの…?)
ヨハナは兄に対して軽い恐怖を抱く。シャールカと言えば、ぎりぎりと激しく歯軋りをしながら恨み言を口にする。
「どこの世界に脹ら脛で発情する女がいると言うのです!お前の貧相な足など欲情するに足らんと言う意思表示でしょう!おぼこである私をからかっているに違いありません!」
「……」
「様々な手段を用いても目的が完遂できず、ただひたすらに悶々とする奴隷をせせら笑っておいでなのです!」
怒り心頭の様子の彼女を見ながら、ヨハナはもう一度白茶に口をつける。柔らかな味が喉を通り過ぎるのを待って、口を開いた。
「そういえば、こっちの嫌がらせはその…止んだ?」
言いながら、“愛玩動物”と彫られた表札をこんこん指で叩く。それに気付いたシャールカが、むうと口を尖らせた。
「その件なのですが、使用人の一部が一斉に解雇されたのです」
シャールカが茶壺を掲げた。空いた主人の茶杯に、すぐさま追加の茶を注ぐ。
「何でも不貞の輩を招き入れたそうですわ。信じられません!雇われの身でありながら、バルトロメイ様を狙う悪漢を差し向けるとは…!」
「え。う、うーん…」
(あの兄様を狙ったところで、返り討ちに遭うだけだと思うけど…)
ヨハナが部屋からちらりと、回廊を見やる。彼女は知っている。思い出すのは惨憺たる現場。あの後、関わった使用人は解雇、商人が雇っていた自警団は全員祖国に送り返したのだそうだ。
「そうだ。シャールカ、これ」
そう言って、ヨハナが紙片を差し出す。
「これは…?」
「外国で実際に送られた、地方から王都への伝令の写しだって。機密事項だから、全部は見せられないらしいけど」
「……?」
主人の意図を図りかね、シャールカが首を傾げる。けれどヨハナの手はその麻紙を差し出したまま。疑問に思いながらもそれを受け取った。彼女の言葉通り、簡単な報告事項が並ぶ文書は、あちこち塗り潰されている。
「私には読めないけど、アンタなら分かるでしょう」
「……」
それに目を通すシャールカに、ヨハナが声をかける。瑞の言語ではない。けれどシャールカにとっては、それ以上に馴染みのある文字だった。
(北クルカの、言語…)
「あ…」
そして見つけた。「南の遊牧民が国境へ入った為にこれを準国民として扱う」との一文。その後に、居住地と身の安全を保障するとも。日付は、彼女が人買いに捕まったあの日だった。
「っ…!」
彼女が手に持つ紙がくしゃりと歪む。唇の端からは、小さな声が漏れる。ヨハナが顔を上げ、微笑んだ。
「…良かったわね」
そう言って、茶杯の中身を飲み干す。そしてシャールカの方を見ないようにしながら、出入口へと歩き出す。自分の身だけを出して、優しく扉を閉めた。
「……」
廊下を歩きながら、ヨハナは軽く息を吐く。木で建てられた回廊から覗くのは、よくよく手入れされた庭、鳥と虫の声。あんな騒動が起こった後とは思えないほど落ち着き払った光景を前に、目を細める。
『シャールカに、何が起こっているか話せ』
あの日。珍しく離れに現れたバルトロメイはそう言った。聞かれるがまま答えていると、みるみる内に彼の眉間の皺が深くなっていく。全身から立ち昇る怒気には、寒気がしたものだ。
一通り話し終わったところで、ふと、バルトロメイの視線が動いた。回廊に繋がる廊下をじっと見ながら、低い声を出す。
『シャールカを連れて離れていろ。少しの間で良い』
そう言って、こちらに背を向け歩き出した。さすがにあの背中に真意を問う勇気は無かったが、ヨハナの心にひとつの疑惑を落とした。
(兄様って…)
今回の北クルカの文書も、バルトロメイが持ってきたものだった。おそらくは敵国に忍び込ませた間者から、金を払って買ったものだろう。
「……」
窓際に肘をついて、手の甲に顔を乗せる。陽の光に照らされてきらきら輝く緑を見ながら、ふうと息を吐いた。
「まさか、ねえ…」
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