第7話
「あら?」
クルハーネク邸。中庭に面した回廊で、シャールカが声を出した。洗濯物の入った篭を抱えたまま、足を止める。
「見ない顔ですね。屋敷に何かご用でしょうか?」
昼間の高い日差しが降り注ぐ廊下に、見知らぬ顔を見つけたからだ。彼女に気が付くと、大柄な男は頭の手拭いを上げ顔を見せた。
「屋敷の壁の補修を頼まれまして!クルハーネク閣下直々のご依頼で参りましたが、聞いてませんか?」
「旦那様が…」
言いながら、シャールカが彼を見つめる。作業員らしい体格の良さ。男の手には工具箱。顔に大きな傷痕はあるが、瑞では徴兵で怪我を負う者は少なくない。
そして何より、主が留守にすることも多い当屋敷では、警備に重きが置かれている。門をくぐるにあたっては、荷物検査や身元調査も入る筈だ。シャールカはすぐに顔を上げ、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いしますわ」
「ええ!こちらこそ!」
男はにこやかに笑った。そのまま彼女と別れ、歩き出す。廊下の端まで来た時に、ぽつりと呟いた。
「思ったより可愛いじゃないか」
振り向き、シャールカの背中を目で追う。何の疑いも持っていない彼女は、篭を抱えたまま洗い場へと歩いていく。男の顔が、人の良い工夫の顔から、ならず者のそれに変わった。
「白い肌がそそられる。何よりあの目が好みだ。どんな風に歪むのか、見てみたい」
「…好きにしてくれて良いわ」
廊下の角から飛んできた声に、男が顔を戻した。唇の端をつり上げて笑う。
「本当に良いのか?アドリアナ」
壁の影で、よく手入れされた黒髪が揺れる。形の良い純黒の虹彩が、彼を捉えた。
「何をしたって構わないわ。今日屋敷にいる連中は、全員私の息が掛かってるし、あいつが昼間居るのはあの妖婦の娘の傍。こんな離れに、好き好んで来る奴なんて居ない」
言いながら、アドリアナが自分の手を握りしめた。爪が食い込むほど強く握るのと同時に、瞳が暗く燃え上がる。その様子を見ながら、彼は口を開いた。
「そんなにあの将軍様が良いのか?」
「……」
「そう焦らなくても、どのみち戸籍のない奴隷が結婚できるわけないだろ」
「うるさい!」
アドリアナが吠えるように叫ぶ。男は肩を竦め、小さく笑った。
「まあ…こっちにも都合の良い取引だ」
唇の端から、赤い舌が覗く。
「どうやら欲しい奴がいるらしくてな…金糸雀人の価値は右肩上がりに伸びてる。愉しんだ後は、足がつく前に売っちまおう」
瑞には奴隷制度が存在しない為に、法整備も万全ではない。奴隷が国民と見なされることはなく、将軍の所有物であろうとも、たとえ傷つけられ売り払われようとも、それを取り締まる法的な罰則は存在しなかった。物以下となった彼らを守るのは、主人の采配に依る。
(選ばれるのはアンタじゃないのよ…)
アドリアナは苛々と爪を噛む。男は父の部下だ。汚れ仕事を一手に引き受ける。シャールカの未来がどうなろうと、知ったことではない。
(私こそが!)
「昨夜は不覚をとりました…」
手元の桶の中で、じゃばじゃばと音がなる。服を洗いながら、シャールカは唇を噛み締めた。まるで恨み言のように呟いているのは、昨夜の酔い潰れ事件のことである。
「目が覚めたらバルトロメイ様が居ないどころか、いつの間にか辿り着いた寝台で意識を失っている始末…!」
力の限り布を引き伸ばす。己の不甲斐なさに対する恨みと一緒に、洗濯物を板に叩きつけた。
「これで一体どうして、閣下を襲うことなどできましょうか…!」
そうして震えるその背中に向かって、手が伸ばされた。伸びてきた手のひらは肩を掴む。
「!」
突然の感触に、シャールカが振り向いた。背後に立つ人物を見て、微笑む。
「ヨハナ様」
「アンタね…。そういう算段は、心の内だけで語りなさいよ…」
ヨハナが呆れたような声を出す。シャールカは水の中の手を止め、首を傾げた。
「どうかなさいました?」
昼間の彼女はヨハナの侍女の役割を担っている。これが終われば女主人の元へ戻ると言うのに、わざわざシャールカを捜し声を掛けて来たのだ。何かあると思うのが普通である。ところがそれを聞くと、ヨハナの視線が宙を彷徨った。
「あー、ええと…」
「……?私にご用事ですか?」
「まあ…そんなとこ」
妙に歯切れの悪い返事をしながら、手巾を渡し濡れた手を拭かせる。場の片付けもそこそこに、急かした。
「良いから来てちょうだい。ほら早く」
「?」
無理矢理背中を押されるようにして、シャールカはその場を後にした。
洗い場からほんの2丈ほど先。壁の向こう。回廊の中に、アドリアナと男は居た。標的であるシャールカが離れていく様子はその場からでも確認できたが、彼らの意識は目の前だけに集中する。
「ここで、何をしている?」
大きな体躯、離れていても伝わる怒気。バルトロメイ・クルハーネクその人だった。
「だ、旦那様…!」
アドリアナが息を呑む。その首筋を、すうと汗が流れた。
(今日は屋敷に居ない筈じゃ…!)
それより何より、彼の居住地は母屋である。離れに繋がるこの廊下へ来ることはそうそう無かった。筈だった。
「…予定が変わったな」
アドリアナの隣に立つ男は、息を吐く。けれど想定外の状況にも物怖じせず、平然とした様子で声を出した。
「おい、仕事だ」
「ち、ちょっと!」
その声を合図に、廊下の影から複数の男達が姿を現した。バルトロメイを囲むように立つ、彼らの手には武器。
「ここまで来て引き下がれるかよ。それに、天下の将軍様が一般人に負けたとなりゃあ、これ以上の弱味はない」
そこで言葉を切って、彼は雇用主に向かって笑みを浮かべた。
「良かったなアドリアナ。お前の好きなように出来るぞ」
「っ…!」
アドリアナの父は商人だ。多くの者と取引すれば自然と、厄介事も引き寄せる。諍いが国境を跨ぐことも多く、司法が介入する余地はない。その為に瑞の殆どの商家では、私設自警団を抱えている。そして彼女の父が一代で成り上がった理由を聞かれれば、それは商才と、この自警団にあった。
彼が取引をしたのは、隣国ジカでは指名手配をされている凶賊の一味。身の安全や金銭と引き換えに、商品を守り、時に商売敵を潰す目的で雇われた。粗暴で残酷な無頼漢の集まりだが、腕は確か。「人を黙らせること」に置いて、彼らの右に出る者はいない。
「不用心だな。武器のひとつも持ってはいないのか」
「……」
挑発のような言葉にも、バルトロメイは無言を返す。それも構わず、追い討ちをかけるように男は続けた。
「前から興味はあったんだ。将軍様って言うのは、どれだけ強いんだ?」
今この状況も、彼らの作戦のひとつだった。こうして前に引き付けている内に、本命が動く。バルトロメイの背後で、男が剣を振り上げた。
(将軍だろうが何だろうが、所詮は坊っちゃん同士の喧嘩ごっこ!純粋な殺し合いに関しては、俺達の方が上だ!)
「がっ…!」
潰れたような声が響く。けれど次の瞬間、顔から血を流し倒れたのは、バルトロメイではなく、背後の男の方だった。
「!」
バルトロメイは振り向くことも、眉ひとつ動かすこともしなかった。ただ肘を突き出し、男の顔面を砕いた。
「言え」
身構える彼らを前に、バルトロメイが口を開く。開いた瞳孔の奥で、殺意が光った。
「シャールカに、何をしようとしていた?」
「……!」
男が工具箱を落とす。中から取り出した輪状の武器を手に嵌める。
イヴァン・ラーンスキー。バルトロメイとヨハナの父親は、好色な男だった。かつては郡を預かる
姓を継がねば干渉は無いが当然、恩恵もない。母親は政治とは何の関係のない農家の出身。では、後ろ楯のない彼が将軍と言う官職にまで登り詰めた理由は何か。それは統率力でも、軍略でもない。ひとえに、実力である。
「っ…!」
アドリアナが息を呑む。彼女の仲間は全員、床に沈んでいる。そしてたったひとり、その場に立つ男は、アドリアナの元まで真っ直ぐに歩いてきた。彼女を見下ろして、バルトロメイは静かに言った。
「…何を企んでいた。吐け」
呆然と、彼女が視線を上げる。彼の黒い虹彩の中には、自身が映っていた。髪に飛んだ血、恐怖で歪んだ表情、怯え震える体。
アドリアナは気付いている。自身の焦燥の正体。シャールカに激しい嫉妬を抱いた本当の理由。どれだけ見ないふりをしたとしても、自身の心にだけは嘘はつけない。
初めはただの嫌がらせだった。服を裂いたのは愉快だったから、自室に蛇を放てば怯えると思った。けれど焦燥は、苛めを行う度に募る。つまらない嫌がらせをものともしない彼女に。そして決定的だったのは、馬に跨がるシャールカを目にしたあの時。
金の髪、碧の瞳。異人だ。泥に汚れた顔、獣の匂い、貞淑などとは程遠く女性らしさの欠片もない姿。彼女の理想とする美とは真逆の光景だった。その筈だった。
けれど、あの時あの瞬間。もう誤魔化せないほど明確に、アドリアナは思ってしまったのだ。
『君より美しい女性はいない』
何千回と、自分を恍惚に導いて来た言葉を前に。
(――嘘つき)
彼女に比べれば、バルトロメイの瞳に映った自身は何と醜いのだろうと、まるで他人事のようにそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます