第6話


「…さて」


その夜。シャールカは無事定刻通り、バルトロメイの寝所に着いていた。室内でひとりきり、髪を顔に近付けふんふんと鼻を鳴らす。


(馬屋の馬達を落ち着かせていた為に、体を清める時間が少なく、多少の獣臭さは残ってしまっていますが…)


「問題はありません。どちらにしろ、バルトロメイ様に意識は無い予定なのですから!」


誤差の範囲内だと自分を納得させる。そして両手を腰に当て、はっきりと宣言した。


「このシャールカ!次なる一計を思い付きました!」


そう声高に叫ぶシャールカの目の前には壺。どれも酒がなみなみと盛られた、彼女の作戦、その要である。


(さあ旦那様!私と酒飲み勝負です!)


これこそがシャールカの一計。手を出されないのならこちらから出すまで。バルトロメイを酒宴に誘い酔い潰し、その隙に襲おうと言う計略だった。犯罪である。






「…もうそこまでで良いだろう、シャールカ」


机越しに、バルトロメイがこちらを見て息を吐く。お持ち帰り作戦が決行されてから数時間後、事態は思わぬ方向に向かっていた。


(な、何故…!)


結論から言ってしまえば、シャールカの作戦は成功だった。そう、作戦の大部分は成功したのだ。断る理由もなかったのか、バルトロメイは彼女の誘いを受けた。杯にはどんどん注がれ、次々と酒壺を空けていくこともできた。ただひとつ予想外だったのは、未だ涼しい顔で杯に口を付ける彼とは裏腹に、シャールカは既に限界が近いと言うことである。


「明らかに飲みすぎだ。止めておけ」


(くっ…!)


悔しそうに唇を噛む彼女は、頭の先から爪先までものの見事に赤く染まっている。それでも今にも引っくり返りそうな頭を何とか平行へ戻して、シャールカは机にしがみつく。


「いいえ!この程度で潰れていては、ふくらはぎに笑われます…!」

「……?」


当然、シャールカは馬のことを言ったのだが、バルトロメイが知る筈もない。


(独特の言い回しだな…)


頭を抱えるとか、膝が笑うとか、彼ら特有の慣用句のようなものかと理解していた。そして彼は、気になっていることを聞いた。


「ところで。最近、発情は抑えられているのか?」

「っ…!」


シャールカが言葉に詰まる。既に酔いで真っ赤だった顔が、更に深紅に染め上がった。


「ま、また…!ばっ、ばかにするのは止めてください!」


人間が発情する訳がない。いや生物学的には年がら年中発情しているようなものなのだが、人は一応は理性的な生物である。バルトロメイは媚薬のことも何もかもを見抜いた上で、この奴隷を嘲笑っているのだとシャールカは理解していた。


「私を定期的に発情する生き物のように扱って…!」


だがしかしバルトロメイは思った。


(違ったのか…)


定期的に発情するならば日常生活にも支障をきたすだろう。何より彼にとって恐れるべき展開は、我慢しきれなくなった発情シャールカがよその男とただならぬ関係を持ってしまうことだ。その身を心配して、そして淡い恋心が生んだ行為だったのだが、残念ながらそれがシャールカに伝わることはない。唇を噛んで、キッと彼を睨み付けた。


(この程度の酒で酔えるものかとせせら笑われ、馬鹿にされる始末…!いいように手玉に取られているだけではありませんか!)


「まだまだいけますわ!私、酒には強いのですから!」


また新しく酒壺の蓋を開けて、彼女は宣言した。


さて。一般的に、シャールカ達遊牧民の間で流通しているのは、馬乳酒ばにゅうしゅと呼ばれる醸造酒である。読んで字の如く、馬の乳から作られた酒の1種なのだが、この馬乳酒、比較的アルコール度数が低い醸造酒の中でも一等低い酒にあたる。


これに対して、瑞で主流なのが白酒パイチュウ。そのアルコールの強さから火酒とも呼ばれる蒸留酒である。


「シャールカ。もう寝ろ」


この酒で育ったバルトロメイに当然勝てる訳がなく、先にへべれけになったのはシャールカの方であった。それでも何とか、彼女は気力を振り絞る。


「駄目です…ふくらはぎが、見ています…」

「…そうだな」


バルトロメイが彼女の足に視線を落として、返事をする。そこに付いているのだから見てはいるだろうと見なしたのだ。するとシャールカは朦朧とした意識の中で、独り言を言い始める。


「ああ…本当に。あの子はとっても、可愛いのですよ」

「…?そうか」


自身の脹ら脛を推してくる女とは少々変わっているが、言われて見れば、白く柔らかな膨らみは確かに可愛いと言えば可愛いのかもしれない。まあ自分のそれに比べれば大分愛らしいなと、惚れた弱みもありバルトロメイは納得する。


勘違いはありつつもここまで奇跡的な整合性を見せていたふたりの会話だったが、ここで少々風向きが変わる。すっかり酔いが回ってしまったシャールカが、真っ赤な顔でにこにこしながら言ったのだ。


「ふふ。撫でると良い声で、鳴くのです…」

「…は?」


なんて?


「特に触れられるのが好きで…筋の辺りを指でなぞってやると、よく感じるのでしょうね。気持ち良さそうな声を出すのですよ」

「……」


馬の首筋周辺の話なのだが、当然バルトロメイはシャールカの足の話だと思っている。脹ら脛の筋を撫でられて喘ぐ女だと思っている。


「私ときたら…過去のことばかり言ってしまって仕方ありませんね…」


軽い混乱に陥っている彼には気が付かず、シャールカは寂しそうに口を開く。そして更に、衝撃的なことを言った。


「たまぶくろを触って、久々に思い出してしまいました…」

「たま…っ!?」


バルトロメイが口を付けていた杯から、酒が吹き零れた。その衝撃で、彼の肺の方に入ったらしい。そのまま口元を押さえ咳き込む。


「あら旦那様」


酩酊しながらも、そこは奴隷の鏡。シャールカがそっと布巾を差し出してきた。それで拭うのもそこそこに、バルトロメイは身を乗り出す。眉間に皺を寄せ、彼女の顔を覗き込んだ。


「誰のだ?」


シャールカはきょとんとしながら、彼の黒い瞳を見つめ返す。そして次の瞬間、満面の笑顔を浮かべた。


「それはもちろん、旦那様のたまぶくろに決まっておりますわ!」

「!?」

「大きく勇敢、閣下の朋友に相応しい出で立ちでした…!」

「…!?!?」


うんうん頷きながら、主人の戦馬について語る彼女の目には一点の曇りもない。そんなシャールカを、バルトロメイは止める。そしてこれ以上ないほど真剣な表情で、聞いた。


「いつ、見た?」


シャールカはぱちぱち瞬きをして、口を開く。


「ついさっきですわ」

「さっき!?」


バルトロメイの口からは思わず素っ頓狂な声が出る。その頃彼女は馬屋に閉じ込められていたわけで、実際に彼の股間を見た筈がないのだが、バルトロメイがそれを知る訳もない。


そして運悪く、バルトロメイには心当たりがあった。昨晩は徹夜の仕事があり、昼頃に屋敷に戻った。その為に、夕餉の前に軽い仮眠を取っていたのだ。ほんの一刻ほどの間の出来事だったが、バルトロメイの背中をひたりと汗が流れる。


(まさか、その時に…服を脱がし“見た”のか…!?)


いや待て。目の前の彼女は、「触った」と言ってはいなかったか。

するとシャールカは、言い辛そうに口を開いた。


「少々込み入った状況でして…。上に跨がらせて頂きました…」

「ま、跨が…!?」

「旦那様の所持品ですから、失礼であるとは承知の上だったのですが…」

「し、失礼とかそういう問題ではないだろう!」


一体何が起きているのかと愕然とする。けれど詳細を聞き出そうとした時には、シャールカの頭はゆっくりと傾き始めていた。


「大丈夫ですよ、父上。負けませんから、私…」


もにゃもにゃ口の中で呟きながら、沈んでいく。


「けれど皆が無事かどうか…それだけは…」

「……」


ごっちんと机に額がぶつかった。規則正しく上下に動く頭を見つつ、バルトロメイが立ち上がる。杯を置き、そのまま部屋を後にしようとして――踵を返して戻ってきた。


「……」


翌日確実に寝違えていそうな体勢で寝息を立てる彼女を、上から眺める。しばし悩んだ後に、屈んでシャールカの体に触れた。

なるべく足には触らないように意識しながら、ぎこちなく彼女を抱えて持ち上げる。


「ん…」


途中、彼の胸元でシャールカが声を出した為に、一瞬びくりと身を震わせるが、彼女は起きることはなかった。そのまま、軽い体を敷布の上に乗せ息を吐く。ぐでりと伸びた彼女に毛布を掛けたところで、ふとその鼻が、酒以外の匂いを感じ取った。


「……?」

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