第5話


「アドリアナ…本当に大丈夫?」


その名に反応し、整った眉が動く。腰まである艶やかな漆黒の髪は揺れ、切れ長の瞳が声の主を睨んだ。


「平気だってば。馬小屋で一晩過ごすくらい。あの奴隷にはお似合いの寝室よ」


視線を送れば、ぴたりと閉じられた馬屋の扉。静かに佇む建物を見ながら、アドリアナは共犯の少女を睨み付けた。


「それとも何?あんたが閉じ込められたい?」


冷たく吐き捨てる。ここまで言えば押し黙るだろうと見越して言った脅しだったが、彼女は迷いながら尚も続けた。


「けど…今日は旦那様の戦馬も居た筈だよ」

「だったら何よ」

「その馬、去勢してないって聞いたの」


瑞の国では、農耕馬や馬車馬は去勢を行うのが一般的である。これは偏に従順性が求められる為で、去勢無しに御するのはおおよそ不可能である。

現代でこそ人間に従順な品種が多く出回っているが、本来の馬は気性が荒く獰猛。特に戦場で活躍するような馬となれば、懐柔のしやすさよりも轟音や武器、命のやり取りに一切物怖じしない性質と、敵を蹴散らす突破力が求められる。時に、積極的に敵に危害を加えるよう訓練された軍馬まで存在する。


「一度だけ見たことがあるけど、体も大きくてすごく攻撃的だった。昔、馬房に入れようとした馬丁が大怪我を負ったって。もちろん繋がれてるだろうけど、あいつが余計なことでもして怒らせたら…」

「…あんな奴隷死んだって、別に誰も構やしないでしょ」


そう言って、アドリアナはくすりと笑う。


「実際に閉じ込めるのは人にやらせたから証拠はないし。あの奴隷が役目を全うできなくなれば、閣下も飽きるわよ」




『君より美しい女性はいない』


アドリアナを一目見た男は、皆が皆口を揃えてそう言った。瞳も髪も、混じり気のない純黒。手入れの行き届いた肌は白く、華奢でありながら要所要所に女性らしい膨らみも兼ね備えている。生まれ持っての恵まれた容姿、人に愛されて育ったが故に培われた自信。流行り廃りにも敏感で、身に付ける物は常に一級品だった。同性からは羨望を、異性からは思慕を集める。そういう人物だった。


ただ唯一、彼女に綻びがあるとしたら、それが「家柄」だった。父は金持ちだったが、所詮は成り上がり。本当の上流階級ではない。


(“成金の娘”なんて私には相応しくない)


不満ならば変えれば良い。例えばそう、“将軍の妻”と言う称号ならば、皆が皆憧れる。特に若く将来性の高い、今まで難攻不落と謡われた男の妻など、皆の羨望を集めるに足る肩書きだ。

自分ならなれる。アドリアナには確信があった。何故なら「自分より美しい女性はいない」のだから。


だから、父の伝を辿りわざわざバルトロメイの屋敷で貧乏人の真似事を始めた。上手く行く筈だったのだ。バルトロメイがある日突然、碧い目の奴隷を連れて来るまでは。


(下品な色の髪、文字も持たない下賤の女)


アドリアナの思う「美」とはかけ離れた女だった。バルトロメイは珍しい毛色に魔が差しただけだ。彼女はそう判断した。最終的にはアドリアナを選ぶに決まっている。


(でもあの女は許さない。そもそも、奴隷なんて身分で旦那様と――)


「アドリアナ!」


そう沸々と怒りを募らせていると、突然名前が呼ばれる。それに気が付き顔を上げた瞬間、轟音と共に土煙がその場に立ち上った。


「っ…!?」


まず見えたのは、まっぷたつに割れた閂。開け放たれた馬屋の扉。そして土埃が消えた先を視界に入れて、息を呑む。


そこに佇んでいたのは、巨大な馬だった。黒い毛並みは艶やか、口元からは荒い息、太い足がその巨躯を支えている。彼女が今までに見たどんな馬よりも大きい。そしてその馬上を視界に入れた瞬間、鳥肌が立った。


「な…!」


馬具と鎧を身に付けた馬の上、手綱を持ち跨がっていたのは、シャールカだった。閉めきられた扉を、馬を操り中から突破したのだと理解するのに、そう時間は掛からなかった。


「な…なんであんた、馬に乗れるのよ!女のくせに!」


思わずアドリアナが、声を張り上げる。


瑞の国で馬と言えば、移動用、または荷車を引く為の馬や驢馬ロバを指す。これだけ大型で力の強い戦闘用の種ともなれば、扱える者は畜産家やバルトロメイのようなごく一部の兵だけだ。一般市民、特に女で馬術に長けた者など、存在しない。


「女の癖に、とは、少々見当違いな理屈です」


シャールカがこちらに気付いた。紺碧の瞳が月明かりを映す。


「父は言いました…」


顔に付いた汚れをぐいと拭って、そのまま静かに口を開いた。


「遊牧民の女子たるもの…須く、巌頭に悍馬かんばを立たしめよ、と!」


ぴしゃりと言い切られて、アドリアナと傍に控えていた少女はぱちぱち瞬きをする。何だか突然、厳つい言葉が出てきた。


「が、がんとう…?かんば…?」

「騎馬の民である我らは、暴れ馬を御してこそ一人前と言う意味です!」


シャールカは胸を張って続ける。


「その言葉通り、馬は我らにとって生活の一部!齢3つの時点で既に乗りこなしますわ!」


シャールカは遊牧民の出身だ。正式には騎馬遊牧民。馬に乗り家畜を放牧し、非定住生活を送る。そして同時に、性別、身分、個人に関係なく生まれた時から民全員が馬に乗ることが決まっている、世界で唯一の民族でもある。


「っ…!」


自分の体の何倍も大きな馬を平然と操るシャールカを前に、アドリアナが一歩下がる。お嬢様育ちの彼女達には当然、馬の扱いなど分かる訳がなく、どうにかできる筈がない。


「こ、この、野蛮人!」


捨て台詞だけを残し、走って逃げて行った。






「ふう…」


蹴破った扉を元に戻しながら、残されたシャールカは息を吐く。乗っていた馬を元の位置に繋ぎ直し、その体を触った。


「お前がいて助かりました」


鎧を外しながら、声を掛ける。首筋を撫でると、ブルルと鼻を鳴らして擦り寄って来た。それに応えるように、同じところをとんとん叩く。


「ふくらはぎを思い出しますね…」


あの日。シャールカの馬は、追っ手に捕まる寸前で馬具を外し逃がした。有事の際は部族を追うように教え込んでいた筈だが、彼女の心には不安が過る。


「あの子も、皆も、無事に逃げ切ったでしょうか…」


身を挺して逃がした彼らがどうなったか、シャールカは知らない。目標としていた先は、彼らが居た地域から北の異国。平和な世ならいざ知らず、今は至る所で戦争が行われる乱世だ。そうそう敵国の情報は巡っては来ない。今は瑞の国の奴隷となったシャールカに、彼らの無事を知る術はなかった。


(もし、国境を越える前に捕まっていたら…?)


「っ…!」


外した馬鎧を持ったまま、その場で固まる。背中を嫌な汗が流れた。ここに来てから何度も考えたことだ。けれど答えが出る訳もなく、いつも心が押し潰されそうになる。


目の前の彼女の異常を感じ取ったのだろう。馬が、鼻先を擦り付けてきた。それにくすりと笑って目尻を拭う。


「お前、見かけは恐ろしいのに、とても優しいですね」


言いながら、瞼を閉じ鼻先を毛に埋める。そのまま、自分に言い聞かせるように呟いた。


「皆は国境を越えた先で、父と合流する手筈でした。きっと大丈夫」


どちらにしても、今のシャールカにできることは限られている。信じるよりほかはない。

目の前の馬の鼻を、愛しそうに撫でて続ける。


「お前のような大きく勇敢な種は、無事に戦争で生き残り年を重ねれば、種馬になることができるそうですよ」


バルトロメイの職業は将軍だ。戦争に行き、武勲を立てることが仕事である。生き残ることが本懐ではない。だからシャールカだけは、ふたりの無事を願う。


「閣下と共に、無事に帰ってくることを祈って…」


顔を上げる。ゆるやかに微笑んで、言った。


「お前を、たまぶくろと名付けましょう…!」


無事に引退を迎え、立派な子種を撒いて欲しい――彼女の優しい願いがこもった、最低な名前であった。

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