第4話


絡み付くような嫌な視線。嘲笑と囁き、あと少しの同情。下位の者へと向けられるそれは、自室へ向かうに連れて強くなる。


(……?)


中心を歩くシャールカは、首を傾げながらも廊下を進む。この嫌忌を孕んだ空気は慣れたものだが、その中にいつもとは違う特別な雰囲気があるような気がしたからだ。やがて自室に辿り着いたところで、その理由を知った。


「!」


扉に掛けられた表札。本来刻まれているシャールカの名を潰すように、別の単語が彫られていた。


(これは…)


彼女達の民族は文字を持たない。けれど交易の際不利益を被ることがないよう、父から周辺諸国の文字や言語の知識は叩き込まれている。そしてこれは確か、瑞固有の文字だ。


「…!」


シャールカが単語の意味を理解すると同時に、くすくすと背後で誰かが笑った。






「どうやら、嫌がらせを受けているようなのです…」


バルトロメイ・クルハーネクの屋敷。その離れにて、シャールカは神妙な表情で呟いた。


「嫌がらせ?」

「ええ」


その不穏な言葉に、ヨハナが顔を上げた。シャールカは果物を剥きつつ、静かに頷く。彼女の手元が赤色の外皮を割ると、つるんとした果肉が姿を現した。


「この屋敷に来た時から、服を裂かれたり、自室に蛇を放たれたりと言うことは多々ありまして…。服は繕えば良いですし蛇は軽食になりましたから、あまり気にしていなかったのですが…」

「それは気にしなさいよ…あと蛇をおやつにするな。けど、暇な奴がいるものねえ」


ヨハナは次々と剥かれていく茘枝レイシを口に運ぶ。もぐもぐ口を動かしながら、宙を見上げた。


「まあ、何となく目星はつくけど…」


瑞の国で身分の高い者は当然、立派な住居を持っている。バルトロメイのこの屋敷も、武功に対する恩賞として皇帝から与えられたものだ。


自宅が大きければ、それに付随して使用人も多い。そして純粋な召し使いとして雇われている者以外に、中流階級の令嬢が奉公に来ている場合もある。公には花嫁修業を兼ねた家事手伝いだが、主人と使用人の関係から発展する恋愛も決して聞かぬ話ではない。更に言えばバルトロメイは若く独身、婚約者も居なければ、将来を期待された有望株でもある。彼の妻の座を狙う者は少なくはなかった。そんな中突如として現れ、バルトロメイのお気に入りとなった性奴隷を、白い目で見る者は多い。


そして今回、その悪意の標的になってしまったシャールカの顔には、暗い翳が落ちている。


「ですが今回の仕打ちはさすがに、傷付きました…」

「シャールカ…」


ヨハナがそっと、彼女の腕に手を置いた。無理矢理家族と引き離された上、慣れない土地に連れて来られている。そこへ来て、このような差別的な扱いだ。


「そうね…。“愛玩動物”だなんて、酷いことを言う奴がいるわ」


シャールカの自室の扉に掛かっていた表札、板の表面にはデカデカと、「愛玩動物」と彫られていた。バルトロメイの性奴隷となった彼女を揶揄する、侮蔑を籠めた言葉だろう。

そしてそんな苛めを受けたシャールカは、悔しそうに口を開いた。


「ええ…!よもや家畜扱いもされないなんて…!」

「……そこ?」


ヨハナが撫でていた手を止める。


「…私は家畜の方が嫌だけど」

「いえいえ!家畜は宝ですから。与えられた役目がありそれを全うしている、立派な財産でございます」


そう熱く語った後で、シャールカはしょんぼりと肩を落とす。


「けれど私自身が傷付いた理由は分かっているのです…」

「うん」

「まるきりその通りだからでございます…!」


ヨハナが手を目の前の果物に戻した。彼女の言葉の意味、その真意を聞かずとも察する。


「ああ、まだなんだ…」

「ええ。相も変わらず旦那様は、私に一切触れられません…!これでは愛玩動物以下…!」


先の媚薬事件から数日。事態は何も進展してはいなかった。


「それどころか旦那様には時折、発情の有無を確認される始末…!羞恥の極みですわ…!正直あれがいちばんの嫌がらせです…」

「兄様…。鬼畜ね…」

「さすが“鬼神”の呼称に相応しい所業ですわ…」


主人からの非道な仕打ちに震えながら、シャールカが皮と器を片付ける。そして「愛玩動物」と彫られた表札に再度目を落とし、勢いよく宣言した。


「とにかく、私はこのような呼び名に耐えられません…!必ずや、私のふくらはぎのようになります!」

「……?」


再びヨハナの手が止まった。シャールカは気付かず先を続ける。


「体力もあって従順、唯一無二の大切な家族でした」

「…そ、そう。そりゃあアンタの脹ら脛だからね…従順でしょうよ…」


疑問符を飛ばしつつ、ヨハナは反射的に返事をする。目の前のこの奴隷が孤独を深めすぎていよいよ自分の足を可愛がり始めたのかと、心の中でそっと距離を置くのも忘れない。


「ヨハナ様もどうですか?」

「いや…アンタの脹ら脛はちょっと…。餌とか何あげれば良いのか分かんないし」

「足にもなれば食糧にも、乳も出る…。人間の友としてあれほど素晴らしい動物は他にはいませんわ」

「乳が出…!?」


一体どんな足だと視線を下げたその瞬間、ヨハナは気が付いた。


「えっ嘘でしょ。アンタ、飼ってた動物に“ふくらはぎ”って名前付けたの」


とんでもない名付けだが、それでなければシャールカの脹ら脛は乳を出すことになる。人体の構造上有り得ない話を打ち消す為至った結論だった。するとその推理を肯定するように、彼女は頷き胸を張る。


「ええ!脚が丈夫になるようにとの願いを込めて付けましたわ!」

「あ、ああ…。どうかと思うわよその名付け方…」


謎が解けたところで、ヨハナが視線を机上に戻した。表札に触れる。


「まあ、アンタが図太くて良かったわ」


板を撫でると、荒く削られた表面が指先にちくちくと刺さった。


「妹とは言え私は居候の身だし、あいつらも中途半端に地位が高いからね…。兄様の采配にはあんまり口を出せないし…」

「ええ。存じております」

「そう言うの、段々悪化することもあるから気を付けるのよ。あんまり酷いようなら、私からも兄様に進言するから」


少し間を置いて、そっと付け加えた。


「効果があるかは、分かんないけど」

「いえいえ。そのような手間暇をヨハナ様にかけさせるわけには参りません」


彼女の助言を断って、シャールカはうんうん頷く。今回自分が精神的に傷付いた理由は、その悪口が図星を突いていたからだ。ならば何を言われても鼻で笑えるよう、実績を作れば良いだけの話。シャールカは天に誓った。


「必ずや性交を達成し、評価を愛玩動物から家畜に格上げさせてみせます!」

「まず人間になりなさい」






「と、意気込んでおりましたのに…」


その数時間後、先程の宣言とは打って変わって、シャールカはがっくり肩を落としていた。吐いたため息はのろのろと広がって、宙に消える。


シャールカの目の前には固く閉められた扉。隙間から、閂代わりの木の板が見える。室内に立ち込めるのは動物の匂い。鼻嵐の音。外へと繋がる扉の向こうからはくすくすと高い笑い声が聞こえた。


時刻が夕刻に差し掛かり、さあ今夜も共寝の準備をしようとヨハナが居住とする離れからバルトロメイの寝室に向かっていた時のことである。手伝って欲しいことがあると使用人の少女に声を掛けられた。言われるがままに馬屋に足を踏み入れたところで、突然、背中を押され背後で扉が閉まったのである。


と言うわけで、シャールカは現在、馬屋の中にひとりきりで閉じ込められていた。


(まさか罠とは…)


日頃色々と親切にしてくれる少女だったので、シャールカも油断してしまった。

閉じ込められる寸前、小さく呟かれた謝罪に、脅しや命令の類いの理由があったのだと悟る。主犯は別にいるのだろう。


既に日はとっぷりと暮れている。馬屋は敷地内に存在するが、叫んでも声が拾われるか微妙な位置にある上、ここに自分を閉じ込めた者達が易々と助けを求められる状況にするとは思えない。わざわざこの時間、この場所である。彼女達の目的はバルトロメイの寝室に行かせないことに違いないのだ。


(翌朝になればここを管理する馬丁ばていが来るでしょう…)


「が!それでは今夜の褥に間に合いません!そうなればいよいよ、家畜どころか愛玩動物にさえ値しない…!」


ただでさえも目的は達成できていないのである。ほんの一夜も無駄にする訳にはいかない。


(妙案も浮かびましたし、是が非でもここから出なければ…)


シャールカが意を決し、辺りを見回す。馬屋の壁に窓はあるものの、格子が付いている上高い位置にあり届かない。馬と藁の間を歩いて観察していると、ふと、最奥に一際大きな馬房を見つけた。


「……!」


そこを覗き込んで、シャールカが息を呑む。人間の気配を感じたせいか、嘶きと共に馬房の板がゴガンと内側から鳴った。同時に、彼女の頭中に落ちてきたのは閃き。静かに呟いた。


「このシャールカ、一計を案じます…!」

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