第3話


「ああ…。やっぱり効かなかったんだ…」


翌朝。任務失敗の報告を聞いたヨハナは、あふりと欠伸を漏らした。


「何かやってた気がしたのよね…。兄様とは母が違うし、昔は暮らす家も違ったから確証は無かったんだけど…」

「……」


言いながら、背後を振り向く。シャールカは黙々と、女主人に上衣を着せている。


「まあ良いじゃない。もう諦めたら?」

「いいえ…」


シャールカが小さな否定を漏らす。昨夜はほとんど寝られなかった為に、顔色は悪い。が、その目は死んではいない。


「父は言いました…。もしも他者に命を助けられることがあれば、家の家畜を3頭屠殺せよ、と」

「……?」


突如として現れた物騒な表現に、ヨハナは若干の恐怖を覚えながら聞き返す。


「え…。何?殺…?」

「命の恩人に財産を差し出す。つまり受けた恩は3倍にして返せと言うことです…」

「ああ…」


納得し声を漏らす。そしてその後ろから彼女の腰帯をぎゅうと締めて、シャールカは宣言する。


「それで言ってしまえば、旦那様にはこれ以上ないほどの恩を受けているのです…。必ずやバルトロメイ様に、私の純潔を捧げて見せますわ!」

「……」

「このシャールカ!次の一計を案じます!」


言いながら、シャールカは今度は女主人の髪を整えようと、道具を取りに行く。そんな慌ただしい背中を目で追った後、ヨハナはふうと息を吐いた。


「兄様は一体、どういうつもりなのかしらねえ…」






ずいの国。多くの勢力が群雄割拠する大陸において、一等強い存在感を放つ大国である。第3代皇帝オルドジシュカを元首に置き、慶閣けいかくを首都に据える。


「ストラチル。時間はあるか」


その宮内の書庫で蔵書を読み耽っていたツィリルは、自身の名を呼ばれ顔を上げた。


「か、閣下!」

「構わん。座れ」


上司の姿を目にし、慌ててその場から立ち上がる。引かれた椅子ががたんと音を立てた。突然目の前に現れたバルトロメイの顔をよくよく見て、目を見開く。


「寝不足ですか」

「…昨夜は一睡もできなくてな」


そう息を吐くバルトロメイの目は充血し、目の下には隈が鎮座している。


ツィリル・ストラチル。バルトロメイの軍の副官である。上司の様子に戸惑いながら、彼は眉尻を下げた。


「申し訳ありません。予定を詰めすぎましたか。閣下が充分な休息を取れるよう、上申致します」

「いや、そういう話ではない」

「…どういう話です?」

「……」


その質問には答えず、バルトロメイは彼の前に座った。こちらをじっと見つめ、口を開く。


「ストラチル。お前の知識を見込んで、相談したいことがある」

「は。何なりと」


いつになく真剣な彼に、ツィリルがごくりと唾を飲み込む。場に緊張が走った。姿勢を正し背筋を伸ばす。


「草原に住む部族のことについて聞きたい」


その一言に、察しの良い彼は瞬時に理解する。バルトロメイの周辺に居る遊牧民出身の人間など、ひとりだけだ。


「山より東の遊牧民…睡蓮すいれんの民のことですか?」

「その呼び名は止めてくれ」

「っ…。申し訳ありません」


バルトロメイの言葉に頭を下げる。上司は少し悩んだ後、質問を口にした。


「我々とどこまで違う」

「え。ええと、違いですか…。そうですね…文化も食生活も私達のそれとは大いに離れています。彼らは文字を持ちませんし定住もしません。特に睡…東は、人種や出自に関係なく、異人も迎え入れると聞いています」

「……」


何事か思案するバルトロメイの鉄仮面は変わらない。その表情を見ながら、ツィリルは質問の真意を目指して言葉を紡ぐ。


「閣下の奴隷ですが…あの髪色に碧眼、恐らくは金糸雀カナリア人の血を引いているのでしょう。遠く昔に滅んだ国家の末裔です。既に世界各地に散らばり、徐々に数を減らしていると聞いています」

「そうか…」

「ええ」


これで良かっただろうかと、ツィリルが目の前の上司を見つめる。するとバルトロメイの瞳がこちらを捉えた。鋭く光る黒に射抜かれ、ぴりりと空気が震える。彼はそのまま、真剣な表情で言った。


「その金糸雀人だが、定期的に発情するのか…?」

「……は?」


なんて?


まさか聞くとは思っていなかった単語に、ツィリルの口からは少々間抜けな声が出てしまった。だが、バルトロメイは真顔である。超真顔である。


「あるとすれば周期は?道端で突然発情する事態も有り得るのか?薬で抑えることは可能か?」

「え、いや、その…」


どんな軍議よりも真剣な表情で詰め寄られ、ツィリルの頭を混乱が支配する。一体何故そのようなことを聞いてくるのかとか、いやまずそれを部下に聞くなとか言いたいことは色々あるのだが、相手は鬼神と名高い上司である。言えるわけがない。そもそも人間がひとりでに発情するわけねーだろなんて言えるわけがないのだ。


「ストラチル。お前だけが頼りだ」

「っ!」


急に名を呼ばれ、びくっと震える。バルトロメイは真っ直ぐな瞳でこちらを見ている。


「……」


背中から汗が吹き出す。ツィリルは優秀な男だった。その時々に応じて最善且つ柔軟な戦略を練る。積み重ねた努力による知識量も凄まじく、バルトロメイの側近であることから、鬼神の頭脳とまで呼ばれてきた。


「ま…」

「ま?」


だがしかしこの時彼は、今まで考えた中でいちばん最低な解決策を口にした。


「ま、満足させるしか、無いのではないでしょうか…。その、性的に」

「……」


(僕は一体何を…)


言ったばかりの発言を思い返し、ツィリルが羞恥やら絶望やらに浸る。するとそこで初めて、バルトロメイの瞳が動いた。純黒の虹彩が迷ったように彷徨った後、またすぐに中央へ戻る。そして静かに、口を開いた。


「それ以外で頼む」

「!」


一体これは何の拷問かと、叫びたくなったその時だった。


「これはこれは将軍閣下」


ふと第三者の声が降ってきた。助けが来たと安心したのも束の間。声の主を見て瞬時に、ツィリルの眉間に皺が寄る。


(“謀略のニーヴルト”…嫌な男だ)


地位は同じ将軍だが、バルトロメイを目の敵にし、様々な邪魔や妨害を仕掛けてくる厭らしい男だった。当然、ツィリルが嫌う人物である。彼は今日も今日とて挑発するように、バルトロメイに話し掛ける。


「既に宮中の噂だぞ。堅物で有名なクルハーネク将軍が、よその国で性奴隷を買ったってな」

「……」

「これまで浮いた話のひとつも聞かなかったが、まさか胡人を買うとは…そうか。野蛮な貴殿に、よくお似合いだ」

「ニーヴルト将軍!」


ツィリルが立ち上がった。睨み付け、口を開く。


「無礼では…」

「くだらん。放っておけ」


が、彼に詰め寄ろうと足を進める前に、止められた。自身を侮辱されたと言うのに、バルトロメイは顔色1つ変えることなく、平然と一蹴する。


「…ふん」


挑発を軽くあしらわれ、癇に触ったのだろう。その一言を聞いたニーヴルトが、ぴくりと眉を動かす。けれど尚もバルトロメイの背後から、彼の耳元に口を近付け嫌味を囁く。


「わざわざ買うだけあって、見目だけは良いらしいな。どれ、私が具合を確かめてやっても――」


瞬間、ニーヴルトの体が背後の書架へと叩き付けられた。棚が割れ、載っていた書簡が音を立てて崩れる。


「っ、が、」

「シャールカに、指一本でも触れてみろ」


そしてその状況を作り出したバルトロメイは、彼を押さえ付けたまま、重低音の声を出す。両側から強く握られて、ニーヴルトの顎がミシリと鳴った。空気が震える。


「殺すぞ」


その殺気を直接向けられたわけではないツィリルでも、身が竦み鳥肌が立った。解放されると、ニーヴルトが顎を押さえ床に膝を付いた。信じられないものを見る目で、バルトロメイを見つめる。


「た、たかが奴隷だろ…何故そこまで…」

「……」







戦場とは違う血の匂い、全体を覆い尽くす翳、絶望の足音。この世の穢れ、その全てを押し付けられたような掃き溜めだった。


(いつ来てもここは、最悪だ)


バルトロメイが息を吐く。濁った空気を吸いたくない余りに、自然と浅い呼吸に変わった。


『さあさあ!どうです?我が国ジガが誇る、奴隷市場ですよ!』


そう胸を張るのは、隣国の要人だったか。背が足りず、彼が差し向けた傘がバルトロメイの頭に当たった。冷たい水滴が頭に落ち、思わず舌打ちが漏れる。


案内された場所はその国の王都の一角だった。けれど王の都とは名ばかりで、中央の道を外れれば底のない貧困が広がっている。


『上等な女も揃っておりますよ!閣下もどうですか!貴国ではそうそう買えないでしょう!』


吐き気を覚える。とうに破綻している癖に未だ一人前の王国を気取るこの国にも、その汚点を自慢げに紹介する案内人にも。これが本当に来賓の接待になると、信じて疑わない目だ。とんだ見当違いの案内をしていることに気が付かない。


(陛下から勅命を受けた暁には、ここから真っ先に、滅ぼしてくれる…)


それでも当時、バルトロメイは国賓として招かれていた。小国から大国に対する、ご機嫌伺いのようなものだ。こちらが上の立場とは言え、万が一にも外交問題に発展させるわけにはいかない。怒りを抑え、バルトロメイは大人しく男の後につく。


『余計な手間を掛けさせやがって!』


ふと、荷車が目についた。“仕入れ”の瞬間だろう。手足を縛られた女がひとり、無理矢理下ろされていた。


『あれは僻地の遊牧民ですよ』


普段見ない毛色に目を奪われていると、案内人の男が説明を始めた。


『奴等の地域が、ちょうど西と東で小競り合いを起こしておりまして。弱ったところを突いて、ああして摘まんでくるのです。住居も学も持たぬ下賎の民ですが、たまに当たりもありますから』

『……』


バルトロメイが無言を返す。彼の属する瑞とは違い、ジガは経済も財政も限界を迎えている。特権身分の者が無分別に尽くす贅沢に、四方を国境に囲まれているが故に掛かる巨額の軍事費。それらは全て増税によって支えられている。だから弱者は、より弱者から搾取するしかない。


『ほら、あの女など、まさにその良い例でしょう?』


男が示すのは、先程泥の中に落ちた女。確かに美しい女ではあったが、闇に浮かぶ白い肌と金の髪は、ひどく儚く見えた。そう言う印象だった。


『貴殿方はもう、我らから何も奪うことはできません』


けれど余裕然と笑うその姿に、その印象とは少し違う女なのだと知った。聞けば民族の為に、身をここまで落としてきたらしい。


これがお伽噺であれば何て良い話だと、皆が皆感動で咽び泣く。だが相手は、人から奪うことを生業にする屑だ。


『だが、お前が民族をひとりでも連れ戻すと言うのなら、この待遇を改善してやっても良い。条件によっては、解放も考えてやる』


人買いは、彼女の運命を並べ立てた。地獄のような選択肢の中にたったひとつだけ、蜘蛛の糸を垂らしてやるのも忘れない。


『さあ、どうする?』


当然、解放するつもりなど微塵もないのだろう。今後を考えた時使役しやすいように、心を折る。吐き気がするようなやり方だ。


けれど彼女を助ける気など、バルトロメイにはさらさら無かった。同情はしたが、それだけだ。恩情を無条件で配るには、この世は残酷すぎる。ひとりの少女を見捨てようが助けようが、世界は何も変わりはしない。彼とて異国の地の、知り合いでもない者の為に渡す情は持ち合わせてはいなかった。


『っ…』


震える金糸を何の感情も浮かばない目で見ながら、バルトロメイは確信を得る。


(…差し出すだろうな)


これから彼女に押されるのは、決して消えない奴隷の烙印。家畜以下の生活を送り、死ぬことも許されない。掲げた誇りなどいとも簡単に砕かれ、搾取され続けた挙げ句に生涯を終える。最期には身を挺して助けた者達に呪いを吐きながら、絶望に塗れ死んでいくのだ。安穏の中で生きてきたような少女がひとりきりで選ぶには、重すぎる運命だろう。


『父は、言いました』


暗闇に声がひとつ、響く。あまりにも恐れを知らぬ強い口調だったので、彼女の声だと分かるのに、少し時間が掛かった。


『私が居ない間は、お前が部族を率いる長である』


小刻みに震える金糸。けれど特徴的なその声は、場の喧騒をものともしない。


『最期まで目を開き前を見よ。命尽きるその一瞬まで、民を生かし守る術を探せ、と』


そこで言葉を切って、彼女は顔を上げる。震えが止まった。


『例え奴隷となろうとも、地獄へ落ちることになろうとも、そこにただひとりでも民がいる限り。私は最後まで彼らの王です』


諦めでも、自棄でもない。いずれ身に降りかかる地獄を前に、その瞳は宝石のような光だけを映す。


『誰ひとり差し出すつもりはありません。私を連れて行きなさい』


あの日。掃き溜めのような地で彼の心に落ちたのは、恋だった。

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