第2話


叩きつけるような雨音、怒声に悲鳴、鎖の音。この世の穢れ、その全てを押し付けられたような掃き溜めだった。


『余計な手間を掛けさせやがって!』

『っ!』


殴られた衝撃で、地面に倒れる。手足を縛られているせいで為す術もなく、泥の中に落ちた。当然、起きることすらできはしない。口の中に入ってきた泥水は、吐き出しても吐き出しても、流れ込んで来る。


『っ、げほ』

『おい。顔は止めろ。価値が減る』


新しい声が降ってきたと思った瞬間、髪を掴まれ、乱暴に引き上げられた。深淵の底のような濁りきった目と、視線がかち合う。


『馬鹿だな。逃げ回ったところで、痛い思いをするだけなのに』


シャールカを捕まえた連中とは、また別の男だった。辺りの景色を見て察する。人が多く賑やかな反面、一帯を包む暗い翳。奴隷市場だ。


『っ…!』

『おい!いくらで買ってくれるんだ?金の髪に碧い目!こいつは金になるんだろ?これで俺達、金持ちだ!』


鼻息荒くそう主張するのは、シャールカを捕まえここまで連れてきた男。


『……』


シャールカが目を閉じる。父と同色の髪はまるで絹のようだと、瞳は蒼空と同じ、美しい色だと褒め称されたものだった。けれどもう、青い空など見えはしない。


『こいつに時間を取られたせいで今日は終いだが…明日は残りの奴等を全員、捕まえて来る!だから金は…』

『私が、』


声高に叫ぶ男を遮った。欲望に眩んだ顔を横目で見て、鼻で笑う。


『私がただ、逃げ回っていただけだとでもお思いですか…?』


彼女の髪を掴む、人買いの男。その眉がぴくりと動いた。


『…何が言いたい?』

『分かっておりました。貴殿方は私を無視できない』


父から譲り受けた金の髪と碧い瞳、若い年齢の女。シャールカには奴隷として破格の価値がある。


『他の部族を放ってでも私を追い掛けるしかない。かと言って殺すことも、死に繋がるような大怪我を負わせることもできない』


シャールカの案じた一計。要点は3つ。短時間では捕まらないこと、なるべく目立ち多くの者を引き付けること、そして決して追っ手をこと。全てはただ1つの目的の為。


『私は時間稼ぎです。部族は既に国境を越え、貴殿方の手の届かない場所へ入ったことでしょう』


自分を犠牲に、部族を逃がす。全員が生き残る確かな道だった。

シャールカが息を吐き、目の前の男を睨んだ。


『貴殿方はもう、我らから何も奪うことはできません』


静寂が訪れた。雨の音だけが強く響く。


『…そうか』


やがて驚くほど冷たい瞳が、彼女を見下ろした。


『なら、お前から絞り取るだけだ。…おい!』


掛け声と同時に、用意されたのは焼きごて。色が変わるほど熱された金属は、近くにあるだけでも火傷しそうなほど熱い。これを今から、肌に当てるのだ。肉を焼き生涯消えない印を刻む為に。


『分かってないようだから、教えてやるよ』


それを掲げながら、男は口を開く。先端に雨の雫が当たって、じゅうと音を立てた。


『お前が買われた先が、奴隷専門の娼家だったとしよう。あそこは最悪だ。送られた奴隷はまず、外科手術から行われるんだ。何故か分かるか?』

『……?』


真意を掴みかねるシャールカの耳に、口を近付ける。そのまま、言い聞かせるように呟いた。


『この先一生、妊娠できないようにするんだよ』

『っ…!』


もう一度髪を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。男の顔が、先程の何十倍も恐ろしく見えた。


『個人に買われりゃもっと悲惨だ。奴隷を買う金持ちにまともな奴なんていねえ。女同士で殺し合いをさせる奴、四肢を捥いだ女を飼うのが趣味の奴もいる』


この時シャールカは初めて、人権を他人に委ねる本当の意味を目の当たりにした。財産も家具も家畜も全て奪われて来たが、それでも、何としてでもこれは護り通さねばならない一線だったのだと知った。既に自分は人間ではない、物なのだ。


想像はしていたことだった。けれど実際目の前にすると、震えが止まらない。シャールカが息を呑む。それに気付いた彼は、目尻を細めにこやかに笑った。心の底からゾッとする笑顔だった。


『だが、お前がお仲間をひとりでも連れ戻すと言うのなら、この待遇を改善してやっても良い。条件によっては、解放も考えてやる』

『…っ!』

『さあ、どうする?』


無意識に呼吸が止まる。酸欠で黒ずんだ視界に過ったのは、父の背中だった。




『待て。その女を買う』


それはまるで、雨雲の中に落ちる稲妻の一閃のような、力強い声だった。肌に押し付けられる寸前だった焼き金が、ピタリと止まる。


『いやいや旦那。これは仕入れたばかりです。何の仕込みも済んでませんし、薦めはできませんて』

『構わん』


別の男の声がふたつ。視界を動かすと、ふたつの影が目に入った。小さい男、そしてその隣に並び立つのは大きくて黒い男だった。髪も目も、身に付けた鎧もまるで闇から切り取ったような黒。新しく現れた身の丈が低い男も、彼女を脅す男も同じ空気に包まれていたが、彼だけは唯一、異質な匂いがした。


『はぁ…。では閣下の今夜の寝所に連れて…』

『一晩に限った話ではない。女1人の所有権を買うと言っている』


その一言に、場の全員が驚いた。少しして、焼き金を持った男が、馬鹿にしたように笑う。


『そうは言っても、買取り先は既に決まってるんで、』

『ならばそいつの倍の金を出す』


黒い男は一歩も引かなかった。それを受けて、皆がごくりと唾を飲む。目の色が変わった。


『っ…?』


シャールカにはよく分からなかった。この商売の仕組みも、黒い男のことも知らない。けれど自分の持ち主が、予定と変わったことだけは理解した。


バルトロメイ・クルハーネク。シャールカを買った男は、この国の人間ではなかった。大国で途方もなく高い地位に就く人物と知ったのは、もう少し後の話。


『“鬼神のクルハーネク”か…あの娘、終わりだな』

『ここに居ればまだ持ったのにな』


そして、背後で囁かれたその言葉に、この道も然して変わらぬ地獄なのだと知った。











「と、思っておりましたのに…!」


過去に思いを馳せた後、シャールカは茶壺に沸いた湯を追加する。葉がほどけて、透明な湯にじんわり色が広がっていく。室内に漂うのは花の香り。


「話が違う、大いに違います…!」


その様子を確認しながら、シャールカはぶつぶつと声を漏らした。


そう、彼女は信じて止まなかったのだ。このような男に買われてしまったからには、凌辱と非道の限りを尽くされた挙げ句に、雑巾のように捨てられるのだと。


だがしかしバルトロメイは手を付けぬ。シャールカにほんの微塵も手を付けぬ。ああ良かったとホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、人間と言うものは我が儘だ。性奴隷として買われたのにその本懐を果たせないなんて、役立たずと言われているような気分になる。まさか手を出されたいと切望するようになるとは思ってもみなかった。


「閣下。花茶ですわ」


くるりと振り向くと、寝台の縁には黒い主人の姿。初めて会った時と変わらない、黒い髪に眉間の皺、見る者を凍りつかせる仏頂面。鋭く光る瞳がこちらを捉え、その口からは低音が飛び出した。


「わざわざ毎晩、共に寝ずとも良い」

「そっ、そういう訳には参りません!」


シャールカがぴしゃりと跳ね退ける。そして主人の言葉に、唇を噛んだ。


(くっ…!居なくても居ても変わらないと言うこと…やはり私は役立たず…!)


それは間違いない。何せシャールカはほんの少しだって義務を果たせてはいない。彼女がしていることと言えば、打ち上げられた魚の如く毎日毎日バルトロメイの隣に横たわるのみである。添い寝をしているだけである。だがしかし今日の彼女はちょっと違う。金玉と言う秘密兵器がある。


(ヨハナ様は何事か反対されていましたが、私にはこれしか方法がないのです…!)


懐に仕込んだ薬をそっと服の上から押さえる。本人は腎臓か何かだと信じて疑っていないわけだが、残念ながらそれは立派な金玉である。恩人に金玉を飲ませようとしている訳である。さすがにそのまま入れては即座に事が露見するので、砕いて粉末状にしたものを、そっと容器の底に盛ったのだった。


「どうぞ…」

「ああ」


恭しく差し出す。バルトロメイは何も疑う様子はなく、いつもの通り茶杯を呷る。金玉茶は一口で彼の胃に消えていった。


「…では私も」


シャールカも自身の茶器を手に持つ。底にうっすらと見えるのは粉末。そう、今宵はシャールカの性奴隷としての命運が懸かっている。万が一にも怖じ気づくことがあってはならないと、同じものを摂取することにしたのだ。腹をくくり、ぐいと一気に飲み干した。


「…寝るか」

「はい!」


バルトロメイが立ち上がり、寝台へと横になった。続いてシャールカもその横へ、ころんと寝転がる。


「……」

「……」


広い背中はこちらに向いたまま。彼女の主人が隣に目を呉れることはない。けれどシャールカの胸は、自信で満たされていた。


(何せ父お墨付きの品です!自制ができなくなった閣下が、隣に居る性奴隷を性的に求めるまであともう少し――)


「……」

「……」


寸刻が経過した。


「……」

「……?」


意気揚々と胸を高鳴らせ待機していたまでは良い。だがしかし、待てど暮らせど、バルトロメイは一向に手を出してくる気配がない。思わずシャールカが、声を投げ掛けた。


「だ、旦那様。お身体に何かお変わりは?」

「…?いや、何もないが」

「!?」


さて。これはシャールカが知らなかったことだが。この瑞では古来より、権力者の毒殺や暗殺が非常に盛んだった。そんな予期せぬ死を防止する為、権力者の子供には幼少より毒物に耐性を付ける術を施すのが、常であった。特にバルトロメイは妾の子ではあるものの上級官吏の家筋に生まれ、なるべくして将軍になった男である。つまるところ毒や薬の類いは、非常に効き辛かった。


(な、なぜ…!?)


「っ…!」


そして当然のことながら、シャールカには耐性が無かった。薬効は惜しみ無く発揮され、いみじくも効いた。あっという間に彼女の体は、爪先まで熱くなっていく。


「ふ、っ…」

「…シャールカ?」


様子がおかしいことを察したのだろう。バルトロメイが顔を上げ、こちらを見た。シャールカが慌てて声を出す。


「な、何でもございません!」

「何でもないと言うことはないだろう」


バルトロメイは上半身を起こし、彼女の肩を掴む。真剣な表情で、顔を覗き込んできた。何せ今のシャールカは全身が火照り汗ばんでいる上、呼吸も荒い。


「どこか痛むのか?」

「い、いえ、その…」

「待っていろ。今、人を呼んで…」

「おっ、お待ちください!」


シャールカが咄嗟に彼の手を掴んだ。言いたくない。決して言いたくない。けれど主人に恥を掻かせる訳にはいかない。それだけは避けなくてはならない。バルトロメイの眉間に、怪訝そうな皺が寄った。


「何だ」

「これは、その…」


シャールカが右往左往と視線を動かす。やがて全てを諦め、顔を俯かせた。そして牡丹のように真っ赤に染まったまま、何とか声を絞り出す。


「これは…発情しているだけに、ございます…!」


静寂が寝所を支配した。びしびしと肌を刺すような沈黙がその場を包んだ後、バルトロメイは小さく呟いた。


「…そうか」


言いながら、シャールカの肩を掴んでいた手を引っ込める。そして彼女から離れた。定位置に戻っていく。


「……」

「……」


そのままこちらに背を向け、寝た。


(ふぐううううう!!)


残されたシャールカはどうしようもない疼きを抱え、一晩中悶え続けた。

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