将軍閣下の性奴隷

エノコモモ

第1話


「来ました!」


その一言が洞窟に響き渡った瞬間、悲鳴が上がった。「何が」とは聞かずとも理解できる。彼らにとって最悪の追っ手。自分達の持つ全てを強奪することを目的に、差し向けられた略奪者。


「あいつら…!我らから何もかも奪わないと、気が済まないのか…!」

「あと少しで、逃げ切れたと言うのに…」


その場が諦念に包まれる。すると隅に固まっていた、老人数人が立ち上がった。枯れ木のような腕を上げ、静かに口を開く。


「我らが時間を稼ぐ。その間に逃げなさい」

「しかし…」

「何かの間違いで生き残ってしまった老いぼれだ。部族の足を引っ張ることこそあれ、役に立つことなどない。我らの命を使ってくれ」


諭され押し黙る。戦いに出た若い男は皆、行方知れず。ここに残った者は戦力にならない、病気を抱えた者に女子供、老人ばかり。人数分の馬も用意できないこの状況では、目的地である北の国境まではあとほんの少し、足りない。誰かの命を犠牲にするしか、他に手はないのだ。


「なりません」


その瞬間、声が落ちた。場を満たす悲哀も絶望も、ものともしない声だった。


「姫様…!」


馬に乗った少女に視線が集まる。蹄が鳴った。


「父の居ない今、部族を率いる長はこのシャールカを置いて他にはいません。他ならぬその私が、これ以上の犠牲は出さぬと言っているのです」


(それに…彼らが盾となったところで、然して時間は稼げない。皆が逃げ切るまで、とても持たない)


シャールカは馬上から民を見つめる。皆不安と失意に、押し潰された顔をしている。家畜や武器、住居も根こそぎ略奪され、彼らの財産は底を尽きた。シャールカの父も、若い戦士を連れ戦場に行ったきりだ。そして今、わずかに残ったその命さえも、取り上げられようとしている。


「……」


捕まればどうなるか、皆が皆嫌と言うほど知っている。使い道の限られた老人は殺される。子供は親と引き離され、行き着く先は使い勝手の良い奴隷。若い女は、死ぬまでその性を売り物にされるのだ。


「…このシャールカ。一計を案じます」


金の髪は太陽の光を浴びて燦然と輝く。真っ青な瞳が、同色の空を射抜いた。











「このシャールカ!一計を案じます!」


楽器の音色のような高声が、室内いっぱいに響き渡る。


「……」


扉から入ってきた彼女に、部屋の主はぱちぱち瞬きをして、控えめに声を掛けた。


「…どうしたの」

「ヨハナ様!よくぞ聞いてくださいました!」


そう叫びながら、シャールカは両手いっぱいに抱えていたお盆を机上に載せる。窓から射し込んだ陽を浴びて、金髪がきらきらと輝いた。


「私がこの屋敷に来て早3ヶ月が経ちました…。1日足りとも、旦那様に拾っていただいたご恩を忘れた日はございません…!」

「うん」

「食物に寝所、衣服に仕事。奴隷には充分すぎるほどの暮らしです。閣下には言い尽くせない程の感謝を感じております…」

「うん」


そこで言葉を切り、シャールカが俯く。空のように青い瞳が翳った。


「が!問題は私!与えられた責務をちっとも果たせてはいないのです…!」

「仕事ならしてるじゃない」


ヨハナがそっと諭す。シャールカがこのクルハーネクの屋敷に来てから3ヶ月、兄が連れてきた奴隷は働き者だった。稀に見る熱心な仕事ぶりである。今も口や顔では雑談に励んではいるが、せっせと女主人の軽食の準備をしている。


「いいえヨハナ様…。私は給仕係でも、侍女でもないのですよ…」


そんな嘆きを呟きながら、シャールカの手はさくさく月餅を切り取っていく。薄い皮の中にみっちりと詰まった餡が現れた瞬間、彼女はカッと目を見開き、宣言した。


「私はクルハーネク閣下の性奴隷!ならば私の本職、これ即ち性交でございます!」


ふたりの間を、さらさら風が流れた。


「私としては、あんまり兄様…家族のそういう話は聞きたくないんだけど…」


ヨハナが顔を上げた。兄と同じく、黒い虹彩がシャールカを射抜く。


「あえて聞くわ。まだなの?」

「まだでございます…」


神妙に頷きつつ、彼女はそっと皿に載った甘菓子を差し出した。


そう、シャールカがこの屋敷の主人の性奴隷となって早3ヶ月。未だ、性交は行われてはいなかった。


「そう…」


そして屋敷の主人の妹にあたるヨハナは、月餅をつつきながら宙を見上げた。ぼんやりと呟く。


「何でかしらねえ…」

「来る日も来る日も私はただただ旦那様のお隣に転がるのみ…!生まれたての仔山羊の方がまだ動けますわ…」


新しく茶を淹れ、シャールカはぐうと唇を噛み締める。


「旦那様は何故そのような手段に出るのか…。いっそ、大金を払った奴隷に手を付けない矛盾に興奮するような高度な嗜みをお持ちなのかと、疑いを向けたこともございました」

「人の兄を特異な変態にするな」

「こちらから手を出したくとも、私も性奴隷としての手解きを受ける前に売りに出された正真正銘の生娘…。実践は皆無に等しく、これでは性交に進むことなど不可能なのです…」


シャールカは経験がない。成人男性の裸体を見たことも、もちろんない。そんなふわふわした知識だけでも襲うことは決して不可能ではないだろうが、そういった夜の事情には男性の面子と言うものもあると聞いている。あくまで主人から手を出して貰わねば――シャールカはそう判断した。


「そこで、秘策がございます!」


言葉を切って、彼女は瞼を閉じる。


「父は言いました…」


『シャールカ…。お前には、ありとあらゆる生き抜く術を叩き込んだつもりだ』


回想に登場するのは、まだ幼いシャールカ。父はその広い背中をこちらに向けたまま、静かに言った。


『しかし口惜しいことに、この俺にも教えられんものはある。それが性技だ』


そんな彼女の父の教育方針は、「何もかも包み隠さず正直に」だった。父と同色の瞳を丸くさせて、シャールカは聞いた。


『性技…!?それは重要な物なのですか…?』

『ああ…。人生を左右すると言っても過言ではない。特にお前は部族長が娘。いずれ婿取りの祭りにて伴侶を決めることになるだろうが…』


シャールカの出自はここずいの国より北、山の東側を拠点とする遊牧民の一族であった。血が濃くなることを避けるため、また過疎化の進む村を何とかしようと、部族長の娘は夫を外部から迎える慣習が存在したのである。腕の立つ者を集め一斉に戦わせ、勝った者が婿の座を掴むと言う、まあ何と言うか少々野蛮な方法で夫が決まったわけだ。


『我らの暮らしは過酷。婿取りを勝ち抜いたは良いものの、耐えられず逃げ出す者も出てくる。夫となった男を引きずり込み離さないことも非常に重要だ。だがしかし、それを教える役目だった筈の、お前の母は病で死んでしまった』

『何と…。では、逃がしてしまうではないですか…!』


先ほど狩った兎を鮮やかな手つきで捌きながら、シャールカがごくりと唾を飲み込む。厳しい環境下で生きる彼らにとって、これもまた貴重な食料。一度手にした獲物を逃すことは死を意味すると言っても過言ではない。


『だがしかし!安心しろシャールカ。打開策は我らの手にある!』


そう胸を張った父は、まだ幼い娘に小さな小袋を差し出した。


『交易のある北クルカの連中に貰ったものだが、どんな朴念仁であろうとも、たちまち元気にさせると言う薬だ。もちろん、性的にな』

『何と…!そんな妖術のようなことが…!?』

『ああ。これで何とか、夫を引きずり込むんだぞ』


何度も言うが、シャールカの父の教育方針は「何もかも包み隠さず正直に」であった。


「懐かしい思い出です…」


思い出を語り終えたシャールカは、神妙な顔で頷く。ヨハナは一口茶を飲んで、彼女に目を向けた。


「言いたいことは色々あるけど、アンタの結婚そんな蟻地獄みたいな話で良いの?」

「ええ。父も引きずり込まれた1人ですから」

「そうなんだ…」


そんな蟻地獄のような結婚を目指していたシャールカは、懐から小さな皮袋を取り出した。


「その時父から受け継いだものが…これです!」

「……?」


受け取り中身を見てみると、底に鎮座するのは小さな欠片。見た目は萎びた枝のようだが、持ってみると軽い。まるで干物のような。


「…何これ?」

「北の海に棲む、太った犬の…腎臓を干してすりつぶしたものと聞いております」

「へえ…」

「まさかこのような用途で使うことになるとは露程にも思っておりませんでしたが…」


さて。正式な名を海狗腎かいくじん。漢方にも使われる、精力剤の名である。


そしてシャールカはふたつほど、勘違いをしていた。海を見たことがない彼女が人伝てに聞いた為に「太った犬」と称したが、これは現代で言う膃肭臍オットセイのことだ。そしてもうひとつの勘違いは、部位。これは腎臓ではない。


「これをバルトロメイ様に飲ませ、私を襲わせれば、完璧ですわ!」


海狗腎。身も蓋もない言い方をしてしまえば、オットセイの睾丸のことである。

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