第42話 私は遠野静子です
◇
「ここで結構です」と由希子さまに告げると「それでは彼女に案内させます」と言って門を出るまで家政婦が付き添うことになった。たいして長い距離ではないがそこはやはり格式の高い家だ。私のような家政婦が案内することになる。
先ほどお茶を出してくれた女性が私の横をついて歩く。
いつもは私の方が色んな人を案内しているので変な感じだ。間違えて彼女を出口に案内してしまいそうだ。
玄関を出るとすぐに藤棚で覆われた小道を通る。
ものの数分で抜けてしまう道だが私は棚の様子を眺めながらゆっくりと歩いた。付き添っている彼女もその気持ちがわかるのか歩みを私に合わせてくれる。彼女も優秀な家政婦だ、と勝手に思う。
「春になったら、毎年、それはもう藤の花が綺麗なのですよ。その時にはぜひ見にいらしてください」彼女は藤棚を見上げながら私の方を見た。同い年位だろうか?
けれど、おそらくもうここに来ることはないだろう。
「遠野さん、ご存知ですか?・・藤の花の花言葉・・」
同じ家政婦に「遠野さん」と呼ばれたことが少し嬉しい。
「ええ、知っています、『外国人を歓迎する』とか『あなたを迎える』とかですよね」
「そんな意味もあるのですね」
彼女は少し驚いたような表情を見せた。
「他にも意味があるのですか?」
「ええ、『決してこの場所を離れない』・・それと『あなたと別れない』と言う意味だと奥さまから教えられました・・」
「えっ・・」
私の驚きとは関係なく彼女は言葉を続ける。
「皮肉なものです。奥さまがそう誓って作った藤棚なのに、ここをお離れになるなんて・・」
「離れない」「別れない」・・それは「外国人を歓迎する」とは全く別の花言葉だ。
別どころか、真逆だ。
言葉が終わると同時に藤棚を抜けると目の前の景色が変わった。
「遠野さん、ではお気をつけになって・・」
彼女は深く腰を折り私を見送った。振り返ると藤棚の小道の向こうに玄関に立っている由希子さまも一礼しているのが見えた。
◇
「ああ、長田さんの家の方ですか・・」
教師はテーブルの上の私の名刺を見ながら言った。
私は恭子さまの担任の教師の前に座っている。
ここは小学校の職員室。私は小さな応接セットの一画に案内された。
窓の外は久々の雨が降っている。応接の脇にある傘立てに傘を入れさせてもらった。
「それで、今日は何か?」教師は怪訝そうに訊いた。
他にも教師が十人程座っていて何かの作業をしていたりする人や時折こちらを覗いている人がいたりする。
「先生、やはり、あの授業はおかしかったと思います」
少し声が大きかったので私を興味深げに見ている教師たちの数が更に増えた。
「ごめんなさい、私、話が全然見えてこないのよ」教師は戸惑っている。
もちろん今日ここに来たことは恭子さまは知らない。
これまで私は教師に何か言うことは私自身の自己満足に過ぎないと考えていた。
けれど、あの時、起こったことを見ていて知らない振りをするのは私の「罪」だ、と考えを改めた。
教師が悪いわけではないが、教師には参観日の当日、教室で何が起こっていたかを知ってもらわないといけない。
これは私が決めたことだ。
私は教師に全てを話した。
道徳の授業でグループ毎に考えをまとめて発表しなければならないところを恭子さまが誰とも意見交換をせずに他の生徒たちが考えたことを言わされていたこと。
「けれど、あれは決められた教育指導に沿った授業ですから・・」
私は教育指導要綱に逆らうつもりなど毛頭ない。
「それに今更、そんなことで来られましても・・」
そんなセリフは聞きたくない。
「生徒たちが班の中でどんな会話をしているかまでは教師の立場では知ることはできないのです。あなたはそれでも私に生徒たちの会話を聞いていろ、聞き耳を立てていろ、とおっしゃりたいのですか?」
少し教師の口調が荒くなっているのはわかるが、私が言いたいことはそんなことではない。
「そこまでのことは先生に求めておりません。それは無理です」
私は深く呼吸を繰り返した後、こう言った。
「今後、先生の方で何か気がついたら恭子さまに注意してあげてください!」
「はあ?・・注意を・・長田さんに?」
教師は私の言いたいことがよく理解できないようだ。
こんな教師が生徒たちに何かを言っても何も前に進まない。
教師が言う相手は恭子さまだ。
「あのような道徳の授業をする際、恭子さまがグループの発表する意見に自分自身の意見が入っているのかを確認して欲しいだけです」と教師に伝えた。
ただ、それだけだ。簡単だ。少し、訊ねるだけのことだ。
「『それが長田さんの意見なのね?』と訊くだけです」
「あら、私、そう訊いたわよ」
「違います、先生はこうおっしゃいました・・『二班のみんなの意見は、長田さんが発表したのでいいのね?』と言って恭子さま本人には直接訊ねていませんでした」
教師の表情がぴくっと動いたように見えた。
この教師は発表した恭子さまに訊ねるのではなく同じ班の他の生徒たちに訊いた。
ある意味それは当たり前かもしれない。だが特殊な状況だとそうではない。
教師は生徒が無理に言わされている可能性も考えてあげなければならない。
それを見極めながら授業を進めるのも教師の役目だと思う。
「そ、そうだったかしら?・・私、気づかなかったわね」
ようやくあの時の状況を理解してくれたようだ。
「・・それで、あの発表した意見は長田さん本人の意見ではなかったのですか?」
「違う・・と思います。けれど、そのことはこの場では問題ではありません」
「でもねえ、お宅のお嬢さまだけを特別扱いするわけにはいかないのですよ」
教師は面倒臭そうな表情をしている。
「特別扱いではありません!」
私は声を荒げた。これ以上大きな声を出すと追い出されるかもしれない。
「いいですか?これのどこが特別扱いだというのですか?・・グループでまとめた意見の中に発表する本人の意思があるかどうかを訊ねるだけですよ・・それのどこが、特別扱いなのですか!・・」私は勢い余って声を詰まらせた。
それ位は教師として訊いて欲しい。
教師は黙って聞いている。
―長田さん、それがあなたの意見でもあるのね?
その質問だけでいい。
どうしてこんな簡単なことを教師は言わず、私の方も気づかなかったのかが悔やまれる。
教師の問いかけを他の生徒が聞けば何かが変わるかもしれない。
教師に訊ねられ、どう答えるのかは恭子さま次第だ。
そう訊かれて「はい」と答えればそれまでだ。
おそらく今の恭子さまなら「違います」とは言わないだろう。
恭子さまは他の生徒の生半可な思いやりを受け止めてしまうだろう。
だが、この先はそうはならない、私がそうはさせない。
私が恭子さまに徹底的に教える。
恭子さまを強くし、みんなと討論する力を身につけさせる。
「おっしゃりたいことがよくわかりかねますけど、今後、私どもも授業での教え方に気を配ります、ご期待にそえるかどうかはわかりませんが」
少し難しいお願いだということはわかっている。わかってはいるが教師の言葉に人に何かを教えるという精神が感じられないのが悲しい。
「私の言いたいことはそれだけです。これで失礼します」
それだけ言うと私は立ち上がった。
これで何かが変わるかもしれない・・
いや、おそらく変わらない、変わらなくてもいい。
それに担任の教師に何を言っても学年が変わって担任も変わればそれでお終いの話だ。
これは私の私自身のための「祈り」なのかもしれない。
「長田さん、傘をお忘れですよ」
教師は傘立てに立ててある私の傘を指した。
「あっ、すみません」
勢いよく立ち去ろうとしていたのに忘れ物があったことが可笑しかったのか一部の教師がくすくすと笑うのが聞こえた。
何がそんなにおかしいの!
こんな私の行動を見るより生徒たちをちゃんと見ていて欲しい。
私は傘を抜くと教師に「私は長田ではありません・・遠野です・・遠野静子です」と言った。私にはまだまだしなければならないことがある。
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