第41話 静子、神園邸へ②

「遠野さん、ごめんなさいね。それでお話というのは?」

 由希子さまは娘の頭を撫ぜながら私の顔を改めて見た。

目の前の母子を見ながら私は言葉に勢いを失くすのを感じていた。

 私はここに来るまでは勢いというものがあった。

 花言葉の意味も調べ、由希子さまが別れた夫をまだ思っている・・私の勝手な想像で勢いづいていた。

 奥さまの願いもあって、由希子さまをピアノコンクールに招待すれば、恭子さまは喜ばれる。そして目の前の由希子さまも長い間会っていない娘に会える。

 全て私の勝手な妄想、私の独り相撲だった。

「今日は奥さまにこれをお渡しするために来ました」

 私はテーブルの上を滑らせるようにして由希子さまの方に一枚の封書を渡した。

「中に入っているのは恭子さまが十一月に出られるピアノのコンクールの招待券です」

 私はこれだけ渡してもう帰ろう。

「恭子・・」

 由希子さまは封を開け中から招待券を取り出した。

 しばらく招待券を見たあと、俯いたまま何か考えている風だった。

 そうした後、顔を上げて私にこう訊ねた。

「遠野さん、恭子が私に来るように言ったの?」

 何が訊きたいのだろうか?

「いえ、これは私の独断です。恭子さまは何も知りません」

 私が答えると「そう・・」と言った後「・・でしょうね」と呟きまた俯いた。

 このことは多香子さまに頼まれたことだ。恭子さまの意思はどこにもない。

「あちらの奥さまはこのことをご存知なのですか?」

「はい」

 私が答えると由希子さまの表情が一瞬緩んだように見えた。

「恭子は元気にしてるの?」

 やっと由希子さまの口から母親らしい言葉が出てきた。

「はい・・」

 私が答えると「そう・・」と言ってまた少し俯く。

「ねえ、お母さま、キョウコってだあれ?」

 娘の言葉に由希子さまは我に返ったようだ。

「ゆかりには関係ない話よ」

 関係ない話・・人・・この家で長田家のことがオープンになっていなければそう言うしかないかもしれない。

 ただ、私はその言葉は聞きたくなかった。

「私ども家族三人は年明けに下関の方に行きます。帰って来るのは何年先かわかりません」

 話がいきなり変わる。

「山口県は遠いですね」

「遠いと言っても一年に何度かここに戻りますが・・もう・・」

 その先の言葉が宙に浮かんだ。

 もう・・長田の家とは関わりたくない、というなのか。

 娘である恭子さまとも。今はここの家族が大事だということなのか。

 それらは全て当たり前のことだ。

 この家は普通の家庭とは一線を画す名家だ。離婚の事実と恭子さまの存在は世間には大っぴらにできることではないのだろう。

「この子はせっかく出来たお友達と別れることになって・・」

 母親、綾取り、そして友達・・

 それらを全て恭子さまは持ち合わせていない。

 けれど、そのことで誰を責めることができるというのだ。

 由希子さまは娘の頭を撫ぜていたが、娘の方は少し退屈になったのか「お母さま、お部屋で待ってる」と言って部屋を出ていった。

「遠野さん、わかりました。これは頂きます。時間の都合がつけば会場の方に出向きます」

 由希子さまは招待券の入った封書を受け取った。

「お願いします」

「ただ、遠野さん、わかってください・・こちらにも色々事情というものがあります」

 私は別にこの家の事情やしきたりなどに文句を言うつもりはない。

 ただ、私は多香子さまに言われてここにきただけ。

 できれば、恭子さまのピアノを聴いて欲しいだけ。

 そして、ご成長された愛娘をその目で見て欲しいだけ。

「ご出席されるかもしれないことを恭子さまにお伝えしてもよろしいでしょうか?」

「ごめんなさい・・行くとは決まっていない事を伝えるのはやはりいけません」

 多香子さまは目の前の由希子さまに決めてもらって、と言っていた。ここは従うしかない。

「そうですね、恭子さまにはお伝えしないでおきます」私はそう言ったあと、お茶を少し口にして「最後に一つお聞きしてよろしいでしょうか?」と言った。

「何でしょう?」

「藤棚のことです」

 私は庭の門に続く小道を覆っている藤棚を見ながら言った。

「藤棚のことを聞かれるということは、遠野さんは、もうご存知なのでしょう?」

「ええ、ある程度は・・」

 おそらく花言葉の意味のことを言っているのだろう。

「あの人があそこに家を建てられたと聞いた時には大変驚きました」

「そうでしょうね」

「ただ、そのことについて第三者である遠野さんに言うわけにはまいりません」

 由希子さまは私の目を真っ直ぐに見た。

「遠野さん、ただ、これだけは伝えておきます。この家の藤棚は私があの人と別れてこの家に戻った時に作らせました」

 やっぱり・・

 由希子さまは別れた後もしばらくはヒルトマンさまを待っていたのだと思う。

 その証が藤棚だ。

 けれど由希子さまにはどうしても養子を迎えなければならならない何らかの家の事情ができたと推察する。その理由までは第三者の私が詮索することではない。

「夢は、ずれてしまうものですね」

 由希子さまは何かを吐き出すようにそう呟いた。

 夢がずれる?・・すれ違う?

 その時、私は恭子さまと「冬の夢」の話をした際に結婚の話をしたことを思い出していた。私は男女のすれ違いの原因の一つに「夢」があると恭子さまに言った。

「年を経るにつれてそう思うようになりました。お互いの夢はどんどんずれていくものだと・・そして夢はやがて叶わなくなる」

 本当にそうなのだろうか?

 ギャツビーも夢を取り戻したがっていたが、それは最後まで叶わなかった。

 そこにどんな心の葛藤があったのか私には知る由もない。

 ただ言えることは今となっては二人の間にあったことと娘の恭子さまとはもはや関係がない。

「遠野さん、これ以上、私は何も申し上げることはできません。どうかご理解下さい」

 私が何を訊いても由希子さまはもう何も言わないだろう。

 それに私もこれ以上ここに留まるわけにはいかない。

「それでは奥さま、私はこれで失礼します・・ご都合がつけばどうか会場の方に」

 私はお暇を告げるとバッグを手にして立ち上がった。私は次に行かなければならない場所がある。

「遠野さん、一つお聞きしてよろしいでしょうか?」由希子さまは私を見上げて訊ねた。

「はい、何でしょうか?」

「恭子は、あなたの前ではどんな子なのでしょうか?」

「いい生徒さんですよ」

 私はそう言って微笑んだ。

 他にどんな言葉を使って表現しても当てはまらない気がする。


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