第40話 静子、神園邸へ①


「誰かと思ったら、いつかの、ねえちゃんやないかいな」

 目の前で大きなお腹が揺れている。けれど、不思議といやな感じはしない。

「この前は本当にありがとうございました」

 私は手土産の洋菓子と名刺を渡し深々と頭を下げた。

 ようやく銭湯のご主人、藤田さんに会うことができた。

 実際に助けてくれたのは藤田さんの方なので香山氏が先になったことが申し訳ない。

 場所は銭湯の奥の事務所の中だ。

 中にはソロバンを弾いている中年の女性がいた。しばらくするとこの女性が立ち上がり給湯室に入りお茶を出してくれた。最初は奥さんかと思ったがそうではないみたいだ。

「青木の奴、もう何もしてこうへんやろ?・・あいつにはきつく言うといたからな。ああ、わしが直接言ったんやないで、別の奴に言わしたからな」

 この人、すごく顔が広そうだ。

「香山の家と違ってこんな狭いところで、すまんなあ」

「いえ、お礼に上がっただけですから」

「香山はようしゃべる奴やろ?わしと違って」

 それ、本当かしら?

「そやけど、あんたがあの長田さんの所の人やとは思わんかったなあ」

「私はただの家政婦です」家族ではない。

「あの屋敷にこんな別嬪さんがいるとは知らんかった。わしもまだまだやなあ」

 それ、どういう意味なの?

「また何かあったらいつでも力になるでえ」

 そう言って太い腕をぐいっと私の目の前に見せる。

 藤田さんはがさつな感じはするが昨日の酔っ払いよりずっと好感が持てる。

「あの・・人って、見かけではわからないものですね」私は何となくそう言った。

「見かけって、誰のことや」

 あれ?一体私は誰のことを言おうとしたのだろう?

 目の前の藤田さん?香山さん?

 奥さまのこと?・・そんなことをこの席で言うのはおかしい。

「藤田さんのことです。見かけによらず、お力が強いようでしたので・・」

 何とか会話を繋いだ。

「そうかあ?」

 そんなやり取りを見ていた事務の女性がけらけらと笑い始めた。

「主人はあなたがお綺麗だから助けたんだと思うわよ。この人は綺麗な人を見るとすぐにいい格好をしたがるのよ」

 やっぱり藤田さんの奥さんだった。香山夫妻とは又違う夫婦の形を見た気がする。

「この人、見かけはこんなんだけど、知り合いはすごく多いのよ」

 奥さんは事務机に座ったまま話す。

「そのようですね。何となくわかります。お風呂屋さんを経営しておられるからですか?」

 私がそう訊ねると「風呂は関係あらへんでえ」と藤田さんが答え、奥さんが「関係あるわよ。よく色んな業種のお客さんと噂話をしてるじゃないの」と答えた。

 そうして夫婦のやり取りが始まり微笑ましい会話を聞かされることになる。

「景気の話や、どこそこの八百屋の夫婦が最近、仲が悪いとか、あそこの医者の薬は効かないとか・・主人の話はそんなのばかりよ」

 奥さんがそう言うと「人の悪口はいかんなあ」と返す。

 だんだん話がずれてきた気がする。

「あの、そろそろ、私・・」

「そうやな、あんまり引き止めても悪いわな。長田さんの家やったら、色々忙しいやろしなあ」

「ええ、まあ・・」と答えながら、今、奥さんが言った言葉の中で少し気になったことがあったので訊ねてみた。



 私はある人の家の応接室にいた。

 その庭には春になれば美しく彩ると思われる大きな藤棚がある。

 来客は全て門をくぐると藤棚の下を通り玄関に入る。

 藤の花・・和歌などの季語は「春」

 花言葉は「外国人を歓迎する」「あなたを迎える」「女性の美」

 ここは日本の二階建ての旧家。

 二階建てと言っても木造の荘厳な造りなので最近の戸建の三階建分はある大きさだ。

 代々続く名家らしい。何故、恭子さまを由希子さま、この家がが引き取らなかった訳がわかる気がした。恭子さまはやはり異人の娘だ。ここの世界とは相容れない、そう判断する人がいたのかもしれない。

 私の前にはテーブルを挟んで亡き長田ヒルトマン氏の別れた妻、由希子さまがいる。

 今は旧姓に戻り神園由希子・・そう、ここは神園邸だ。

 離婚後、間もなく養子を迎え再婚したと聞いている。

「そうですか、あの人の家の方ですか・・」

 テーブルの上の私の名刺を見ながら由希子さまは静かにそう言った。おっとりした口調だ。

 恭子さまの実の母親。

 想像通り、いや、想像を超えて綺麗な日本女性。ヒルトマンさまが一目惚れしたのもわかる気がする。着物ではなかったが、日本の名家の婦人らしい清楚な服を着ている。

 私の服が質素なスーツで絵にもならないとしたら、由希子さまは日本絵画のモデルにでもなれそうな装いと重ねて美貌をも持ち合わせている。

 香山氏の言う尾ひれのついた噂話によれば、由希子さまは苦労知らずのお嬢さま育ちらしい。だが真実はこうして会って話してみないと見えてこない。

 それにしても緊張する。今まで会った人の中で一番緊張する相手かもしれない。

「遠野さん、それで今日は何か、お話がおありなのですね?」

 名刺から目を離すと顔を上げ私の目を真っ直ぐに見た。両手は膝の上に揃えて置いている。

 私は多香子さま・・奥さまの願いを伝えにきた。

「はい」

 そのあと由希子さまは「私はあの人の葬儀にも出席しませんでした・・」とポツリと言った。

 ドアがノックされる音がして女性がお茶を出してくれた。

 緑茶のいい香りが漂う。湯飲茶碗もいい趣味をしている。

 女性が一礼をして部屋を出ようとすると交替で幼い女の子が勢いよく入ってきた。

「お母さまっ!」

 女の子は甘えるように由希子さまの膝の上に乗って「お母さま、お客さまなの?」と訊ねた。

 確かに今「お母さま」と言った。恭子さまが奥さまを「お母さま」と呼ぶ響きとは全く違った。そこにあるのは絶対的な「甘え」だ。何をしても許される、絶対的な母親の存在だ。

 いきなりの出来事ということもあって私は身が抉られるように感じた。

 まだほんの四歳か五歳くらいだろうか?

 私の聞いた話や香山氏の話の中で娘の存在は一度も出てこなかった。

 だが、これが避けようのない現実だ。

 あの小説のギャツビーも元恋人のデイジーに娘がいたことに大きくショックを受けた。

 ギャツビーにとって愛は形の無いものだが、娘の存在は否が応でも見せられる形のある残酷なまでの現実だった。

 なぜ、私は由希子さまに既に子供がいるかもしれないということまで考えを及ぼさなかったのだろう。

「この子、私の長女です。『ゆかり』と言います」

 由希子さまは娘をあやすように膝の上から降ろして紹介した。娘は興味深げに私の顔を見ている。

「娘さん・・お幾つですか?」

 娘は母親の腰に抱きついて懸命に揺さぶっている。

「来年、もう小学校に上がるのよ。今は甘えてばかりで、本当に手がかかって困りますわ」

 そしてこの子は同じお腹から生まれた恭子さまの妹。

 丁度、これくらいの時だ。恭子さまに母親である目の前の人がいなくなったのは。

「ねえ、お母さま、教えてもらった綾取り、又わかんなくなったの」

 綾取り?

 そうなのね・・この子は母親に綾取りを教えてもらっているのね。

 ゆかりちゃん、いいわね、お母さんに教えてもらって・・

 心の中でそう呟くと胸がぐっと閉めつけられるような気がした。

「こらこら、ゆかり、お母さんは今、この人と話をしてるのよ。あとでお部屋の方に行くから部屋で待ってなさい」

 そう言うと娘は拗ねたようにむくれる。

「あの、かまいませんよ。私、すぐに失礼しますから・・」

 まだ、恭子さまの名前が二人の会話の中一度も出てきていない。

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