第39話 母として、妻として②

「そして、何よりも一番に考えたわ、『私は夫を支えてあげることができるのか』って・・」

 奥さまの顔はまだ赤い。やはり酔っておられるのだろう。

「でもね・・」

 少し声が落ちた。

「あの人ね、お見合いの席で、私ではなく、桜の花ばかり見ているの・・」

「桜の木があったのですか?」

「ええ、東京でのお見合いの席の庭にね。もう満開よ。確かに綺麗だったわ。だからといって私の方を見ないのはおかしいわよ。そして、私も桜を見ながら思ったの」

 なぜか、その時の奥さまの気持ちがわかる気がした。

「ああ、この人の心はここにはない、って」

 その時、ヒルトマンさまはまだ前の奥さま、由希子さまのことを思っていたのだろうか?

 ヒルトマンさまの方はそれでかまわなかったのかもしれないが、奥さまはさぞお辛かったであろうと察する。

「あの・・縁談を断るわけにはいかなかったのでしょうか?」

「そんなわけにはいかないわよ。いくら、形だけの結婚でも、うちの家は財閥系の厳格な家だったし、長田の家との密接な繋がりもできつつあった」

 上手くいかないものだ。そんな結婚がなければ恭子さまの境遇も少しは変わっていたかもしれないというのに。

「あの人が亡くなった時、あの女にも財産の一部が譲渡されたのよ。別れた時の慰謝料の他によ!・・そんな話、聞いたことがある?」奥様は声を荒げ息を継いた後こう言った。

「・・できると思う?」

 再び、さっきと同じ言葉を吐き出すように言うと奥さまは顔を見られたくないのか右側の絵を見た。いや、おそらく絵は見ていない。泣いているの?

「そんな扱いを受けて、あの子に優しくできると思う?」

 そう言うと私の方を向き直った。やはり顔がまだ赤い。

「あの、先ほど言われた、奥さまが和服を着ない、っていうのはどういう意味なのでしょうか?」

「遠野さん、由希子さんの写真を見たことあるでしょう?」

 あっ、写真の中では由希子さまは見事に綺麗な和服だった。

「由希子さんは和服の似合う美人だったのよ・・」

 これが男女の・・結婚の辿りつく先の話なのか。

 恭子さまと結婚について話し合ったが、こんな話はとてもできない。

「この先、私があの子に優しくすることはないと思うわ」

「そんなっ」

 この場に恭子さまがいなくてよかった。こんな言葉、恭子さまが聞いたら何と思うか。

「あの子、じゅうぶん遠野さんになついているわよ、島本さんの時よりも」

「そ、そうでしょうか?」

「ええ」と言って奥さまは笑みを少し浮かべる。

 そんな言葉で嬉しくなってしまう自分が情けない。

「あの、奥さま、時々、こう思うのです。私の存在が奥さまとお嬢さまを遠ざけているではないかと・・」

「遠野さんがいなくなったら、私、困るわよ」

「けれど、私は奥さまにお嬢さまにお優しく接して欲しいのです。それが遠野静子の願いです」

 そう私が言うと奥さまはふーっと大きく息を吐いた。もう顔色が戻っている気がする。

「考えておくわ・・それと、今日、私が言ったことは恭子さんには内緒よ」

「当たり前です!」私が大きな声を出すと奥さまは小さく呟いた。

「・・やめないでよ・・」

「えっ、今、何とおっしゃいました?」

「遠野さん、ここを辞めないでって言ったのよ」

「は、はい・・」

 いきなり何を言いだすのかしら?

「遠野さんが辞めてもらったら困るわよ、私が文句を言うのは遠野さんが一番慣れているのだから」

 やっぱり奥さまは酔っている。だったらこの際だ、伝えておこう。

「恭子さまは、十一月のピアノのコンクールに出ることが決まりました」

 私の言葉に奥さまの肩が少し震えた気がした。

 奥さまには出席してもらわなければならない。

「遠野さん、あなたにお願いがあるの」

 改まって、何かしら?

「お願いですか?私にできることであれば・・」

「今度の出張、すごく長くなりそうなの。あの子のピアノのコンクールどころでないわ」

 やっぱり、恭子さまの演奏は母親である奥さまに見てもらうことができない。

 ある程度予想はしていたが、やはり、つらい。恭子さまにお伝えするのはもっとつらい。

「その代わり、ピアノのコンクールの席に、あの人・・由希子さんを呼んであげて欲しいの」

「えっ、由希子さまを・・」

 予想していなかった人の名前だ。どうして?

 それに恭子さまはどう思うのだろうか?

「そのことはお嬢さまにはどのように?」

「由希子さんに決めてもらってちょうだい」

「本当によろしいのですか?」

「いいわ・・これが私のお願いよ」

「は、はい・・」

 私がそう応えると奥さまは「そうそう、島本さんは、酔っ払いにからまれたら怒鳴っていたわよ」と微笑みながらそう言い残し部屋に戻った。

 居間に一人きりになると壁にかけられている西洋絵画を改めて眺めた。

 女神が民衆を引っ張っている。彼女に多くの人々がついて来ている。

 ここに描かれた女神はどのような言葉でこれほど多くの人を動かしたのだろうか?

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