第38話 母として、妻として①


「遠野さんもお掛けなさい」

 パーティが終わった後、私は奥さまに居間に来るように言われた。

 前回のパーティではここで反省会をグストフ氏と三人でした。今回はグストフ氏は呼ばれていないようだ。

 恭子さまは部屋で休まれた。たぶんお疲れになったと思う。

 私は奥さまの向かいのソファーに浅く腰掛け背筋を伸ばす。

「遠野さん、ご苦労さまだったわね」

 奥さまは煙草の煙をスーッと吐き出した。顔が赤い。

「奥さま、先ほどはありがとうございました」

「ああ、あれ・・そうね、遠野さんも酔った人をちゃんと扱えるようにならないといけないわ」

 また島本さんと比べられるのだろうか?島本さんなら、ああいう場合どうしただろう?

「いやな男たちだったわね・・お酒臭くて・・大嫌い・・」

 そんな話ではなかったようだ。

 コップの水が空になっているので注ぎ足す。

 奥さまは水を勢いよく飲み干したのでまた水を足す。まだ酔いが残っているようだ。

「あの子、ピアノ、上手だったわね・・」

 奥さまはコップ片手に呟くように言った。

「ええ、ミスがなくてホッとしました」

 明日、恭子さまにちゃんと誉めてあげよう。

 えっ、それより、今、奥さまは恭子さまをお誉めになったの?

「遠野さん、ミスがなかったってわかるの?」

「はい、何となくですけど」

 ピアノはよくわからないけれど、よく耳にする「エリーゼのために」の音楽が続いていたのでミスはなかったと思える。

 奥さまは「そう・・」と言った後「子供って、成長するものなのね・・」と続けて言った。

「えっ、恭子さまのことですか?」

 やっぱり酔っておられる。奥さまには似つかわしくないセリフだ。

「この前、びっくりしたわよ。『何も知らないくせに』なんて・・どこかの不良娘かと思ったわ」

 あれは成長とは言えない。それにあの言葉は少女漫画の・・でもそれは奥さまには言えない。黙っていた方がいい。

「でもあの子は、私の娘ではないわ、何があっても」

 そう言うと壁に掛けてある西洋絵画を眺めた。

 バレエをしている少女を中年男が眺めている絵だ。

「あの子には悪いけど、しょうがないわ」

 どういう意味?もう少し奥さまの話を聞いてみようかしら。

「私ね、パーティの席では絶対に着物は着ないの」

 何を言っているかわからない。そういえば奥さまの和服の姿は見たことがない。

 いつも洋装で着飾っている。それが奥さまのステータスなのだと理解している。

「遠野さんは気にしているようだけど・・」

「何がですか?」

「私が恭子さんにつらくあたることよ」

「それは、お嬢さまがお可哀想で・・」

 奥さまは今度は反対側の壁の絵を眺めた。女神が群集を引き連れている「革命」の絵だ。

「・・できると思う?」

 え?・・よく聞こえなかった。

「あの子に、私が優しくできると思う?」

「あの、奥さま、どういう意味でしょうか?」

「優しくなんかできるわけなんかないわよ」

「お嬢さまには優しくして欲しいです」

 その願いが叶うなら、もう奥さまに言うことはない。私はいつまでも島本さん以下でもかまわない。

「あの人は最後まで私を見なかった・・」

 奥さまは私の顔を見ずにそう言った。ずっと遠くを見ているように思えた。

「ご主人、ヒルトマンさまのことですか?」

「私が『あの人』って呼ぶ人は他にいないわよ」

 ヒルトマンさまが奥さまを見なかった?

「頭がガンガンするわね、お酒のせいかしら?それとも煙草のせい?・・煙草、もうやめようかしら」奥さまは吸いかけの煙草を灰皿でギュッと潰した後、こう言った。

「遠野さん、私だってね、この家に嫁いできたのよ」

 それは小さな心の叫びに聞こえた。

「最初、不安もあったわ。政略結婚だと周りの人に何度も言われたわ」

 政略結婚という話は島本さんからも聞いた。

「でもね、その時、私、まだ二十代の娘よ。一応、ぎりぎり夢見る乙女よ、それも相手は外人・・言葉の不安もあるし、文化の違いもあった。相手には娘さんもいる。上手くやっていけるだろうか?いろいろ考えたわ」

 立て続けにしゃべる。私が間を挟む隙もない。

 どうしてこんなに話すのだろう?恭子さまにあのように言われたのがショックだったのだろうか?

「いくら家政婦さん、その時は島本さんだった・・家政婦さんが家にいるからといって、甘えるわけにはいかないわ。私は夫を支えなければならない・・家事や料理も勉強しなきゃ、って思ったわ」

 奥さまには申し訳ないが、信じられなかった。

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