第35話 香山氏の話
◇
「香山さんは、お二人がどうして離婚されたのか、ご存知なのですか?」
私は香山氏との会話を思い出していた。
香山氏はヒルトマンさまの前の奥さま、由希子さまを昔から知っている。
「まずは尾ひれのついた話でもしようか」
尾ひれ?
そう言って香山さんは煙草に火を点けた。
「遠野さん、彼女の家はどこにあるか、知っているかい?」
「ええ、すごく近くです・・私どもの家から天井川を挟んで南向こうにあります。200メートルも離れていません。それを知った時には少し驚きました」
由希子さまのご実家は長田邸の三階からよく見える。
「だろうね・・実はみんな驚いていたよ。『追っかけて来たのか』ってね」
追いかけて来た?ヒルトマンさまが前の奥さまを?
「もちろん、神戸で事業を始めるための拠点としてあそこにしか場所がなかったのかもしれない。けれど噂の方はそうはいかない。誰もがそう思う」
そんな噂があったの?私はこの町のことをまだまだ知らない。
「私にはそんな話、全然信じられないのです」
「だから、話の尾ひれだよ。あくまで周囲の人間の想像でしかない」
気がつくと二人ともコーヒーを飲み干していた。
タイミングよく香山氏の奥さんが再び現れ、今度は日本茶を出してくれた。
奥さんが「あなた、私も話をお聞きしてよろしいでしょうか?」と言うと「あの話だから、君にとっては面白くも何ともないよ」と答えた。
奥さんはそれでもかまわないらしく頷くと香山氏の隣のソファーに腰掛けた。
私が女性だから気になるのだろうか?
あまり遅くなるわけにはいかないと思ってそろそろお暇しようと思っていたが機会を失ってしまった。
お茶を一口飲む。これもまた美味しい。
奥さんにあとで銘柄を訊いてみよう。
「由希子さんは名家の典型的なお嬢さんだな。甘やかされて何一つ不自由せず育ったお嬢さんは、旅行先で大金持ちの外人さんに出会って、更に恵まれた暮らしをするようになった・・」
奥さんも横でお茶を啜りながら頷いている。
「そして、誰もが思う。金持ちは一般庶民には真似の出来ないことができる」
「庶民には真似の出来ないこと?」
「だってそうだろう。別れた奥さんの家の近くに大豪邸を建ててしまうなんて、誰にできる?」
「先ほども言いましたが、それは私には信じられません」
それに由希子さまが再婚でもして家を出たらお終いの話だ。
「今、言った話は尾ひれだよ。想像の話はそんな話だ。現実はごく普通だよ」
横で奥さんが微笑んでいる。香山氏はいつもこんな感じなのだろうか?
ヒルトマンさまとは別の事業家として成功している人の側面を見た気がした。
「由希子さんは普通の清楚な日本女性だよ。おしとやかなね」
何だか話がすごくまわりくどい気がする。
香山氏は何のためにこの噂話をしたのだろうか?
「ただ、厳しい環境、つまり、ヒルトマン君のような精力的な事業家とはすれ違いも多かったのではないか、と思うね」
ヒルトマンさまは仕事と家庭の両方を選ぶことはできない、と言っていた。
「本当のことは誰にもわからない。別れた理由も、ヒルトマン君があの場所に家を建てたことも・・わかっていることは由希子さんは来年この町を去るということだけだ」
「由希子さま、町を去られるのですか?・・」
香山さんの話では由希子さまは父親の選んできた男、つまり養子を迎え入れ再婚した。
だが、夫の都合で山口県の下関の方に年明けに越すということだ。
「遠野さん、由希子さんの家の『藤棚』綺麗だろう?」
「藤棚?」
「そうか、君たちはここに越してきたばかりで、まだ春を過ごしていないんだね」
藤のつるが棚に巻き付き花の房がまるで棚から降りしきる雨のように垂れ下がる。
それが藤棚だ。
藤の花は春になれば満開を迎える。
「ええ、この夏に越してきたばかりです」
「引越し、大変だったろうね」
「あまり、思い出したくもないです」私は少し笑うと「それで、藤棚が由希子さまのご実家の庭かどこかにあるのでしょうか?」と訊ねた。
由希子さまの家は遠くから眺めるだけなのでそこまでは知らない。
「門を入ってすぐ・・玄関に向う道に大きな藤棚があるよ」
玄関に向う道・・そんなに大きな家なの?
「まるで客人を迎えるようにね、細い道を藤棚が覆っているんだ」
門を入ってすぐ・・迎えるように・・
それって・・
「外からも見えるから一度行って見るといい」
「はい」
「春といえば、ヒルトマン君の家の庭に大きな桜の木がたくさん植えられているねえ」
「ええ、春が来るのが楽しみなんです」
「そうだ、ミチコ、以前、花言葉に凝ってたよな?『桜の花』の花言葉って何だったかな・・知っているかい?」
香山氏は奥さんに声をかける。
「『純真な心』とか『麗しの美女』だったと思いますわ」
気持ちのいい位にスッと答が返ってくる。
花言葉なんて考えたこともない。
「藤の花も春になれば咲くよ」
その言葉にドキリとした。
香山氏の言った尾ひれのついた話というのは本当にただの噂なのだろうか?
「遠野さん、僕はこう思うんだ。人って、自分が気づかないうちに他の人の気持ちを動かしているんじゃないかってね」
香山氏の言葉に奥さんの表情が陰った気がした。
「あの、そろそろ、私・・」
もっと話を聞きたかったが、そういうわけにもいかない。
「ああ、失敬、すっかり話し込んでしまった。又、遊びに来るといい」
私は深く頷き微笑むと湯飲みの底の茶葉を揺らしてお茶の香りを嗅いだ後、最後まで飲んだ。
「気になるのかい?」
「えっ?」
「さっきから、この家のコーヒーやお茶の味を気にしているみたいだからね」
「家には他の家の家政婦さんも来ることがよくあるんだよ。みんなうちの家の味を気にするから、遠野さんを見ていればすぐにわかる」
「お恥ずかしいです、職業病でしょうか」
「不思議なものでね、ここのお茶が美味しいからといって、同じ銘柄のものを買って家で飲んでも、違う味がするものだよ」
「本当にそうなのでしょうか?」
同じ銘柄、同じ作り方でも、違う味が・・
「長田家はもうそろそろ遠野さんの味に変わってもいい頃じゃないかな?」
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