第34話 父娘


 以前、私は亡くなった父に静子さんのことを「私の前の母に少し似ている」と言ったことがある。

 でも、それは嘘。父を安心させるためについた私の嘘。

 もし似ているところがあるとするならば、まず日本人女性であること。

 他には、髪が長いこと。身のこなしが綺麗なこと・・それくらい。

 顔などは全然似ていない。

 母の顔は純和風的な顔だったし、静子さんは現代的な美人顔だ。

 けれど、私はこの人を選んだ。

 最終面接の時、私は静子さんともっと話がしたくなった。

 この人は私を同一の目線で見てくれている。

 他の女の人は私をまるで子供をあやすように見ているのがわかった。それは島本さんも同じだった。

 もちろん、その時も私は子供、今も子供・・それはずっと同じ。

 けれど私は母親が子供を甘えさせるようなものは求めていなかった。

 私と同じ道を歩いていける人がよかった。

 父もおそらく同じことを考えていたのではないかと思う。

 あれは私の誕生日が近づいた頃のことだったろうか。

 父は自分の寝室に私を呼びベッドに寝たままで話を始めた。

「恭子、島本が半年先にここを出ると言っている。最初、聞いた時はびっくりした。恭子も島本にはなついているしね。でも、お父さんはね、彼女を引き止めないでおこうと思っているんだ」

 幼い私はショックだった。もう私を甘えさせてくれる人がいなくなる。

 けれど父は続けてこう言った。

「島本がいるとね。恭子はずっと子供のままだ。もちろん、今も本当にお父さんの子供だよ。けれどお父さんの言っていることはちょっと意味が違うんだ。恭子にはまだ難しいと思うけど、これから話すお父さんの話は、いつか何かの機会に思い出してくれればそれでいい」

 私はこのまま子供でいい。いつまでもお父さんの子供で・・

「いいかい、よく聞くんだよ。お父さんの仕事はね、よその家のお父さんに比べてすごく大きいんだ。恭子にはその大きなものを引き継いでもらたいんだ」

「大きなものを、私が?」

 よくわからないけれど私は父のベッドの脇の椅子に座り耳を傾けた。

「そう、すごく大きなものだ。大きなものを持ってしまうとね、誰にも甘えられななくなるんだよ。それはすごく怖いことだ。いずれ恭子はそんなもの全てを抱え込まなければならなくなる」

 子供心にも父の話が怖くなったけれど、父の目は優しく私を見ていた。

「甘えられなくなると同時に、守らなければならないものが増える」

 そう言うと父はベッドから手を伸ばし私の頭を軽く撫ぜた。

「恭子にはね、誰かを守る力を身につけて欲しいんだ」

 私が誰かを守る・・誰を?

「この気持ちはね・・お父さんから恭子に渡すんだ・・だから・・」

 あの時の父はそう言うとお薬のせいで眠くなったのか目を閉じた。

 父があの時言った言葉を今は少しわかる気がする。

 自信はなかったけれど人前でピアノを弾くのはいつか通らなければならない道だと思っている。

 父は私にピアノの演奏を人前で披露させるために習わせた。

 あの人に無理強いのように言われたのは丁度いい機会かもしれない。

 もうすぐ静子さんが算数を教えに来る時間。そう思っているとドアのノックが聞こえた。

「今日は算数の授業です」部屋に入ると静子さんは第一声そう言った。

「ええ、予習はしているわよ」

 予習復習は欠かしたことがない。たまには誉めて欲しい。

「授業の前に私は恭子さまをお叱りしなければなりません」

 誉められる代わりに今日は怒られるみたい。

「恭子さま、先ほどのお母さまに対するあのようなお言葉、大変いけません」

 優しい顔で怒っているのが少し可笑しい。

「静子さん、ごめんなさい」私は椅子から降りて謝る。

「それに、私、あのようなお言葉、恭子さまに教えましたでしょうか?」

 ああ、あれ・・「何も知らないくせに」っていうセリフのこと?

「あれは静子さんが買ってきてくれた漫画の雑誌に書いてあったのよ」

 結婚生活もののストーリーで嫁が姑に言うセリフを使った。

「なっ・・」

 静子さんは返す言葉を失ったようだ。

 せっかく買ってきてくれた漫画の本をこんなことに使ってしまってごめんなさい。

「あの、恭子さま・・それと・・」静子さんは言いかけて少し口ごもる。

 静子さんは何かを言いたそうだ。

「静子さん、それと・・何?」

 静子さんの言いかけた言葉を言わせるため静子さんと目を合わせた。

 すると静子さんは静かに息を吐くと深々と腰を折り大きな声で言った。

「恭子さま、先ほどは、ありがとうございました・・」

 その肩が震えているのがわかる。

 顔は見えなくても静子さんが泣いているのを感じる。

「私、お礼を言われるようなこと、してないわ」

 そう言うと静子さんは頭を下げたまま首を横に強く振った。

 しばらくそうした後、静子さんはゆっくりと顔をあげた。

「でも、恭子さま、今後、二度とあのようなお言葉はお使いにならないでください」

 再びいつもの静子さんに戻る。

「わかったわ」私は素直な静子さんの生徒。

「本当に約束ですよ」

「ええ」

 私の返事に安心したのか静子さんは優しい笑顔を浮かべた。

 けれど、今日、一番傷ついたのは静子さんだということを私は知っている。

 あの人に「島本さんだったら、こんなことは一度もなかった」と言われた。

 普段気にしている静子さんにとっては一番きつく残酷な言葉。

 島本さんと比べて、さも静子さんの方が劣っているかのように言葉を突きつけられた。

 あの人はそれを知っててわざと言ったのだろうか?

「恭子さま、ピアノはどうしても弾かれるのですか?」

「もう決めたの」

 それに今日、感謝しなければならないのは私の方・・

 静子さん、今日は本当にありがとう。

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