第33話 長田多香子の思惑②

「奥さま、もしかして、いやがらせですか?・・」

 気がつくと雇い主に対して口にしてはいけない言葉を出していた。

「私にはまるで奥さまのお嬢さまに対する『いやがらせ』にしか思えません」

 私は続けて言った。昂ぶった感情を抑えきれない。

「遠野さん、あなた、いったい何を言っているの?」

 奥さまの表情が一瞬で険しくなる。当然だ。

「どうして私が自分の娘にいやがらせをするの?私は皆さんに娘を自慢したくて、そう言っただけのよ」

 それは絶対に違う! 奥さまは嘘をついている。

「私には全然そんな風には思えません」

 私は背筋を伸ばし深く息を吸い込み時間をかけて吐く。

「奥さま、差し出がましいようですが、今日は少し言わせてください」

「何を言うっていうの?」

 奥さまは組んだ脚ごと私に向ける。そのつま先が私の心に刺さるようだ。

「このままではお嬢さまが、あまりにもお可哀想です」

 これだけは言わせて欲しい。

「曲りなりにもお嬢さまは奥さまの一人娘です。けれど奥さまは何一つ母親らしいことはされていない・・お嬢さまが独りきりで、どれだけさびしい思いをされているかご存じないのですか?」

 ついに言った。不思議と後悔はない。

「遠野さん、それ、ピアノと何か関係があるの?」

 奥さまの横で、ごほんと咳払いが聞こえた。

「それじゃ、僕は部屋で休むとするかな」

 そう言ってグストフ氏は退席した。

 これ以上この話に関わりたくないのだろう。前からそういう人だ。肝心な時にいなくなる。 グストフ氏がいなくなると空気が少し変わる。

「それより、遠野さん、あなた、仕事はちゃんとしてるの?」

 言葉の流れが奥さまの一言で一瞬で折られた。

「えっ?」

 仕事?

「さっき懇親会のことで心配になって念のため大広間と厨房のチェックをしようと思って厨房の方を覗いたら床が濡れていたわ。あれ、きっとどこか水が漏れているわよ」

 水漏れはまだ業者に修理を頼んだばかり。

「奥さま、あれはもう・・」

 私の弁解を待たずに奥さまはこう言った。

「島本さんだったら、こんなことは一度もなかったわ」

「それは・・」

 それから奥さまは深い溜息をついた。まるで私に聞かせるように。

 島本さんの名前は今、聞きたくなかった。

「いったい、この家があなたにいくら払っていると思っているの?」

 私は頬に平手打ちをくらった気がした。

 もうダメだ。私は解雇される。

 恭子さま、ごめんなさい。言いたいことの半分も言えませんでした。


 その時、この場の誰よりも小さな声が部屋の中に響いた。

「・・何も知らないくせに・・」

 それはそれまで沈黙を守っていた恭子さまの声。

 この場にふさわしくない言葉遣い。

 恭子さまにも最も似つかわしくない言葉が私の耳に届いた。

 おそらく奥さまにも聞こえたはず。

「ちょっと、恭子さん、今、何て言ったの?」

 驚いた奥さまが恭子さまに向き直り確認する。

「私は『お母さまは何も知らないくせに』・・と言ったのよ」

 凛とした表情だった。

 恭子さまのこんな表情をいつか見た憶えがある。

 ああ、あの時だ。私が最終面接を受けた時の表情だ。

 私に質問をしたあの時の・・初めて私と言葉を交わしたあの時のお顔だ。

 家政婦の採用を私に決めてくれたあの時の。

「『恭子が君の傍についている』・・そう思ったことはないかい?」

 その瞬間、私はヒルトマンさまの言葉を思い出していた。

「恭子さま、お母さまにそのような・・」

 私は何とか口を開いたが、こんな時、何と言えばいいのかわからない。

「遠野さん、あなた、恭子さんに何て言葉を教えているのっ!」

 奥さまの非難の矛先が私に向かった。その方がいい。

「お母さま、静子さんは関係ないわ」

 恭子さまは私に矛先が向かないよう続けて言った。

「静子さんはちゃんと仕事をしているわ。お母さまが思っているより、ずっと」

 恭子さまは奥さまの顔を見据えている。奥さまは恭子さまの視線から目を逸らすことができない。

 奥さまは今どんな気持ちなのだろう?

 私は知っている。恭子さまの目の力は父親譲りのものだ。

 恭子さまはこれから先どんな風に成長していくのだろう。

 私は恭子さまの将来をこの目で見たくなった。


「そう、それならいいわ・・」

 奥さまは全身に入っていた力が抜けたようだ。

「お母さま、私、パーティでピアノを弾くわ」

 すでに恭子さまの表情が穏やかなものに変わっていた。

「恭子さまっ・・」

 何ということを・・

「お母さま、それでいいでしょう?」

 恭子さまの決心は固いように見える。誰が何を言っても変わらない。なぜかその時そう思えた。

「い、いいわ」

 奥さまは憤りの持って行き場を失ったように応える。

 恭子さまはそれだけ言うと立ち上がり部屋に上がった。

 奥さまも何も言うことがなくなったのか「仕事をしなくちゃ」と言って部屋に上がり、私はテーブルの上を片づけ始めた。


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