第32話 長田多香子の思惑①


 恭子さまも物音に気づいて階下に私より先に降りてきていた。

 驚いたことに長田グストフ氏もいた。全て予定外だ。

 慌てて私はキッチンに行きお湯を沸かしコーヒーの用意をしてティーワゴンを客間に運ぶ。

「お母さま、叔父さま、おかえりなさい」

 恭子さまは礼儀正しく頭を下げ、奥さまとグストフ氏がソファーに座ると、向いの席にちょこんと腰掛けた。

「恭子さんのお勉強のお邪魔も悪いと思って静かに家に入ったつもりだったけど、気づかれたわね」

 何てことだ。本を読むのに夢中になって全然気づかなかった。

「お帰りに気づかなくて申し訳ありません」

 グストフ氏はテーブルの煙草置きに手を伸ばし火を点ける。

「多香子さんとは、東京の会議で一緒になったんだよ。僕が神戸に用事があると言ったら、一緒についてきたんだ。結局、僕は荷物持ちになったけどね」そう言ってグストフ氏は煙草の煙を吐き出し笑った。

 グストフ氏は亡くなられた兄のヒルトマン氏とは性格を異にする。グストフ氏は実務者に徹している。仕事にしか興味がない。だからといって仕事ができるのとは又意味が違う。

 仕事に徹し過ぎてその人柄に魅力が感じられない。だから周囲の評判もよくない。

「懇親会のことがちょっと心配になって予定より早く帰ってきたのよ」

 奥さまは大きく足を組む。

「僕は『遠野さんがいるから、心配しなくてもいい』と言ったんだけどね」

 グストフ氏がそう言うと奥さまは少し厭な顔をする。

 私はテーブルにミルクとお砂糖を置く。奥さまはいつもコーヒーをブラックで飲むが、たまにミルクを入れたりする。

「なんだか恭子さんのお洋服、地味ねえ・・それ、遠野さんの趣味?」

 奥さまがブラックのままコーヒーを一口飲んだ後、私の方を見る。

 恭子さまは何も言わない。両脚をきちんと揃えてお行儀良く座ったまま。

 今、恭子さまが着られているワンピースはファッション誌の中から選んだ物。

 恭子さまと二人で選んだ。

「ええ」私は立ったまま小さく頷く。

 奥さまの一言で私は退席するタイミングを失う。

「島本さんなら、もっといいお洋服を選んでいたと思うわ」

 島本さんなら・・

 そう、奥さまの言うとおり、島本さんはコーディネートのセンスも優れていた。

 それはわかるが奥さまは何か私に言いたいことがあるのだろうか?

 もしそうならここで退席するのはまずい。

「コーヒーも、島本さんのと味が違うわね・・これ、ちょっと苦過ぎるわよ」

 だったらミルクを入れてくれればいいのに、この前は味がしない、と言っていたので今日は少し濃い目にしてみた。

「申し訳ございません、奥さま、コーヒーをお取り替えしましょうか?」

 私は深く腰を折って謝る。

「多香子さん、別にいいじゃないか」

 グストフ氏が横で奥さまの口を制してコーヒーを飲み大きく息を吐く。

「別に取り替えなくてもいいわよ。さっき外で食事をしてきたから、そのせいで苦く感じるのかもしれないわ」

 ホッとした。

 だが、奥さまはコーヒーをテーブルに戻すと私の方に向き直った。

「さっき庭を見たけど、植木の切り方、やっぱりおかしいわ、遠野さん、あなた、植木屋にちゃんと指示をしたの?」

「ええ、奥さまのおっしゃってた通り・・植木屋の上田さんに」少し自信がない。

「それで、遠野さんはあの切り方でいいと思うの?」

 私はわからない。植木のことまでわからない。

「僕は別におかしいとは思わなかったけどなあ」横でグストフ氏が淡々と言う。

 奥さまはグストフ氏の声を無視して「西の方角の木に枝が少なすぎるのよ。それに葉も小さすぎるわ」と言った。

 西の方角が邪気を払うために枝を多くするということを言いたいのだろうか?

 けれど、そこまで指示はあっただろうか?それとも私が聞き逃したのだろうか?

 とにかく先に謝らなければならない。

「申し訳ございません・・明日にでも植木屋さんを再度手配します」

 私は再び深く腰を折る。

 奥さまは足を組み替え「そこまで急がなくていいわよ」と言うと苦いと言っていたコーヒーにミルクを入れ口にする。

「は、はい・・」

 私が再びホッとしたのも束の間、奥さまは「それと、大広間に置いてあるピアノ、業者に調律を頼んでおいてちょうだい」と言った。

「え?」

 大広間のピアノは恭子さまのお部屋のピアノとは違い誰も使っていない。

 昔、前の奥さまがパーティの時に弾いていたという話は聞いたことがある。

 何か悪い予感がした。

「遠野さん、前に言ってたじゃないの・・恭子さんのピアノが上手になったって」

 奥さまのその顔は笑ってはいるが私には笑顔に見えない。

「ピアノの演奏を今度の懇親会の目玉にしようと思っているの」

 私の予感は的中した。

 私がいけなかった。安易に奥さまに言うべきではなかった。

 これは私の大失態だ。

「皆さんの前で、恭子さんのピアノの腕前を披露するいい機会だわ」

 奥さまは恭子さまの方を見て「ねえ、恭子さん」と言って薄っすらと微笑んだ。

 ピアノの先生は私に「お嬢さんは簡単な曲なら人前で弾くことはできるが、大曲の演奏はまだ人前で弾くのは無理。今、人前で弾いてミスをしたりすると逆に自信をなくしてしまうこともある」と言っていた。

 恭子さま、ごめんなさい。

 私がいけなかった。先生の言葉を聞いておきながら・・

 恭子さまの方を見るといつものように相変わらず無表情のまま。

 だが私は恭子さまをお守りしなければいけない。

「奥さまっ、まだ早すぎます!」

 気がつくと自分でも驚くような大きな声を出していた。

「えっ、何が早いの?・・遠野さん、そんな大きな声を出して」

 奥さまは惚けた表情で訊き返す。

「お嬢さまは、まだ人前で弾くほどには上手になっておられません」

 恭子さまが私の方を見ているのを感じる。

 ごめんなさい、恭子さま、今だけ私にそう言わしてください。

 恭子さまのピアノ、お上手ですよ。

 先生も褒めていらっしゃいましたよ。

「あら、でも私、言っちゃったわよ。『今度の懇親会は娘がピアノを弾きます』って」

 私の言葉に奥さまは平気な顔で返した。

 恭子さまの肩が一瞬びくっと震えたのを見た。

「な、なんてことを・・」

 怒りで体が震えた。

 それは強烈な怒りだった。これでは恭子さまがあまりにもかわいそう。

 今でも恭子さまがまるで客人のように奥さまと向い合って座っていること自体が不憫でならない。恭子さまは奥さまが現れると、誰に言われたのでもなく、決め事のように客間のソファーの奥さまの向かいにちょこんと座る。

 普通の家庭のように母娘で笑い合ったりすることもなければ、学校の悩みなど話し合ったりもしない。この大きな邸宅の中でお互いに客人のような扱いなのだ。

 もう我慢できなかった。

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