第31話 ギャツビー


 時々、思う。私は一体この家で誰に仕えているのだろう、と。

 未亡人の多香子さまだろうか? ヒルトマンさまの弟のグストフ氏だろうか?

 邸宅の名義は多香子さまだから、財産のほとんどは多香子さまのものとなったのだろう。

 いずれにせよ私はお二人のどちらかの機嫌を損ねたりしたら失業する身だ。

 ただの雇われの身だ。

 私は今、二階の由希子さまの部屋にいる。

 恭子さまが自主勉強をしている間、ここで読書を楽しむのは習慣になっている。

「華麗なるギャツビー」を読むのはこれで二度目だ。

 恭子さまに短編の方の「冬の夢」を読んでさし上げたことがきっかけで再度読み直している。恭子さまも今読んでいるらしいけれど漢字が多くて進まないらしく、また本棚に戻ってきている。

「冬の夢」は英書があるのに「ギャツビー」は日本の単行本しかない。

 私が「ルビをふっておきましょうか?」と恭子さまに訊くと「お母さまの本が汚れてしまう」と言って断られた。

 今度、朗読してお聞かせしよう。「冬の夢」の何倍もの量で時間もかかりそうだが、そんな二人きりの時間も素敵に思える。

「冬の夢」の作者フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」は大ベストセラーとなり

アメリカンドリームの象徴とも言うべき作品になった。

 そのあらすじは「冬の夢」よりも事件性がありドラマティックだったのでよく覚えている。

 話は主人公であるギャツビーが恋人デイジーを残して戦地に赴いたが、デイジーはギャツビーの帰りを待つことなく金持ちの男、トムと結婚して子供をもうける。

 戦地から戻ったギャツビーはショックを受けるがデイジーへの思いを捨てきれず、湖畔に建つデイジーの家の対岸に大邸宅を建てた。

 ギャツビーはまさしく「アメリカンドリーム」のような成功を手にしていたのだ。

 残りはデイジーとの愛を取り戻すことだけだった。

 そして、夜になると階上のバルコニーからデイジーの家の灯りを見ていた。

 毎夜のようにギャツビーは邸宅で大パーティーを催し、デイジーがいつか自分の家に来てくれることを望んだ。

 デイジーはギャツビーの前に現れ再び交際が始まったように思えたが、やがて「冬の夢」と同様の喪失感が訪れる。

 ギャツビーがデイジーに求めた愛の深さとは比べようもなく、

 デイジーの愛は浅く、現実的だった。

 デイジーがギャツビーの愛に応えることは最後までなかった。

 ギャツビーは「愛さえあれば何でもできる。そこには障害など何一つない」と思っていたが現実には壁が多すぎた。

 デイジーは別の男、トムと結婚していて曲りなりにもトムとの間に思い出が積み重ねられていること。

 トムとの間には愛娘がいること。他にも社会的な制約が多すぎた。

 結局ギャツビーはデイジーの引き起こした自動車の轢き逃げ事故がきっかけで被害者の関係者に殺されることになる。

 ギャツビーの葬儀には、あれほど豪華絢爛のパーティに招かれていた人たちは一人も参列せず、デイジーさえも現れなかった。

 読者はギャツビーのひたむきな愛と、それとは大きく異なる現実の愛の違いに共感を覚えることになる。

 このストーリーは美しく、そして、はかない。

 夢を追い求めた男の美しさとそのはかなく悲しい結末が綺麗な文章力で見事に描かれている。そして極めつけはギャツビーがその手に掴みかけた「アメリカンドリーム」に当時の読者が憧れたということだ。だからこそ共感を呼び映画にまでなった。

 私はストーリーの美しさもさることながら、ギャツビーがお酒のグラスを片手にバルコニーに立ちデイジーの家の「灯り」を見ているシーンが印象に残っている。

 ギャツビーにとってはこの灯りを手に入れることこそが人生の最大の目標だったのではないかと思う。事業に成功して金持ちになったことはあくまでも過程にすぎないのではないだろうか?

 ギャツビーにとっては「灯り」が全ての象徴だった。

「灯り」の向こうには取り戻さなければならない元恋人のデイジーがいるからだ。

 だが、灯りはいつかは消える・・

 私は本をぱたりと閉じた。

 階下で物音がしている・・奥さまがお戻りになったの?

 お帰りの予定はもっと先だったはずだ。


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