第29話 恋①


 静子さんは手のひらを空にかざしていた。

 お天気のいい日、噴水の近くの芝生の椅子に座り静子さんがよくそうしているのを見かけた。日光浴でもしているのかしら?

 静子さんは少しの間そうした後、お庭の掃除をしたり花壇に水を撒いたりする。

 あれは何をしていたのかしら?

 普段忙しい静子さんのそんな姿は珍しい。

 そして、その姿がとても綺麗だった。そのせいかはわからないけれど私にはそうしている理由を訊くことができなかった。

 静子さんが唯一、仕事を離れている時間を邪魔するわけにはいかない。

 思い出せば、父が生きていた頃、芝生の同じ場所で二人が語らっているのを何度か見かけたことがある。

 私と接する時とは違う二人の顔をそこに見た気がしていた。

 あの頃は父の病気が心配で眠れない日々が続いていた。父が倒れる度に病院に行き待合室で待ったり父の病室に行ったりした。

 最後に病院に行った時には、父のベッドのまわりを大勢の大人たちが囲んでいるのが見えた。

 その中にあの人、義理の母の姿はなかった。その方がよかった。父の姿をあの人に見られたくない。

 叔父が私の背中を押して父の傍に立たせる。

 父を見た瞬間、私はこの世界の終りだと思った。

 気が抜けていく・・立っていられない・・

 その時、私の背中を支えてくれたのが静子さんだった。

 静子さんは私の大事にしているクマさんのぬいぐるみを家から持ってきてくれていて私に持たせてくれた。私はしっかりとぬいぐるみを抱きしめた。そうして泣くのを堪えた。

 クマさんがなければ静子さんに抱きついて泣き出していたかもしれない。

 静子さんがいなければ私は私でなくなってしまう・・そんな気がする。

 この家に静子さんとずっと二人だけならいい。

 けれど、そんなわけにはいかない。二人きりの時間を引き裂くようにあの人が時々帰ってくる。

 あの人と会話をすれば私はまだまだほんの子供だということを思い知らされる。

 私はあの人の前で思っていることを口に出せない。

 そんな時にも静子さんが私の方に立ってくれる。

 私の成績が少し下がった時も「奥さま、私の教え方が悪かったのです」と自らあの人に説明をし始めた。

 そんなこと言わなくてもあの人は私の成績など気にしていないのに。

 静子さんがいなければ私はただのお人形さんになってしまう。いつも「はい」「お母さま」「ありがとうございます」などをオウムのように繰り返すだけのお人形。

 何か無理なことを命じられても「はい」と言ってしまいそうだ。

 だから、静子さんには本当にいつも感謝している。

 ずっと私のそばにいて欲しい。無理をしないで欲しい。

 私も何か手伝いたくて、洗濯機を買い換えた時、使い方を覚えようと説明書を読みながら洗濯機をいじっていると、シーツを抱えた静子さんに見つかり「恭子さまっ!」と大きな声をあげシーツをその場に置くと「そんなこと、おやめくださいっ。お願いですっ、お願いですっ」と何度も繰り返した。

 お皿洗いも何度も手伝おうとしたけれど、させてもらえなかった。

「静子さんは私を過保護な女の子にさせるつもり?」と言うと静子さんは笑うだけだった。


 そんな静子さんが倒れた・・倒れたというよりも厨房で寝ていた。

 結局その後、静子さんは部屋に紅茶を持ってきた。

 珠算の授業が終わると静子さんは先生を門までお見送りしてまたキッチンに入った。

 私は食事まで本を読んでいようと部屋に戻ったがしばらくすると、階下からいい匂いがしてきた。

 今読んでいる本は母の部屋にあったもので、あの漫画「冬の夢」の原作者フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」。

 今度は英書ではなく日本語の本だけれど大人向けの本なので5ページ辺りから全然先に進まない。手元に漢和辞典を置いて辞書を引き引き読む。

 1ページ目のギャツビーの父が主人公に言う言葉が印象に残った。

「誰か人を非難、批判しようと思う時には、必ず、相手の人の立場に立って考えなさい」

 1ページ目に書いてあるということはこの言葉がこれ以降の話に関わってくるのだろうか?

 でも読み続けるのは無理かも。

 リビングに降りると静子さんがエプロン姿で待っていた。

 エプロンの下はちゃんと着替えているみたい。

「恭子さま、今日はビーフシチューですよ。お肉たっぷりですよ」

 静子さんの表情がどこかぎこちない。オムライスの時みたいに泣き笑いのような表情。

 椅子に腰掛けると静子さんも合わせて座る。

「また島本さんの虎の巻で作ったの?」

 オムライスの時、自分の学生時代のやり方で作ったものと島本さんの虎の巻で作ったものとを比べて全然違うと嘆いていた。

 静子さんのやり方で作ったオムライスはどうなったのだろう?

 ちゃんと食べたのかしら? もしかして捨てたの?

「え、ええ、そうですけど・・」

 そう言った後、コホンと一つ咳払いをして静子さんは語り始める。

「恭子さま、島本さんの虎の巻は本当によく考えられて作られているんですよ。栄養バランス・・それも大人と子供に分けて書いています。それから、火の加減、調味料の配合の仕方、火の通し方も・・全部、本当によく考えられています。島本さん本人に聞いたわけではないのですけど、私が思うのには島本さんはどこかで専門的に習っていたのではないでしょうか? そして、恭子さまと同じような年頃の女の子の食事も長い間、作っていたのではないでしょうか?そうでないと、こんな完璧な虎の巻、簡単に作れないですよ。私だったら・・」

 もういいわ・・

 静子さん、どうしてそんなに饒舌なの?

 どうしていつもそんなに明るく振舞うことができるの?

「いただくわ」私は静子さんの言葉を途中で切ってシチューをすくい口にする。

脂の食感がしつこくなくお肉も柔らかい。また二口目を口に入れたくなる。

「おいしいわ・・」

 そう言うと静子さんの顔に笑顔がこぼれる。

「しっかり食べて栄養をつけてくださいね。また風邪を引いたりしたら大変ですからね」

 静子さんの方こそ。

「それとお肉はよく噛んでくださいね」そう言いながら静子さんはようやく食べ始める。

「この前の漫画のことだけど・・」私はお水で喉を潤しながら呟くように言う。

「ええ、あの『冬の夢』が原作の漫画ですね。あれがどうかされました?」

「主人公の元恋人のジュディは主人公と別れて別の男と結婚してからやつれたみたいだったけど、結婚ってそんなものなの?」

 静子さんも水を飲む。

「私は結婚していないのでよくわかりません。けれど、ジュディの場合は金持ちなりに色々と気苦労があったのではないでしょうか?」

 その辺りのことが原作には詳しく書かれていない。結果だけだった。短編なので仕方ないのかも。

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