第28話 疲れ


 香山氏との話が長くなって帰るのが遅くなった。

 邸宅に戻ると、応接の方にホテルのレストランの支配人と長田家の専属の料理マネージャーが先に来て待っていた。

 恭子さまが通しておいてくれたのだ。この時間だと恭子さまはお部屋で自主勉強をしている。

 すぐに二人にお茶を出して自分もソファーに座る。

 料理のレベルを町のコックから上げるようにと奥さまから連絡があり、三宮の有名なホテルのレストランに変更したので、奥さまに勝手に連絡をした業者は今回は自動的に切られた形になった。業者の方には他に何か埋め合わせを考えなければならない。

 料理のレベルを上げる以外に人数の変更もあった。20人から30人に増えていた。

 打ち合わせは一時間ほどかかった。三日後に最終調整をしにまた来る、ということだった。時計を見るともうすぐ4時だ。そろそろ珠算の先生が来る時間だ。

 珠算などの数字感覚はヒルトマンさまが娘に絶対に身につけさせなければならないと言っていた素養の一つだ。

 私は私で夕飯の準備をし始めることにする。

 夕飯の後は私本来の仕事である家庭教師がある。今日は学校の課題のアドバイスをした後、昨晩の続きの算数を教える予定。

 恭子さまの苦手だと思われるところを分析して教え込まなければならない。

 そんなことを考えながら湯を沸かし、野菜を洗い始める。

 風邪が治ったこともことだし、恭子さまには少し栄養をつけてもらおう。

 そう思っていたので今晩はビーフシチューを用意している。少し味見をしてみる。

 大丈夫、完璧だ。

 島本さんの虎の巻通りに作ってあるので安心していい。

 ふと床を見るとキッチンの隣にある大きな厨房から水が流れ込んできているのに気づく。

 厨房側の配水管のどこかが漏れているのかもしれない。暗い厨房の照明を点けてみると蛍光灯が点滅して消えかかっているのに気づいた。そのせいか辺りも暗くてよく見えない。

 買い置きの蛍光灯と取り替えるため脚立を出して昇る。この厨房はパーティの時などに数人のコックが使用するためのものだ。その時に灯りが暗かったりしたら大変だ。

 広間のシャンデリアの電球の点検をして厨房の方を点検するのを忘れていた。

 脚立に上がり、天井を見上げるとやたらと蛍光灯の点滅が目にチカチカと刺激が強い気がする。

 えっ?・・と思いながら何とか蛍光灯を取り替える。

 少し眩暈がする。体がぐらつき気が遠のいていく感じがする・・

 そう思ったときには私は脚立から足を踏み外して床に転げ落ちてしまった。

 お尻からどんと床に落ちた。手を床につくと床がびしゃびしゃだった。

 腰を強く打ったらしく起き上がれない。

 やっぱりどこか水が漏れている。早く業者に連絡しないと・・パーティまでに修理してもらわないと。先日修理してもらった箇所がまだ直っていなかったのかしら?

 何だか体が熱っぽい・・

 前回の修理伝票はどこにしまったかしら?

 少し、このまま・・ここで・・

 ジリジリジリッと門の呼び鈴が鳴るのが聞こえた。もうそんな時間・・

 珠算の先生を迎えにいかないと・・



「静子さん!・・大丈夫っ?」

 気がつくと恭子さまの小さな白い手が私の両肩にあった。

「恭子さま・・私は、いったい・・」

 私、厨房の中で寝ていたの?

 背中からお尻にかけてぐっしょりと濡れている。

「呼び鈴が鳴っても珠算の先生が二階に上がってこないから様子を見に来たのよ」

 門の呼び鈴が鳴ったのは気づいていたけれど起き上がらずに寝てしまった。

「恭子さまっ・・ごっ、ごめんなさい!」

 慌てて立ち上がろうとすると、恭子さまは両膝を床について手を私のおでこに当てた。

 恭子さまの手が冷たくて心地いい。

「静子さん、少し熱があるわ」

 それでさっき熱っぽかったのか。

「静子さんはきっと疲れているのよ」

 おそらく貧血だ。私は起き上がり衣服の乱れを整える。

「恭子さま・・それで、珠算の先生は?」

「部屋で待ってもらっているわ」

「そうですか」と言うなり私は深く息を吐いた。

 何ということだ!こんな所で寝て・・私の大失態だ!

「静子さん、今日はもう部屋で休んだ方がいいと思うわ」

 恭子さまは早くお勉強を。

「い、いえ、もう大丈夫です。お食事の用意をしないと・・恭子さまは早く先生の所に・・」

 恭子さまの小さな手がくいと伸びてきた。

「静子さん、お水を飲んで」

 恭子さまはコップを持って目の前に差し出している。

「あ、ありがとうございます。恭子さま」

 私は有り難くコップを受け取って飲む。冷たい水が喉の中を通っていくのがわかる。

 そういえば今日は水分をほとんど取っていなかったことに気づく。それで貧血を・・

「あ、あとでお茶をお部屋にお持ちします」

「今日はいらないわ。先生にも言っておくから気にしなくていいわ。それより早く着替えた方がいいと思うわ。服がびしょびしょよ」

 何て情けない話だ。

 それに恭子さまが私に駆け寄っていた時に両膝を床についたせいで、スカートの裾と両膝が濡れている。

「ごめんなさい、恭子さまこそ、スカートが濡れて・・」

「別にかまわないわ」と言うと「静子さん、もう行くわね・・お部屋で先生が待っているから」と言って去っていった。

 後から私は「はい」と声を搾り出すように言ったけれど、もう恭子さまは去っていった後だった。

 恭子さまが少しも慌てず冷静だったのは私に対する恭子さまなりの配慮なのだろう。

 珠算のお勉強をキャンセルするようなことになれば私が責任を感じると思ったのにちがいない。

 私の方が恭子さまに気を遣われている。

 何て情けない家政婦、家庭教師・・

 せめて今日の算数はちゃんと教えないと・・そう思いながらキッチンに再び立つ。

 以前、島本さんは言っていた。

「遠野さん、どんなことがあっても『疲れ』をお嬢さまに悟られてはいけないのよ」

 私は島本さんの言いつけも守ることが出来なかった。

 悟られるどころか、倒れてそのまま寝てしまった。

 もう何の言い訳のしようもない。


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