第27話 香山邸
◇
「よくここがわかったね」
相手の男は香山という男だ。
「立ち話も何だから、家に入るかい?」
私は香山氏の自宅の応接室にいた。
昭和初期、東神戸の商業を発展させたいくつかの企業グループの一つ、香山グループの社長だ。そして、つい先日には私を青木という男の暴力から救ってくれた藤田氏の親友でもある。私は手土産を持ち町の高台にある香山氏の自宅を訪問した。あれから町の人に訊けばすぐにここがわかった。何とかお礼だけはしたかった。
「失礼とは思いましたけど、調べさせてもらいました」
香山氏が自宅にいると思われる時間も調べた。
香山氏は私から名刺を受け取ると「これは驚いたなあ・・あの長田ヒルトマンのところの・・」
事業家として香山氏がヒルトマンさまのことを知っていて当然だ。
いや、事業家でなくても誰でも知っているのかもしれない。
私の名刺には長田グループの人材関連の会社名と私の氏名が書かれている。
「遠野さんを助けたのは藤田の方だよ」
「藤田さんに先にお礼に伺おうとしたのですが、あいにくと不在でした」
お風呂屋さんにはいなかった。藤田さんの太い腕と緩んだ大きなお腹が頭に焼き付いている。
藤田氏はあそこの銭湯のご主人だった。あの時、銭湯の中に消えていったのはお風呂に入るためではなかった。事務所で話でもするためだったのだ。
「あいつはバイクでどこにでもふらふらと行くからなあ・・」
そんな感じの人だった。
「あの時は、本当にありがとうございました」
私は招き入れられた応接室で深々と頭を下げた。
「まあ、狭い所だが、かけなさい」
私は言われた通りにソファーに腰を掛けた。
「町にはいろんな人間がいるからね」
「ええ、今回のことで思い知らされました」
香山氏は大きな窓を背にして座っている。
大きな窓なので高台に建っていることもあり町の東側全体を見渡せる。
すぐ北側の阪急電車の線路が大阪に向って延びているのが見え、手前には市営の団地、すぐ下には古いアパートが見える。
香山氏が窓を背にしているのは来客にこの景色を見てもらいたいためなのだろうか?
「よくよく考えれば、長田の家に恩を売ってしまったかな?」
香山氏はそう冗談を言って笑った。
その冗談に返せないでいると「別にヒルトマン君の家に何かをしてもらおうとは思っていないよ」と香山氏は笑った。
ヒルトマン君?
「あの・・ご懇意にされていたのですか?」
「いや、それほどでもない。話したことは数少ない。彼は東京だったからね。僕は神戸だ。何度か商工関係の会議、あと、神戸で少し会ったくらいだ・・ただ・・」
「ただ?・・何ですか?」
香山氏は過去を振り返っているようにも見える。
「事業をしているとね。ほら、お互いに顔も広いだろう?・・色んな噂話でお互いに知るようになる。僕も彼のことを何かしら知っているし、彼も僕のことを知っていただろうね」
それはわかる。そして二人は一応ライバル同士でもあった。
「そして、噂話には自然と『尾ひれ』がつくようになる」
それも理解できる。話の間に色んな人が挟まれば話も変わってしまう。
ノックがして香山氏の奥さんらしい品の良い女性が入ってきたので少し話が途切れる。
「いつもお世話になります。家内です」と挨拶をしてホットコーヒーを目の前のテーブルの上に置き、クッキーを詰めたお皿を真ん中に置いて部屋を出た。
香山氏が「どうぞ」と言って私は、ミルクを入れずにコーヒーカップを手にした。
美味しかった。
「とても美味しいです」素直な感想を述べた。
「それはよかった。この家の出すコーヒーの味だよ」
私の感想を聞いて満足げに言った。
「でも銘柄はおそらく普通のブルーマウンテンですよね?」
「そうだが、家にはその家の出す味ってものがあるからね。コーヒーは難しいよ」
長田家の場合は島本さんの味。
来客に出すコーヒーなども島本さんの虎の巻を参考にしている。
豆の配合からお湯の温度、ドリップさせる時間、全て島本さんのやり方。
「ヒルトマン君にはたしか娘さんがいたよな?」
「はい、恭子さまです。あの、実は私は、その名刺の会社にいるのではなく、長田家に住まわせてもらってお嬢さまの家庭教師をしています」
香山氏は再び私の名刺に目を通し「ああ、そういうこと・・」と呟いた。
「ああ、何だか、言われて見ればそんな感じだ・・『先生』という感じがピッタリだな」
前にも誰かに言われた気がしたけれど最近ではその言葉を聞くと少し嬉しくなる。
「ということは住み込みの家政婦さんってところなのかな?」
「はい」私は頷いた。
「娘さんの家庭教師、大変かい?」
「いえ、よくできたお嬢さまなので・・」
学校の勉強や自主勉強で大変だと感じたことはない。恭子さまは物覚えもよく学校での成績もいい。
「うちの娘・・『ひとみ』っていうんだがね、同い年らしいな」
「そのようですね」
手土産のこともあったので事前に調べてきた。
「うちの娘は学校ではお転婆みたいだけどね・・ええっと・・名前は何て言ったっけ?」
「恭子さまです」
「ああ・・そうそう、恭子さんは大人しいお嬢さんらしいね」
「少し大人しすぎるかもしれませんわ・・」
恭子さまの持ち前のものなのか、環境がそうさせたのかは私にはわからない。
「女の子は大人しい方がいいんじゃないかな?」
香山氏の言う「大人しい」というのは古い考えのような気もする。
私が幼い頃、父が言っていた「女の子は大人しくなければいかん!」という響きとどこか似ている。
「遠野さんは、何年になるのかな?」
「何年?」
「ヒルトマン君の家に勤めだしてからだよ」
「はい、もうすぐ三年になります」
恭子さまが小学二年生にあがると同時に私は長田家で働き始めた。
今は恭子さまは小学四年生の秋を迎えている。
「ということは、ヒルトマン君の前の奥さんには会ったことはないのだね?」
「ええ、お会いしたことは一度もありません」
香山氏は私の返事を待っていたかのように表情を一変させた。
「世の中には変わらない話もある・・」
突然、話を変えた。
「えっ?」
「さっきの話の続きだよ・・ほら、さっき、人の噂話には『尾ひれ』がつくって言っただろう」
ヒルトマンさまと香山氏のお互いの噂話のことだ。話が途中になっていた。
「尾ひれがつこうがつくまいが、世の中には、間違いのない真実がある」
「話がよく見えません。どういうことですか?」
「僕はヒルトマン君の前の奥さんはよく知っているよ。彼女は生まれた時からこの町にいるからね。あの家とは事業関係でも懇意にしている」
ヒルトマンさまの前の妻、由希子さま、恭子さまの実の母親。
ヒルトマンさまは京都のご旅行で由希子さまに出会って結婚した。由希子さまは神戸生まれの神戸育ち。
由希子さまのことを香山氏の口から聞くことになるとは思わなかった。
よく考えればそれは不思議でも何でもない。
香山氏も同じく神戸生まれの神戸育ち、神戸で先代の事業を継承し成功した人だからだ。
そして、今の奥さまのことも知っているはずだ。
「今日、ここに来ることは、長田の家の主人、多香子さんには言って来ているのかい?」
香山氏は奥さまの名前も知っている。
「いえ、これは個人的なことですから」
「多香子さんは家にほとんど帰って来ないのだろう?」
やはり、よく知っている。
「はい」
長田家の内情は他人には語りたくないが、この質問だけは私は頷かざるをえなかった。
「そうだろうね・・仕方ないのかもしれない・・」
そう言うと香山氏は話を始めた。
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