第12話 ヒルトマン氏②
「遠野さんなら、あの心理テストがどういう意味か、今だったらもうわかるよね?」
「ええ、何となくですけど・・」
私にも恭子さまにも何か欠けているものがある。
もしそうだとしたら、それはどうしようもないことなの?
「おそらく君の周りの世界は寂しい。だから実がない。けれど葉っぱは付いていた。本当に孤独な人には葉っぱすらないんだよ」
私の周り・・そうなの?私にはわからない。
「あくまでもテストの上のことだがね。根拠などどこにもない」
そんなもので人の心が推し量られるはずがない。
「そうですよね、そんなテストで人の心がわかるはずがありませんわ」
それでわかるっていうのなら、学生時代にアルバイトの家庭教師をしていた時だって・・
「けれど、あんなテストとは関係なく、人の心なんて、誰にもわからないだろう?」
私は家庭教師の生徒である女子高生のことを少しでもわかっていたのだろうか?
「あ、あの・・面接を受けた他の人の絵はどうだったのでしょう?」
実を描かなかったのは私だけだったの?
「一人は心理テストを受けさせる気もなかった。マナーが出来てなかったからね。もう一人の絵の木には実がわんさと付いていたよ」
ヒルトマン氏は両手を使ったジェスチャーで木にたくさん実がついているのを表現した。ジェスチャーと「わんさ」という言葉が少し可笑しかった。
「最初はその人がいいとも思った。その人が家政婦になれば、恭子の心に実が成るんじゃないかってね。父親なりに勝手に思っていた。けれど、面接の時、恭子が最後まで口を開かなかった・・」
面接の時に聞いた話だった。恭子さまが私に問いかけたから私に決まった、と。
「君と恭子の木にはこれから実がなるのかもしれないな」
恭子さまと同じ青い瞳の端整な顔が微笑む。
「でも、やはり、恭子さまと私は似ておりませんわ」
私と恭子さまが同じなどいうことは絶対にない。
「恭子さまは、これから色んな経験を積んでどんどん成長なさいます」
私はそうではない・・これからも変わることはない。
「遠野さんは何か誤解しているようだな」
「誤解・・私が?」
わからない。
「君は自分が『恭子の傍についている』と思っているんだろう?」
彼が真顔で私の目を見る。逸らすことができない。
その目の力を見ているとヒルトマン氏が事業をこれほどまでに大きく展開することができたのかその理由がわかる気がした。
「ええ、それは・・恭子さまのおそばについているのは私の仕事ですから」
違うの?
「それは仕事の上でのことだ・・心とは違う・・」
そう言うと彼は庭を眺められ私の方に向き直った。
「『恭子が君の傍についている』・・そう思ったことはないかい?」
恭子さまが私のそばに・・
「人って、意外と年齢や地位なんて関係ないところで支えあっていると思うけどね」
そこまで言うとヒルトマン氏は紅茶を飲み干した。
「だから君も恭子と同じようにこれからも成長する」
ヒルトマン氏はそう話を締めくくったようだ。少し疲れているように見える。
「お替りはよろしいですか?」と訊ねると「いや、いい」と言った。
「遠野さんとこんなに長く話したのは初めてだな」
「ええ、そうだと思います」
「今度話す時は君の分の紅茶も用意しておくんだぞ」
ヒルトマン氏は深い咳を繰り返した後、お部屋にお戻りになられた。
その日から何度かヒルトマン氏とお庭で話すことがあった。
話しかけてくるのはいつも彼の方からだ。
私はヒルトマン氏と話すことが次第に楽しみになっていた。
いつも同じ丸テーブルに向かい合って座る。決まって天気のいい日だ。
いつものように二人分のダージリンを用意する。
「君にはいつまでもここにいて欲しい、とさえ思っている。まあ、君の方にも色々事情があるだろうけど・・」
この前よりもまたお痩せになられたようだ。
「今のところ、私は辞めるつもりはありません」
最近、そう思うようになってきている。
人に仕える身だけれど、この場所は私にとって居心地がいい。
「それを聞いて少し安心した」ヒルトマン氏は心底安心したかのような表情になる。
しかし、私がいつまでも、といっても彼の体はそうではない。
私にとってはいつもと変わらない日でも、ヒルトマン氏にとっては違う。
咳はどんどん酷くなっているし、あれから二度も病院に運ばれた。恭子さまの不安な表情が消えることはない。
「死ぬ前に不安材料を残しておくのは、やっぱりイヤでね」
「死ぬ前」というのは彼の最近の口癖だ。
けれど「不安材料を残さない」というその言葉通りヒルトマン氏は自宅にいる時も弟のグストフ氏や役員と連絡をとり合い事業関係を滞りなく進めている。
ヒルトマン氏は胸のポケットから煙草とライターを取り出した。
「あ、あの、お煙草は・・」
慌てて私は煙草に火を点けようとするヒルトマン氏を制した。
「そうだった。医者に止められているんだったな」
ヒルトマン氏は笑いながら煙草を箱にしまい込んだ。
「でも、お煙草とライターを持っておられるんですね」
時々吸っておられるのかしら?けれどお部屋の掃除をしていても煙草の匂いはしない。
ヒルトマン氏は煙草の箱を持って「これかい?」と言った。
「これは僕の元気が出るおまじないみたいなものだよ。運命に逆らってやるっ・・ってね」
言っているセリフは元気があるように聞こえるが実際はそうではないことは知っている。
「それにしても今日はいい天気だな・・」
彼は空を見上げた。そこには太陽がある。
彼は眩しい太陽を防ぐように右手を伸ばして手のひらを大きくひろげた。
「こうやって手のひらを太陽にかざすとね。太陽の栄養分が手のひらを介して体の中に入ってくるらしいんだ」
「手のひらからですか?他の部分ではないのですね・・」
「考えてみれば、手のひら以外にそんな所は体のどこにもない気がするね。まさか、顔から栄養を吸収するわけはないだろう」
想像すると少し可笑しかった。
「これは島本が言っていたんだよ」
ヒルトマン氏は懐かしい顔を思い浮かべているようだ。
「島本さんが?」
島本さんはお仕事が出来る上に博学だったのかしら?
「島本が言うには、栄養以外にも太陽からいろんないいものが入ってくるらしいよ」
「いいものって、どんなものですか?」
「いいものだよ。その人にとって・・僕の場合は健康だけど、他の人だったら、そうだな・・幸運とか・・誰かの愛情とか・・」
ヒルトマン氏はそこまで言うとその話を切りたいように見えた。
「僕はね、この家とほぼ同じ洋館を神戸に建てようと思っているんだよ」
ヒルトマン氏は私の方ではなく庭の方を眺めながら言った。
建物だけではなくお庭も同じものを作る気だわ。
「その家の庭にね、桜の木をたくさん植えようと思っている」
「桜・・ですか?」
彼の目には桜の木、それも満開の桜が映っているのだろうか?
「何か神戸・・そして、桜に思い入れがあるのでしょうか?」
「由希子・・前の妻と初めて出会ったのは京都だったが、由希子は神戸生まれの神戸育ちだった」
それは初耳だった。
「事業もこれから神戸が拠点・・主流になっていくしね。僕の骨が埋められるのが神戸なら、もうそれで言うことはない・・そう思っている」
ヒルトマン氏はそんなことまで考えていたのか。
「結婚する前、由希子の実家に挨拶に行った時、神戸の小さな川沿いに見事な桜が咲いていたんだ。僕はその時の桜の美しさが今でも忘れられないんだよ」
ヒルトマン氏は昔を懐かしむような表情を見せた。
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