第11話 ヒルトマン氏①


 私の雇い主である長田ヒルトマン氏とゆっくりと話す機会もあった。

 あれはまだ長田氏の東京の家にいた頃だった。恭子さまが小学三年生に上がられたばかりの春の日のこと。


「遠野さんは神戸には行ったことがあるのかい?」

 ヒルトマン氏が庭で私を見つけて声をかけてきた。いつもの普段着姿だ。その格好でよくベランダで寝ていることもある。

 私は芝生の噴水の水流の調整をしているところだった。

 ヒルトマン氏は最近では自宅で養生することが多くなった。

 三日に一度はお医者さんが来て月に一度は病院で検査を受けている。面接の時よりも少しお痩せになっている。近頃はおかしな咳を何度もすることが多くなった。

 けれどこんな天気のいい日にはヒルトマン氏はお庭をよく散歩する。

「一度もありません。けれど私、すごく楽しみにしているんです」

 神戸のポートタワーの一番上まで昇ってみたい。

「それはよかった。面接の時はこの家が神戸に移ることにOKをもらっていたが、やはり少し心配だった」

 彼はそう言いながら噴水の近くの丸テーブルの椅子に腰を掛けた。

「前にも何度か訊かれておられましたわ」私はそう言って微笑んだ。

 最初は面接の時、二度目は採用されることになって私の部屋があてがわれた時。

 三度目は恭子さまが私のことを「静子さん」といつも呼ぶようになった時。

 四度目はヒルトマン氏がご病気で最初に倒れられた時。

「そうだったかな・・」

 ヒルトマン氏はそう呟き記憶を辿っている。

「そうだな、あれから結構な時間が経っていたんだな」

 私も同感する。

「恭子もすっかり君になつくようになった」

 そう言うとヒルトマン氏は大きく深い咳を一つした。

「島本さんほどではありませんわ」

 私の前のお手伝いさんの島本さんには恭子さまはもっとなつかれていたと思う。

 島本さんから引継ぎを受けていた時、恭子さまは島本さんの後をずっと追いかけていた。

「はっはっ」大きな声でヒルトマン氏は笑った。

「やっぱりそう思っていたか」

「ええ」私はしっかりと頷いた。

「たぶん、僕が思うには、島本は恭子の母親の代役だったんだよ」

「代役?」

「子供には絶対に母親という存在が必要だ。母親がいなければ、祖母や幼稚園の先生かもしれない。恭子には島本がそういう存在だった」

 それは彼の言うとおりだ。

 島本さんは上手に母親役に徹していたと思う。

 それでは私が母親のような存在にならなければならない、ということ?

 私の心を見透かしたように彼は言葉を続けた。

「君は恭子の母親ではない・・君はあの子の母親にはなれないよ」

 そう思っていても直接言われるといい気持ちはしない。

「君はこの家に来て、恭子と同じスタートラインに立った・・僕はそう思っている」

 恭子さまと同じ出発点?

「あ、あの、私、そんなに出来が悪いでしょうか?」

 小学生の女の子と同じだと言われた気がした。

「僕の言い方が悪かったかな?」

 ヒルトマン氏は申し訳なさそうな表情をする。

「そういうわけでは・・」

 少し気まずい空気が流れる。

「あ、あの、お紅茶、お持ちしましょうか?」

 そう言うタイミングを見計らっていた。

「ああ、そうだな、お願いするよ」

 私はすぐさま屋敷の中に戻りティーワゴンを庭に持ち出しティーポットの紅茶をカップに淹れた。

 ヒルトマン氏は少し啜ったあと「いつものダージリンだな・・」と呟きカップをテーブルに戻した。「遠野さんも座ったらどうだ。少し君と話がしたい」と言われたので私は椅子を引きテーブルから少し離れた位置で浅く腰を掛け両手を膝に揃えて置く。

 さっきは私が恭子さまと同じスタートラインに立ったというところで話が止まっていた。


「僕はね、恭子の傍にいる人は、そういう人を望んでいた」

「そういう人?」

 ヒルトマン氏は私の疑問に深く頷くと言葉を続けた。

「娘と君は似ているのかもしれない・・」

 私と恭子さまが?

「最終面接の日、心理テストをしただろう。憶えているかな?」

 ああ、あの画用紙に木を書いたテストのこと?

 私は木に実を付けることを忘れていた。思いつきもしなかった。

 やはりあれは心理テストだった。あれはどういう意味だったのか、誰かに訊こうと思っていた。

「実はね、娘が描いた木の絵にも実がついていなかったんだ」

 恭子さまも?私と同じ・・

「娘にテストをさせたのではないよ。あの子が幼稚園で描いていた色んな絵の中にあった絵だ。ほら、よくあるだろう、子供の絵、お母さんの絵とか」

「ええ、小さなお子さんは絵をクレヨンで描かされたり、描いたりしますね」

「最初、あの子が家で描いている時は何にも思わなかった。何か一生懸命描いているな、とそれぐらいにしか思わなかった。けれど、僕は見たんだよ。あの子の通う幼稚園に一度行った時にね。僕が由希子と別れる前だ、島本にしつこく言われて幼稚園に行った。『旦那さま、あれだけは見てください』って何度も言うんだよ。今、思えば僕より島本の方がずっと恭子のことを気にかけていた」

 恭子さまの幼稚園をヒルトマン氏は訪れたこともあったのか。今では考えられない。

「教室の後ろの壁にずらっと生徒が描いた絵が全員の分、貼られてあった」

「親御さんに絵を見てもらうためですよね」

「恭子が描いていたのは家とその周りにある木だ。みんな『家』という題目で描かされたんだろうね。他の子の絵にも木があって、木には見事に実、あるいは不自然な花が咲いていた。実が生っていなくても子供は想像で描いたりする。けれど恭子の描いた木には葉はあったが実も花もなかった」

 話を聞くうちに胸がドキドキした。彼の口から次に出る言葉が推測がついたからだ。

「恭子さまは想像でも実を描かなかったのですね」

「それどころか、家の中に家族がいなかった・・」

 ヒルトマン氏はそこで苦笑いを浮かべた。

「他の子の描く絵には一軒家や団地だろうが、家の中で子供が両親と手を繋いだりしていた。実際にはそんなことはしていなくても子供は描いたりするものなんだ。だが娘の家の中には誰もいなかった。恭子自身さえいなかった」

 恭子さまは家の中に自分もいない、と思っていたのだろうか?

「家と実のない木しかなかったんですね」

 幼稚園に通っていた頃はヒルトマン氏が離婚する少し前だ。恭子さまは幼いながらも何かを感じ取っていたと思う。

「私がもっとショックを感じたのは、絵の中に描かれた家だよ」

「この邸宅ではなかったのですか?」

 私の問いにヒルトマン氏は首を振った。

「恭子の描いた家はこの家ではなかった。恭子が描いていたのはどこにでもありそうな小さな家だった」

 ヒルトマン氏は空を見上げる。

「この家は僕にとっても、あの子にとっても何だったんだろうね」

 恭子さまはこの大きな邸宅も望みではなかった。

 それにそんな小さな家にさえ誰もいない。

 彼の人生は一体何を目指していたのだろうか?

 今、ここにある結果より、ヒルトマン氏はそんな小さな家で家族仲良く過ごすことも選べたのではないだろうか?

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