第10話 仕事始め
◇
その言葉どおり、私は大学を卒業するまでに自動車教習所に通って普通自動車の免許をとった。だが、教習用の自動車と違って長田家にある車は全て大きく見たこともないようなドイツ製の高級車だった。
専用の大きなガレージに六台も並べられている。車のそれぞれの用途も島本さんに教えられた。
ヒルトマン氏の専用自家用車二台に、恭子さまの送迎用、来賓用、奥さまの専用車。多目的の車一台。
初心者マーク付きの私はまず最初その多目的の車で練習した。多目的とはいえ小さな家が一軒買えるくらいの値段がするらしい。
なかなか運転の感覚が掴めなくて色んな所にぶつけそうになって何度肝を冷やしたことか。島本さんは慣れているらしくスリッパ穿きですいすいと運転している。
「運転、怖くないのですか?」と訊くと島本さんは「車が体の一部だと思えばいいのよ」と軽く答えた。
私は邸宅の一階の奥に部屋を頂いた。
高校を卒業するまでの自宅の小さな部屋、大学の四畳半の下宿部屋に続いて三番目の私の部屋だった。
三番目の部屋がまさかこんな豪華な屋敷の中になるとは夢にも思わなかった。
クローゼットに同じ黒色の替えのスーツを並べた。普段着の数よりもスーツの方が多い。学生時代では考えられない。
布団を敷いて寝る習慣が長くついていた私もベットで寝ることにすぐに慣れた。
半年かけて島本さんから引継ぎを受けた。
邸宅の構造、庭を理解し、全ての部屋の鍵、門の開け閉めの仕方、警備会社とのやり取り。一つ一つの部屋の目的、その使い方や掃除の要領も覚えるのに大変だった。
毎日のように来るクリーニング店とのやり取り、仕上がったもののチェックの仕方。
廊下やトイレ掃除、数多い窓の拭き方のコツまで。窓は専用のワイパーで汚れの筋一つ残さず丁寧に拭き上げる。
消耗品であるはずのワイパーのゴムの値段がすごく高いのには驚かされた。
高い位置の窓、高い天井からぶら下がっているシャンデリアなどの定期的な清掃などは業者がすると聞いてホッとした。
臨時雇用のコックへの指示のコツ、コックはあくまでも臨時雇いなので長田家が初めてという人もいたりするから、この家の専用の味付けマニュアルも私がしっかりと理解して指示しなければならない。
一ヶ月の食事の献立表は私が作る。
島本さんが献立表を作成するための溜め込んだ分厚いノートがある。
これが私の虎の巻だ。
そこに書かれた文字の一句一句に島本さんの長田家に対する愛情が感じられる。
辞めていく島本さんを見ていると、こんな私でよいのだろうか、と思う。
私のことをヒルトマン氏や恭子さまはどう思っているのかしら?
島本さんに「どうしてここを辞めるのですか?」と訊ねると「私はここを卒業なのよ」と答えた。
よく話を聞けば大阪の長田家よりも大きな家のお手伝いに引き抜かれたそうだ。
島本さんは私の想像する以上に優秀な家政婦だったのだ。
感心している場合ではなかった。そんな余裕もない。私には覚えなければならない事が山ほどある。
お庭の日常の手入れと庭師やガーデニング関係の業者の手配の仕方。
長田家の事業以外のお金の管理もしなければならない。町の銀行には三日に一度は行く。
ご近所の人とのつき合いも大事だったし、長田グループの会社や工場、お店に携わる人の顔はもちろんその人の名前や役職も覚えなければならなかった。
覚えなければならないのは名前程度ではない。その人の人格、資格、将来性、危険度まで知っておかなければならない。
人によっては犯罪、お金の使い込みなども可能性としてはあるからだ。
それは会社の人事部か何かの仕事ではないのか?と島本さんに疑問をぶつけてみたが「会社と私たちは全く異なる」ということだった。島本さんは続けて「家政婦はどんなことがあっても長田家の家族の側に立つが、会社、社員は長田家の側に立つとは限らない」と言った。
だから場合によっては人を調査したりするのも仕事の一つだ。
調査は専門の業者がいたが、誰を調査するのかを指示するのは私の仕事になる。
時々、笑顔で工場に行くことがあるが、そういう別の目で人を見なければならない。
これにはさすがに私の心は折れそうになった。
面接の時には「自分の能力を試したい」とか偉そうなことを言ったがここまでのことは予想していなかった。たしか募集要項にも書いていなかった。
それにしても島本さんという人はすごい!
これらの役目を全部こなしていた島本さんには私は感服せざるをえない。
他にもヒルトマン氏の服用する薬の種類と数、副作用の内容、もちろん専門の病院、お医者さんも覚えた。食事の献立はヒルトマン氏が一番に気を使う。医者から止められているものは全てヒルトマン氏のみ省く。ヒルトマン氏が食べたいと言ってもそれだけは譲らずに丁寧に断る。
二、三ヶ月経った頃、島本さんに「遠野さんはのみ込みが早くて助かるわ」と言われた時は嬉しかった。
家政婦としての仕事をこなせるようになると、恭子さまの家庭教師の方も要領を覚える。
学校の宿題のアドバイスや自主勉強の指導をする。
情けないことだがマナーなどは私が教えなくても恭子さまの方がよく知っていた。
恭子さまのお習い事は珠算にお花、そしてピアノのレッスンには専門の講師が毎週二回来る。ピアノの先生が言うには、もうそろそろピアノコンクールに出てもいいくらいに上達したらしい。
その日が来るのがとても楽しみだ。
朝は恭子さまを大きな車で小学校までお送りし決まった時間にお迎えにあがる。
私の車の運転が不安なのだろうか、運転中は一言もおしゃべりにならない。
「お嬢さま、今日はいい天気ですね」と声をかけてもランドセルをかたく抱えたまま何も応えない。学校に着くと車を降りる際に恭子さまは大きな息を吐いた。
よほど怖かったと見える。
しかし、島本さんの言葉通り、半年後には車が体の一部に思えるようになり、その頃には恭子さまは私のことを「静子さん」と呼んでくれるようになった。私は「恭子さま」と呼ぶことにした。
少しは私の車の運転に安心して乗ってもらえるようになっただろうか?
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