第5話 静子の回想①
◇
鈴木さんはもう先に来て私を待っていた。
彼はいつもの珈琲専門の喫茶店の窓際の席で煙草を吹かしながらコーヒーを飲んでいるところだった。
「鈴木さん、ごめんなさい、遅れて・・」
私がそう言って席につくと鈴木さんは吸いかけの煙草を灰皿で揉み消した。
私より先に就職の決まっていた彼はそれまで長く伸ばしていた髪をばっさりと切り今は七三にきれいに分けている。よれよれのジーパンはいつも通りだ。
長い時間待っていたのは煙草の吸殻の本数を見ればわかる。
「いや、そんなに待ってない」
私は面接の為に買った黒のスーツを着ている。彼の前でスーツを着るなんて初めてのことだ。
けれど彼は私の服を見ていない。少しは見て欲しい。
ウエイトレスが注文を訊きに来ると私は彼と同じ銘柄のコーヒーを頼んだ。別に違う銘柄にしてもかまわないのだけど一緒にしないと落ち着かない。
いや、たぶん落ち着かないのは彼の方だ。
「それで仕事は決まったのか?」
彼は少し疲れているように見える。
「ええ・・」
すごく長い時間の最終面接だった。
「前に言ってた・・その、何と言う名前だったかな・・そうそう・・『長田』だ・・その長田という家に決まったんだな?」
灰皿には吸い終わった後の煙草が何本も連ねて丁寧に並べられている。長さが全部同じだ。彼は几帳面な性格だ。
私も同じように昔から几帳面だったから「お互い気が合うな」と彼が言って交際が始まったのは一年ほど前になる。交際といってもお互いにまだ学生だったから、休みの日に映画に行ったり食事をしたりする程度だった。
今日は彼とつき合い始めてようやく一年を迎えようとしている日だった。
お互いに大学の単位を落とすことなく卒業できることになり就職も決まっているはずだったが、就職が決まっていたのは彼の方だけだった。
「鈴木さん、気にいらないのですか?」
すごく不機嫌そうな顔をしている。けれどそれは今に始まったことではない。
「だって『住み込み』っていうじゃないか」彼の口調が少し荒くなる。
彼が大きく息を吐くと灰皿の煙草の灰が舞って私の黒のスーツの上に舞い降りてくる。
手で払い除けるとよけいに汚れる。
そう思っているとまた彼が大きな溜息をついた。私は彼の息がかからないように灰皿の位置を変えた。
彼は私のとった行動の意味がわかったように少し厭な表情を見せる。
それもそのはずだ。
そう・・私が仕事の最終面接を受けて合格が決まったところは会社などでなく個人の家だ。
ドイツの事業家、長田ヒルトマンの家の家政婦兼家庭教師の仕事だ。
会社や公務員でもなくただの事務職でもない。彼も、私の両親も望んでなどいない就職先だった。
両親や彼なら長田グループの会社の一つにでも入ればいいと言うだろう。
雇用の条件はまず語学力があること。特に英語とドイツ語は完璧であること。
教員免許を絶対に持っていること。自動車の免許は必須。そして小学校教育から大学院までの課程の教育が全てできること。
ある程度のスポーツもできないといけない。
その家にはまだ小学校低学年の一人娘さんがいるからだ。
その娘さんに毎日つきっきりで教育を叩き込み大企業の事業を継承することができるくらいの教養を身につけさせる。
それが私の依頼された仕事の一つだ。
最初は自信があったけれど面接を受ければ私の想像を超えて奥が深いものだとわかった。
教育はどこに出しても恥ずかしくないマナー、作法、身のこなし方などを娘さんに身につけさせること。
他にも文学の素養、西洋の古典文学から日本のものまでを徐々に読ませ理解させること。
私は教育の基本を娘さんに付きっきり、しかも住み込みで教えなければならない。
家政婦として当然ながら料理などの家事全般は出来なければならない。
普通の家庭料理とは別に外賓用の料理専門のコックも別にいると聞いた。
お茶やお花、ピアノのレッスンなど特殊な習い事は専門の教師を別に雇っているということだ。
一次面接に来ていたのは二〇人以上はいたと思う。
そのほとんどが高学歴の女の人、しかも教員の免許、英検の一級の資格を持っている。
この仕事が安定した仕事だとはとても思えない。
この家の何かの事情で首を切られるかもしれない。けれどお給料は大企業並みにある。
大企業のように終身雇用などとは縁遠いかもしれないが、私はそんな先のことまで考えていない。
この仕事を選んだ理由は私の性格にもある。
私は小さい頃から大勢の人の中にいるのが嫌いだった。
だから大企業なんてもってのほかだった。もし大企業に就職したら、その会社のビルの地下室で一人きりで書類整理をしたい、と名乗りでるつもりだった。
けれどそんな仕事なんてあるはずがない。
コーヒーカップが目の前に置かれる。
「でも、デートくらいならできます。週に一回、休みがとれますから」
私の言葉はなぜか敬語だ。
何度彼に注意されてもすぐに敬語に戻ってしまう。最近では彼もそれについては何も言わなくなってしまった。
「『デートくらいなら』・・か・・」彼はそう呟くと静かな溜息をついた。
彼は窓の外を見た後、煙草の箱から新しい煙草を取り出し火を点けた。
「君のそういうところがイヤなんだよ」
そう言うと煙草の煙を勢いよく吐き出した。
イヤ・・
そんな直接的な言葉を彼から聞くのは初めてだった。
「君は真面目過ぎるんだ。いつも僕の言う冗談を真に受けて、変なことを言ったりする」
いったい、いつの話をしているの?
「君は面白くないんだよ」
彼は日頃思っていることをぶちまけるように言葉を続けた。
「真面目過ぎる」・・「面白くない」・・
私は心の中でその言葉を何度も反芻した。
「几帳面」とはまた違う言葉。
「会うのは今日で最後にしよう」
まだそんなに吸っていない煙草を灰皿で揉み消した。まだ長く他の煙草の長さと不揃いだった。
会うのは最後・・ああ、私たち、もう会わないっていうことなのね。
「もう前から決めてたんだ」
そうなの・・前から決めてたの?そんなの私は知らなかった。
こんな時、私はどんなことを言えばいいのかしら?
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