第6話 静子の回想②
私はコーヒーカップにミルクを注ぎスプーンでクルクルと混ぜる。
「そ、そうですか・・」やっと出てきた私の言葉がそれだ。
前から「会わない」っていうことは彼が決めていた・・私が決めたのではない。
「会わない」という言葉より彼の「決めた」っていう言葉が私の耳に残った。
私も何かを決めたい・・
その時、なぜかこの場にそぐわないことを私は考えていた。
「それでいいよな?」
彼の問いにいつまでも返事をしないでいると、彼はまた大きく息を吐いて勘定書を手にして立ち上がりレジに向った。
「あ、あの・・」そこまで言い私の声は止まった。
彼に何も言えなかった。
私は真っ直ぐに前を見て誰もいない席を見ているだけだ。追いかけもしなかった。
誰かを追いかけたことなんて今までなかったし、どう声をかければいいのかもわからない。そんなこと、誰も教えてくれなかった。
TVドラマでよく見るように「待って!」とか「これっきり会わないなんてイヤよ」とか言えばいいのだろうか?
けれど私は彼の「会わない」という言葉に従うのが一番正しいことだと思った。
逆らって何かを言うのはよくないことのように思える。
目の前に彼という存在がなくなると彼と別れたことを改めて実感した。
テーブルの上には彼が飲み干したコーヒーのカップと何本もの吸殻ののった灰皿だけが残った。灰が散らばっているのもわかる。
彼の忘れ物はないだろうか?
私は立ち上がって彼が座っていた向いの椅子の上も改めて見た。
几帳面なのによく忘れ物をする人だった。しかし何度見ても忘れ物はなかった。
当たり前だ。もうこれから会わないつもりで去って言ったのだから忘れ物なんてみっともないことをするわけがない。
忘れ物があれば追いかける理由にもなるのでは?と少し思ったけれど、忘れ物がないことに何故かホッとしている自分を見つける。
これでもう彼を追いかけなくていい。
まさか今日、こんな話を持ち出されるとは予想していなかった。
さっき彼が言ったセリフ「僕の言う冗談をよく真に受けて」を思い出した。
これも何かの冗談かもしれない・・普通ならそう思うところだ。
けど私はそうは思わなかった。
やはり彼の言う通り真に受けた。
私の人生はいつもそうだったからだ。
本当に私は真面目過ぎる・・
昔からそうだ。
高校の受験勉強のときもクラスメイトが「6つの科目が合格ラインに達していても他の教科の体育や音楽の成績が悪いと落ちちゃうらしいよ」と真顔で言っていたので私はその言葉を信じた。私は国語、英語、数学他の科目、全ての偏差値が高かった。それまで音楽や体育、美術等は無視していた。
そんな時に言われた言葉にショックを受け、絵画の勉強をしたり、譜面の読み方も改めて学習しだした。その分、メインの科目の勉強がおろそかになったのは言うまでもない。
中学三年生の秋に、他の成績が少々悪くてもメインの科目が良ければ補われることを知った。
クラスメイトは別に悪気があって私に言ったわけではない。彼女自身の情報が間違っていただけで、私が真に受けたのが悪いのだ。よく調べればすぐにわかることだった。
結果的に第一志望の高校は落ちた。
そして私が敬語を使うのにもちゃんと原因がある。
私の家は厳格な家だった。「父権」が絶対なのだ。しかもそれは先祖代々続いている。
父権、イコール、男の人は尊敬すべきものだと、私が小さかった頃から父母に教えられてきた。父より先にご飯のお箸に手をつけてはいけない。先にお風呂に入ることなど絶対に許されない。先にしていいのは先に寝ることだけだ。
父親に対して馴れ馴れしい言葉を使うことは許されない。母や祖母から正しい敬語を学ばされた。
だから私はいつまでたってもつき合っている彼に対して敬語を使っていたし、不自然だと指摘されても直らなかった。
男女平等が大々的に言われる世の中になったけれど、父母に幼い頃から言われ続けた言葉が頭の中に焼きついていて離れることはなかった。
子供の時の記憶は離れることはなく私の人生についてくる。
言葉使いのせいばかりではないと思うけど私は男の人とはつき合えない気がする。
男性ばかりではない。同姓の友達もいつまでもできなかった。
そんなことを考えながら私はまだ喫茶店の中にいた。
彼がご馳走してくれた最後のコーヒーを名残惜しそうにいつまでも啜っていた。
一人で喫茶店で一時間も過ごすなんて初めてのことだ。
コーヒーはすっかり冷え切っている。私はコーヒーのお替りを頼んだ。二度目のコーヒーの苦味は一度目より薄く感じる。
私の味覚がコーヒーはもう要らない、と言っているのだろうか?
彼に「会わない」と言われなくてもいずれそうなることは何となくわかっていた。
異性と別れることになって普通なら泣くか、落ち込むところだけれど、私の心はそうでもない。
私の心の中はまるで山の中の湖のように信じられないくらい静かだった。
たぶんそれは今日受けた最終面接のせいだろう。
不思議な家だった。
あまり運命などは信じない方だけれど、それに近いものを感じた。
そして勤務先になる長田家は近い将来関西方面に引っ越すということだ。
私は確実に関西に行くことになる。それは神戸だという話だ。
彼と週に一回のデートどころではないし、遠距離恋愛なんて柄でもない。
私は今日、長田家に採用され春から働くことが決まった。
私の頭を一人の少女の姿が過ぎった。
私の心は徐々に去っていった彼のことよりも働き先の方に心が移っていた。
今度は私が何かを決める番だ。
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