第36話 姉妹の力③

「悠子っ、大丈夫か、怪我してへんかっ?」私は玄関の散乱した様子を見て訊いた。

「仁美ちゃん、うち、大丈夫や」

 嘘なのはすぐにわかった。膝が切れているのだろうか、血が流れ出している。

「ちょうど、あんたの家に行こうと思ってたところや、しかしなあ、あんたじゃなくて、親父の方に用事があるんや」そう言って男は玄関に出て靴を履きだした。

「待ってっ」悠子が叫んだ。

 悠子が男の胴を後ろから両手で抱き掴んだ。おそらく悠子はこんな男の体に触れたくないだろう。それが痛いほどよくわかる。

「行かせへん、絶対、行かせへん」悠子は言い続けた。

「うっとおしい奴や、離さんか!」男は悠子の手を掴み振り解こうとする。

「私も父の家に行かせませんから」

 私は両手を広げてドアの端を持ち男の行く手を阻んだ。

「ただのガキが・・」

 男が力を込め悠子の手を振り解くと私の方に向かってきた。

「どかんかいっ!」

 子供の力は非力だ。私は男にドンと押され後ろにひっくり返った。

「お姉ちゃん!」悠子の声がした。

 悠子、それは言うたらあかんて約束したやん。

 悠子が男をどんと押しのけ私の方に駆け寄ってきたのがわかった。

「お姉ちゃん、大丈夫っ?」

「大丈夫や」私は返事をしながら体を起すと、男が悠子に体当たりされたのか、玄関先で倒れていた。

 男はよろよろと起き上がると「おまえら、ええかげんに」と言ったあと、もうひとつ「ええかげんに」と言う大きな声が聞こえた。

 それは「ええかげんに出て行ってくれへんか」と続けて言う悠子のお母さんの声だった。

「おまえ、ど、どういうつもりや」男は少し慌てているようだ。

「敏男も連れて、一緒に出て行ってくれ。あんたらがおると、ろくなことあらへん」

 悠子のお母さんはシュミーズ一枚で腕を組んで立っている。

「なんや今まで、俺がおらんと生きていかれへん言うて、散々・・」

 私にはわからない男女のいざこざ、ってあるのだろうか。

「出て行ってくれ、もううんざりや」

 男にとって悠子のお母さんの言葉は全くの予想外だったみたいだ。

「金がないと、せ、生活ができん」

 何だか情けない声・・男ってこういうものなの?

「そうや、ここを出て行って香山の親父からぶんどったる」男が私の方を見た。

「そんなこと、私が絶対させへん」

 悠子のお母さんは悠子と私の前に立って道を塞いだ。

 なんか全然違う。私の悠子のお母さんに抱いていたイメージと全然違う。

 その時、後で声がした。

「キシダくん、もうそのへんにしときや」

「兄さん・・」悠子のお母さんが言った。

 藤田のおじさんだった。この人はいつもアパートの前を通る時は何かないか耳をそばだてているらしい。私と同じような人がもう一人いる。

「キシダくん、香山の家を脅すんもええけど、その後、どうなっても知らんで。あんたも大人やったら、それぐらいわかるやろ」

 私にはわからない。お父さんって、そんなにすごい人なの?

「俺を脅かしてるつもりか・・」

 男は言い返しているつもりなのだろうけど、なんか変。

「脅かしてるんはあんたやないか。こんな、いたいけな女の子、二人も床に転がして」

 藤田さんは私を見た後、再び男に視線を戻して睨みつけた。

「妹の相手やと思うから、今まで大目に見とったけど、香山のお嬢さんにまで手をだすんは、ちとやり過ぎやで」

 藤田のおじさん、なんだか今日は怖い。口調がいつもと違う。

 悠子はじっと二人を見比べ、時折お母さんの方を見ている。

 私は体が痛かったけど、もうそんなことはどうでもいい。

 悠子が約束を破ってしまった・・さっき悠子が私のことを「お姉ちゃん」って言った。それも二度も・・悲しいんか、嬉しいんかわからへん。

 でも、もう言ったらあかんって、あとで言い聞かせんとあかん。

 男は何か考えている様子だった。

 しばらくすると「おい、敏男、行くぞ」と言って男の子を連れ出て行った。

 息子は父親に絶対服従のようだ。きっと父親に逆らっては生きていけないのだろう。

 アパートの隣の人がドアから顔を出してこちらを伺っていた。

「あのお・・すごい物音、聞こえたもんやから」

 悠子のお母さんが出て行き女の人に「すみません、すみません、以後、気をつけます」と言っているのが聞こえた。

 この人は今までと少し変わった。

 以前、悠子を藤田のおじさんの養女に、と考えていたことは私の間違いな気がした。

「香山のお嬢さん、ごめんなあ」

 こちらに戻ってくると悠子のお母さんは私の方を見てそう言った。

「兄さんにも迷惑ばかりかけてもうて」今度は藤田のおじさんに言ったけれど、おじさんは「ほなら、用が済んだから、わし、もう帰るわ」と言うとさっさと帰ってしまった。

 この兄妹ってなんだか不思議な関係だ。

「悠子、血が出てるやないか。あとで絆創膏を貼ったるから家の中に入り」

「うん」悠子は小さく頷いた。

 悠子、よかったね、私が絆創膏持ってきてなくても、今日はお母さんに貼ってもらえるんやね。悠子は私の方を見た。

「仁美ちゃん、ありがとう」

 私がここに来なくても、この家の落ち着く先は同じだったのかもしれない。

 だが、私の方は違った。悠子が「お姉ちゃん」と言うのを聞けた。

「あの、おばさん、何があったんですか? 私、いきなりここに来てしまって、話がよくわからないんです」

 私はこの人ともっと話したかったのかもしれない。悠子の、いや、妹のお母さんなのだから。

「立ち話もなんやから、家の中にあがり」と悠子のお母さんは言った。

 悠子のお母さんと話が出来る。丁度よかった。私は悠子のお母さんに話さなければならないことがある。

「あんたも怪我してるやないか。親御さんが見たらびっくりしよるで、家の中で消毒したるよって」

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