第37話 悠子の家①
◇
私は自然と仁美ちゃんのことを「お姉ちゃん」と言って叫んでいた。
だって、仁美ちゃんはあの男に突き飛ばされて、いつもしっかり者の仁美ちゃんがあんな風に突き飛ばされて、私はもうたまらなくなって、気がついたら叫んでいた。
どうしてだろう? 誰かにそう言え、と言われた気がする。
お母さんは仁美ちゃんの擦り剥いた膝と私の肘を丁寧に消毒して、絆創膏を貼った。救急箱に赤チンや風邪薬、お腹の薬が入れてあった。
それから仁美ちゃんはお母さんの長い話を聞いていた。
お母さんは仁美ちゃんに何度も「こんな汚いところでごめんなあ」と言っていた。
家の中は散らかっていて、お酒や煙草の匂いがして恥ずかしかったから、私は二人の話を聞かないふりをして片付けをはじめた。
あの男はまた帰ってくるのだろうか? 不安はあるけれど、私は前より強くなっている気がした。私には守ってくれる人が大勢いる。
私はお母さんに貼ってもらった絆創膏が嬉しくて、しっかりと肘を絆創膏の上から押さえた。仁美ちゃんも両膝に絆創膏を貼ってもらっている。
仁美ちゃんはお母さんの話を聞きながら部屋の中を眺めまわしている。
部屋にはもちろんあの男の物や敏男の物があったけれど、私の物もたくさんある。
ランドセル、教科書にノート、筆箱、壁に貼られた時間割、給食袋、体操着、替えのワンピース。
見られて恥ずかしいけれど、少し嬉しかった。私のことをもっと知って欲しいという気持ちもある。
仁美ちゃんは家には何と言って出てきたのだろう? 家の人は心配していることだろう。
私はある程度片付けると台所に行ってお湯を沸かしてお茶の用意をした。
卓袱台に湯呑みを二つ置くと仁美ちゃんに「悠子、そんなんええのに」と言われたけれど、私は「お母さんが飲みたいやろ思って一緒に出しただけ」と答えた。するとお母さんはお母さんで「私に気を使って、どないすんねん」と笑った。
お母さんはあの男が仁美ちゃんの家に押しかけようとした経緯を話し、その事がお母さんが男のことを吹っ切れさせる要因になったことを話した。
話の途中、「私は心の弱い人間や」とか「心に隙があった」という言葉が何度も繰り返された。
きっとお母さんは仁美ちゃんのお父さんのこと、まだ好きなんだと思う。
信じられないことだけど、私には嬉しい。
私はお茶を出したあと流し台で食器を洗い始めた。
「私、おばさんにお願いがあります」
お母さんの話が終わると仁美ちゃんが話を切り出した。
何だろう?
「十月に私の誕生日会があります。私、こんなんするの、あまり好きやないけど、家でします。今年は悠子に来て欲しい。それがお願いです」
私の家の時間が止まった。
仁美ちゃんの家って、仁美ちゃんのお母さんがいるし、もしかして、お父さんも?
「家には父がいます」続いて仁美ちゃんは言った。
お父さんがいる!
お母さんの顔が少し、緊張したように見えた。
ダメや、絶対、あかん。仁美ちゃん、私、そんなん行かれへん。
それに、お母さんだって、許してくれへんに決まってる。
「他にお友達も呼ぶつもりです」
村上くん? ちょっと行きたくなってきた。でも、あかん。
私は食器を洗う手を止めて二人の方を見た。
「条件があるけど、かまへんか?」
お母さんが静かに言った。深呼吸しているのか胸を上下させている。
「何ですか? 条件って」
条件があることが仁美ちゃんには不服なようだった。
「悠子にはつらい思いさせるやろけど、あの人の娘やと言わんといて欲しい」
あの人の娘・・お母さんの口から初めて聞く言葉だった。
私は「あの人の娘」なんだ、と改めて思った。
「どういうことですか? 私の父も母も悠子が父の娘やっていうのん知ってます」
仁美ちゃんは口調を荒げた。
「私は静かに暮らしたいんや。それに、あの人にこれ以上迷惑かけたくないんや」
お母さんはそこまで言うとお茶を一口飲み「あの人も家でごたごたが起きるのはイヤやと思う」と続けて言って静かに湯呑みを置いた。
「本当に父もそう思っているのでしょうか?」
仁美ちゃんは間を挟みながらもお母さんに話を促している。
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