月の兎


 伝馬町の牢獄をこんなにも早く再訪するとは考えてみなかった。ここから俺はかの迷宮に旅立ったのであった。放逐刑は死罪と等しい極刑のひとつである。満足な着物すら与えらないどころか、手枷されて送り込まれたのだったから、万が一にも生きて戻ってくるとは考えてもいなかったはずだ。見知った獄吏たちの驚く顔が小気味いい。


「あの時ぁ世話になったな」


 俺は俺をいたぶった獄吏の足を踏みつけた。我ながらせこい仕返しだが、やらずにはいられなかったのである。やめておけ、と辰巳が俺の袖を引く。


「貴様の目当てはこっちだ。おとなしくついてこい」


 引かれるまま俺は獄を彷徨った。目当ての咎人は江戸の半分を燃やした大罪人である。どんな面で囚われているのか見物であった。


「あまり気を高ぶらせるなよ」


 殺し損ねた女に未練があると辰巳は踏んでいるのであろうが、実のところ、俺は女の顔をすっかり忘れてしまっていた。


「大丈夫さ、俺は冷静だ」

「馬鹿野郎、あの遊女の心を揺さぶるなってことだ」


 釘を刺されても俺にはぴんとこないのである。なぜ、獄に繋がれた女の感情なんぞを斟酌してやる必要がある? 自棄になって舌でも噛むというなら轡をしておけばいいだろう。いや、自害をはかるならさせておけばよい。どうせ死罪にするのであれば同じことだ。


「ここだ」


 土中の迷路の行き止まりに月の兎の牢はあった。獄吏が前に言っていたようにすでにここは迷宮と隣接しておりその一部といってもいい。馴染みの瘴気が立ち込めている。


 ――トントン お寺の道成寺 釣鐘下ろして身を隠し

  安珍清姫 じゃに化けて 七重ななよに巻かれて ひとまわり ひとまわり


 素朴な調の手毬唄。それを口ずさむのは――はたして遊女・月の兎つきのとであった。

 かすれた歌声が冷えた空洞を震わせた。胸を締め付ける切なさがある。


 ――トントン お寺の道成寺 六十二段のきざはし

   上り詰めたら仁王さん 左は唐銅からかね 手水鉢ちょうずばち 手水鉢ちょうずばち


 ざんばらに乱れた髪と化粧のない素顔は平素よりいっそうの艶めかしさを添えていた。猫目のしなやかで筋肉質の肢体からも色気が漂う。吉原で評判の芸妓だったのも頷ける。が、同時にすべてが凄愴で痛ましい。むごい折檻を受けたのであろう、所々に痣や傷がある。


 憔悴の態にある遊女の唇が唄を紡ぐのを俺と辰巳は格子越しに見据えた。


「月の兎と言ったか。憶えてるかい?」


 応えはないが唄が途切れる。手枷はなくとも、その痕は白い手首に色濃く残っていた。


「どなたでありんすか?」

「あんたを殺しかけた男さ」


 そう告げるとぴくりと罪人の眉間が震えた。焦点を結ばなかった視線がようやく俺の顔あたりでまで上ってくる。


「さて、どちらでありんしょうか。おゆかり様で?」

「お前が火を放つ以前より、ずっとお前を殺して喰らってしまおうと目論んでいた男がおったのだ。それがこいつさ」


 辰巳の紹介は要を得ていた。俺などはそれ以外の何者でもない。久しぶりに自分の性を思い出した。殺しの欲望、そして喰らおうという衝動。このふたつは混然一体のものと思っていたけれど、いまでは奇妙に分離して感じられる。


「言われてみれば――そんな気がしなんす」


 月の兎は夢見心地の上目遣いで虚空にほほ笑みかけた。

 辰巳によれば添い遂げようと誓った男が、妻子と仲睦まじく暮らしているのを知って我を忘れたのだという。


 遊女の生い立ちはありふれたものである。駿河の貧農の三女が困窮のあまり江戸に売られて来ただけの話だ。悲恋に身売り。哀れではあったが、とりたてて珍しいものではない。


(氷漬けの魚みてえな女だ)

 瞳の奥にはチロチロと燃える熾火がある。ただし、全体の印象としてはあくまでも冷たく強張っている。


「この女が天下の首府を丸焦げにしたってのか」

「そうだ、憎い男を焼くための火が、ついでに大江戸を焦がしたのだ。どうでえ? 迷惑な話だろうが。あの日の前に貴様が殺して喰らってしまえば世間はよ、太平の日溜まりとはいかねえにしろ、こんな有り様にゃならなかった」

耳打ちというには大き過ぎる声で辰巳が呟いた。


「だな。自責の念に堪えねえよ。もっと手早くバラしておけば、とな」

 俺は他人事のように言った。


「それともおれがもう少し間抜けであったら」


 話は堂々巡りである。おまえは充分間抜けだったと言ってやりたくなる。同心としては有能であったかもしれぬが、その有能さが招いた結果といえば……空恐ろしい。


「わっちの良い男いいひとはどちらにいらっしゃいんすか?」


 幼子が物をねだるように月の兎は言う。


「おまえの男なら、おまえが焼き殺したのだ。しゃぶれるほどの骨も残っちゃいねえよ」威嚇するように俺は格子を揺さぶった。「俺に殺されて喰われておればよかったろうに。そうすりゃあよ、男の心に非業の死を遂げた遊女の想い出ってのがずっとずっと残ったろうによ」


 獣の嗜虐が蘇った。俺は言葉で女を痛ぶった。迷宮に放り込まれてこの方、ずっと眠っていたものである。俺はこの女を殺したいと思った。それだけでない、肋骨をむしり取り、肺腑に喰らいつきたいと心底望んだ。この衝動はどこからやって来るのであろうか。だしぬけに浅ましい獣欲を催してしまったその理由とは? 何かがある。この女には何かがある。


「――ひとまわり、ひとまわり」


 女はゆったりとした節で口ずさむ。唄うというよりも口寂しさを紛らわすように音を刻む。化け物の呪言を浴びているのに似たおぞましさがある。


「手水鉢、手水鉢」

「いけねえ、下がれ、樋口。言ったろう、この女を高ぶらせちゃならねえって」


 すると俺の爪先に火が灯る。火種なければ油もない。幻でもない。


「逃げろ、樋口、女から視えねえ場所まで退け、丸焦げにされちまうぞ」

「辰巳。なんだ、こいつはなんなんだ? 呪禁仕か? にしては呪言も印も見えなかったが」


 じわじわと燃えながら俺は辰巳に迫った。この熱さも本物である。


「そういう力だ。月の兎には火打石はいらねえ、念じるだけで火を起こすことができるのさ」

「そうかい。ひっひっひ」ますます豪勢に燃え盛りながら俺は笑った。着物に燃え移った炎は全身を包むまで時間はかかるまい。「納得だ。てめえはだったのかい。人の形をしておきながら人ではない。そうか。わかったぜ。俺の欲望はそこから来るのだ。人に紛れた化け物を屠ること、喰らうこと」

「なんの。わっちはしがない遊女でありんす」


 すまし顔で月の兎は告げる。燃える相手を目の前にして、その涼やかな面持ちは尋常ではない。情念をきっかけにして自在に火を操る力が月の兎にはあるのだった。だから辰巳は遊女の感情を高ぶらせるなと忠告したのだろう。


「わっちの内の火を拝めば、いかな偉丈夫も臆病風に吹かれてしまうんでありす。武左ぶざ(威張っている客)もわっちの火を見て留まった者はござりんせん。主さんも、おさらばえ」

「ふん、舐めんじゃねえ。これくれえの火で尻尾を巻けるかよ」


 総身に炎を纏いながら俺は抜刀し、瞬きする間もあらばこそ鉄格子に刻み目を入れてみせる。格子を蹴り抜きながら、ずいと牢屋に踏み込む俺の背中を辰巳は呆気に取られて見つめた。


 俺は何の算段もなく月の兎に言った。


「月の兎。俺に惚れろ。そしたら一緒に燃えてやろうじゃねえか。どこまでもよ」


 俺は月の兎を抱擁し唇を重ねた。

その頃にはもう火勢は轟々と盛っており、女の痩身にいまにも燃え移らんとしていた。この遊女に哀れを催したのではない。惚れたと言うのなら、それでもいい。俺はこの女の内に燃え盛る業と解けることのない氷床に心を奪われたのである。


「主さんは一体どんな愚か者でありんすか?」

「俺は樋口二郎だ。そして誰でもねえ」


 水だ、水を持ってこい、と辰巳が怒号を飛ばす。

 しかし、俺と月の兎は猛火に隔離されて外界を忘れ果てた。


「逃げやしねえ。おまえを殺してやる。最初に定めた通りにな。邪魔者はいねえ。たった二人きりだ。そうだろう?」


「ええ」炎の中で流す涙はどんな夢よりも儚く消える。


 月の兎は己の炎で三千世界が焼け落ちてしまうことを望んだ。あの絵師が言ったように所詮この世は地獄に安い張子をひっ被せただけの苦界なのであるからには、それも悪くはない。ただし、浅ましいかな女の欲念は、業火を忍ぶほどの情を求めてもいた。


「抱いてくんなまし。強く。もっと」


 俺は燃える手で女の細い首を締めつけた。月の兎は廓詞くるわことばを忘れて地の声で呼ばわった。


「おっ父、おっ母、わたしはいっこも恨んどりゃせんよ。もっと器量よしに産んであげたらよかったのにねぇと言ってたけど、こんで充分よ、着飾って白粉塗って紅差したらな、天下の吉原でもなんとか通用したんよ。女にしては丈が大き過ぎるけどな、それもおっ父譲りで気に入ってんだぁ」

「ああ。そうだな。生まれてきて、お前はよかったのさ」

「手水鉢、ちょうず――」


 俺はもう一度月の兎の口を塞ぐといっそう両腕に力を込めた。はち切れんばかりに眼を見開いて炎の中で月の兎はこと切れた。


 と、女の身体から何かが浮かび上がってくる。ムジナに似た体躯だが、一つ目に青白い微光を帯びている。爪は猛禽の如く鋭く、背には翼の被膜が折りたたまれている。なんとも面妖な存在であった。これが遊女に憑りついておった物の怪なのであった。


 ――古籠火ころうか


 それは物の本によれば灯籠に宿る妖で、しばらく灯を点されない灯籠にひとりでに火が灯るのであれば古籠火の仕業とされている。火は燃やし尽くすものであるよりもむしろ月の兎にとって暮らしの温もりであった。釜の火であり、囲炉裏の火であるべきであった。温かい火への憧れと憎悪が、古籠火を呼び寄せたのであろう。それがとめどなき焼尽をもたらしてしまったのは皮肉という他ない。


「滅してやろう」

 俺は悶える古籠火を片手で握りつぶした。ウズラの雛を縊り殺すほどのためらいもなかった。しかし、そのかわりに興奮もなく俺は石くれのように冷めたままであった。


 ――たったひとつだけわかったことがある。


 俺が人間でなく化け物だとしても、それは化け物を屠る化け物だということだ。おそらく俺の殺人衝動は物の怪に憑りつかれた人間に向けてだけ発動するのである。


「樋口?!」

「ああ」

「何をしている。貴様は一体」


 辰巳の眼に化け物の姿は映らぬ。俺の手に残ったのは、殺したいほど美しい女であった。果たして女はその美しさに相応しく死んでいたのである。水の八卦呪法を背後から浴びせられ、火を消し止められるまで、俺は月の兎を力一杯かき抱いていた。

「この女。どうせ火炙りになるはずだったんだろう?」


 俺の独断専行に辰巳は驚くよりもむしろ恐れをなしていた。気が違ったかに見えたのだろう。間違いじゃない。この世間に正気などという嵩張るものを置いておく場所があろうか。


「だが、それは然るべき順序に則ってだな――」

「やかましい。これで罪は償ったわけだ。ならば、あとはどうしようと問題はなかろうな」

「馬鹿な、何を言っている?!」

「ここは迷宮の一部と言ってもいい。そうだな?」


 ――そして迷宮で死んだ者は、迷宮の中でなら蘇生は可能なのだ。


「まさか」辰巳は顔色を曇らせた。

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