絵師


 待てど暮らせど藤見麟堂は戻って来なかった。

 とっぷりと日が暮れて宵闇が薄く棚引く頃になっても麟堂と喜兵衛の姿は見えず、代わりに会いたくもない男が帰ってきたのである。


 父であった。

 ――樋口顕頼あきより


 やせぎすの昼行燈。何かにつけて粗忽でちゃらんぽらん。家伝の剣にしても、さっさと弟に道場を任せて己は昼間から酒を浴びる暮らしである。稀代の達人と謳われた剣の腕も今は昔。昨今では、その声望にさほど信憑があるわけではない。久しぶりに再会だというのに正体もなく酔いつぶれている。


「そこの居酒屋で居合わせたんが、妙に気ぃが合うてな、一杯、また一杯と杯を重ねるうちにこの有り様になってん。酒屋の親父が樋口家の御仁や言うさかい、一夜の義理や思うてここまで連れてきたんですわ」

 絣の着物に羽織ひっかけた男は三浦と名乗ると、酒気のせいか夜の冷たさをまるで感じさせぬ火照った頬を撫でた。血色の悪い顔の中で瞳だけが明るく不気味に浮き出て見える。


「ご面倒をおかけ致した」

「なあに、構わんて。おもろい御仁やってん、わしもちょいと酒が過ぎたんよ」

「後日、改めてお礼に‥‥」

「あーいらんいらん」と三浦は節くれだった手を振った。「七面倒臭いこと嫌いやねん。礼なら、そうやな、そこのあんた、ここん、ご子息か?」

 だしぬけに振られて俺はたじろいだ。


 三浦の舐りつくような視線は怖気を催させた。それは淫情の粘りに似ていたが、うちに鋭気の礫を含んでいる。

「あんた、変わった相をしてんな。絵ェに映えそうや」

「――絵だって?」

「そうや、わしはしがない絵師や。麟堂が言ってたでぇ、わしの絵の恰好の材料になりそうなもんがいてるてな。一発でわかったわ。あんたや」

「麟堂。知り合いか?」

「ああ、世間は狭いわ。あの老いぼれ、赤子を抱いてふらっとやって来よったんや。そっちでぶっ倒れてる御仁に用があったらしいが、ま、その有り様じゃ用事も糞もないやろ、家まで送ってやれと勝手な事抜かしていったんや」

「ちっ、やっぱり逃げたか」


 俺は語気を荒げたが、三浦はそれをふわりと受け流し、

「ええで、わしが教えたる。――違うな、正しくはわしの絵が教えてくれる、や。明日、うちに来てくれるか。ほんであんたの姿を描かせてや。たぶん、知りたいことの一端は見えるはずや。こっちの酔いどれや麟堂みたいな曲者では埒が明かんやろ」

「あんたが描くのってのは、こういうものか?」

 俺は雪之丞を促した。即座に察した雪之丞は、懐から喜兵衛に貰った例の写し絵を取り出した。歳に見合わぬ機敏さで三浦はそれを掠め取ると、じっくりと眺めるのだった。

「これは絵やない。精密に現世の光景の切り取ったものや。南蛮の手妻か」

「だとしたら――」

「精密な写しだからこそ、あんたの本性が映り込んどるわ。いけ好かん代物やが、おもろいの」

 おぞましい姿となって迷宮の片隅に佇んでいる俺を絵師は舌なめずりしそうなほどまじまじと覗き込むのであった。まるで写し絵を通して心魂を見透かされているような薄気味悪さがある。

「絵ェとはそんなもんや。」

 まさしく俺の胸の内を読み取ったが如く、三浦はそう口にした。


 ――そして続けるのだった。


「所詮この世は地獄に薄皮一枚ひっかぶせただけの安い張り子よ。もとより破れ目だらけ。亡者や餓鬼が我が物顔でのし歩く苦界や」

「そちらは名のある絵師とお見受けしたが」


 弟が丁重に尋ねると、三浦は吐き捨てるように言った。


「画号は蛇足軒。曽我蕭白そがしょうはくとも名乗っとる。言ったやろ。しがない絵師や。わしはな、江戸の地獄を描きに来たんや。わしの絵筆はもっと本音で喋りよる。嘘も偽りもなしや」


 × × ×


 昼餉の時刻となっても親父は高鼾を鳴らしていた。

 隙だらけの寝姿は簡単に打ち込めそうな気にさせる。とはいえ何度も痴態を晒した親父に挑みかかって返り討ちにされている俺は軽挙に及ぶつもりはない。

「てめぇ、帰ったら洗いざらい吐いてもらうからな」

 ゲェっと親父がおくびを漏らした。


 眉をひそめたその顔を井戸端で洗って俺は家を出た。雪之丞は、昨日、麟堂にしてやられたのが気にかかるのか、弟といっしょに、道場でずっと弓術の工夫をしていた。


 久しぶりに屋根の下で眠ったことでようやく人心地がついた。これが人間らしい暮らしとうものだ。こうして過ごしていれば迷宮の記憶も次第と遠ざかるものかと思われた。

「おい」

 往来ですれ違いざまに西瓜頭がドスの利いた声を押し込んでくる。ちょうど的屋の前であった。虚を射抜かれて、うろたえてしまう。

「なんだ?」

 俺は半身だけ振り返って問うた。そうしながらもそいつが見覚えのある顔だと気付いていた。鼬小僧の手下の呪禁仕である。


 ――確か。

「薊野」問わずとも西瓜頭は名乗った。「樋口二郎。忘れたとは言うまいな」

「さて、誰だっけなぁ」俺はとぼけてやった。弱みにつけ込んで俺に借金を押し付けたこいつらにご機嫌に振舞うつもりなどない。


「どのようにして呪を解いた? あれはそうそうたやすく外せる代物ではないぞ」

「知らねえよ、知ってたとしても手前に教えてやる義理はねえ」

「ふむ、まあいい。しかしお主には貸し付けた金があったはずだ」

「証文もねえ。記憶にもねえ。さて、払う義務があるかい?」

「悪党にもなけなしの矜持というものがあろう」

「母ちゃんの腹ん中に置いてきたよ」

「――では力づくということになろうか」


 西瓜頭の感情は何も読み取れない。あまりに平坦な顔つきは仮面をつけているようなものである。


 ったく、堪んねえな、と俺は小さく呟いた。地上に這い出てからこっち荒事ばかりだ。突き止めなきゃいけねえこともあるってのに巷は面倒な因縁で溢れ返っている。

「力づくだと?」俺はせせら笑った。呪禁仕の力を侮っているわけではなかったが、迷宮ならぬ地上の雑踏においてどれほどの力を発揮できるというのか。公儀は地上において他者を害する呪法の行使を禁じているし、およそ呪法とは前線で戦う味方の影に隠れて繰り出すものである。

「たったひとりの呪禁仕など裸同然だろうが。不意打ちならまだしも、真正面から挑んで剣術に叶う道理が――」


 さっと陽が翳った。

 おかしい。さっきまで午後のうららかな陽射しに往来は照らされていたはずである。道行く人々は動きを止め、石像さならがに硬直した。

「手前なにをしやがった?!」

水山蹇すいざんけん

 薊野の声がくぐもって聞こえる。まるで水の中にいるようであった。音だけでない。手足が重く、のろのろと動きが鈍くなった。

「八卦呪法。てめえ異端の呪禁使いだと思ってたが」

「一応、ひと通り齧っておる」


 八卦呪法は、天、沢、火、雷、風、水、山、地、八つの象意を操ることで様々な事象を呼び起こすものである。正法とも呼ばれ、呪法のうちで最も広く知れ渡った術だった。それぞれひとつを極めるには十年はかかると言われているが、極めたところで大した威力は見込めぬため、労多くして得るもの少なしと悪しざまに言われる始末であった。

「水と山の卦だ。組み合わせることで八卦呪法はとてつもない効果を発揮する。けんとは足萎えのこと。この呪界の内では夢の中のように鈍重にしか動けぬ」

「じゅうごぉんをぉお唱えええるいとまぁあああがぁああ」

 ――呪言を唱える暇がどこにある、と口にしたつもりが、その台詞さえもが間延びして用を為さぬ。しかし薊野は意味を汲み取った。

「おまえとすれ違う前、とっくに術は発動していた」

 重いぬかるみのような空間をじわじわと作り出す呪法は瞬時に放たれるものでなく、その効果は波打ちつつも持続した。平常通りに働くのは己の思念のみである。

「悪いが顔を貸してもらおう。貸し付けたものを取り立てられぬとあっては我らの面子が立たぬのでな」

 薊野は橙色の霧を吐いた。それを吸い込んだ俺はといえば、ようやく刀の柄に手がかけたあたりであった。抜いたところで鈍重な斬撃では蠅も殺せなかったろう。脱力に襲われ、膝を屈するところを薊野に抱きとめられる。


「薊野。仕留めたか」

「大過なくな」

 どこからともなく届いた女の声に薊野の低い声が応じた。

 迷宮で多少は腕を上げたと鼻息を荒げていても、所詮はこんな西瓜野郎に軽くあしらわれる程度である。まったく嫌になる。加えて敵がひとりでないとなれば勝てる見込みなどもとよりなかったのだ。

「しかし生きていたとはね、この男。薊野。あんた迷宮で野垂れ死ななければこいつが化けると言ってたろう」

「化けたろう」

 こてんぱんにしておきながら、誇らしげに何を言う。混濁する意識の途切れ目に俺は思った。その時である。その切れ目より何かおぞましい面相のものがのぞき見えた。それは迷宮で俺を何度も生かした凶暴な力であった。

 難訓とそう呼ばれる何か――それが、こいつらの思うがままにされることをきっぱりと拒んだ。

(次は必ず叩き殺してやる。殺してやる。殺して、殺して)

 ぞわりと薊野が総身を震わせて俺を打ち捨てた。

「うぬ。化けたのではない。化けておったのその皮が剥がれかけた、というべきか」

「どきなさい薊野!」

 猫目の女が絹を裂くような声で叫んだ。地べたに放り出された俺は、しかし、土にも埃にも塗れることもなく、絶妙な平衡を保って屹立したかと思えば、前のめりに薊野に迫った。すでに水山蹇の術中より解き放たれて〈無忌鎮永〉の刃は鞘の内を奔った。


 ――ざっ。

 と西瓜頭に亀裂が走る。下段から切り上げられた刃筋に沿って果汁ならぬ鮮血がほとばしる。ただ、その色は人の血の粘り気とは程遠い。

「ざまあみやがれ!」

「行儀の悪い犬ね、火雷噬嗑からいぜいごう!」

 猫目の女が呪印を結んで両手の象意を交錯させると、眼前に巨大な鉄枷が出現した。その形状は、獣の足に噛みつく罠である。しかし野獣を捕えるには禍々しく、また寒々しい。

「神妙になさい。こいつに挟まれれば生きてはいられない。でもね、たとえ屍体に変えてでもあんたを連れ帰るわ」

「そんなふうに言われて俺が降参すると思うのか」

「別に。それならそれで――」

 結構、と女の口元が動き終わるのよりも先に鉄の顎が閉じ合わされた。

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