第8話 純潔の拳闘士 カイリ・ファイブスター 後編

 マクマール帝国西部に位置するヌクラヌツボ地方はひとことで言えば『ド田舎』である。敷地面積は東西南北の四地域でもっとも広いにも関らず、人口は全体の十分の一の九十万人が住んでいるのみ。だがその広大な土地を利用した牧畜業は世界的に有名だ。

「到着しましたぜー!」

「えらくまたかかったなァ」

「カバちゃんもジェジェちゃんもありがとねー」

 最近では格闘術の聖地としても知られており、多くの修行場――現在でいうジムまたは道場が存在している。また、格闘術の興業も盛んに行われていた。

「それはわかったけどJJ。カイリはどこにいるんだ?」

「さあそこまでは」

「なんだよ」

「いいじゃない! とりあえず遊ぼうよ! せっかく来たんだからさ! おっあそこに案内板がある」

「あっ! 待てよ! ……仕方ねえなあ」


 三人はとりあえず観光用の羊飼い牧場を訪れた。

 柵で大ざっぱに区画分けされた見渡すかぎり青い芝生で覆われた空間に、でっかくて白いふわふわが動きまわる様子はなかなか壮観である。

「待て待てーーー! キャハハハハ!」

「こりゃいいですね。全部売ったらいくらになるんでしょ。羊毛が一頭分二万デビアス、肉が一万デビアスとして……」

「貴様のその徹頭徹尾心が汚い感じ。嫌いではないぜ」

 ヘルはなぜだか羊には目もくれず、ひたすらに牧羊犬を追い駆けまわしている。

 イナとJJは柵に腰掛けてそれを見ていた。

「なんだかんだあんな風に全力で逃げる犬を追いかけて捕まえるのって人間離れしてますよね。頼りになります」

「人間じゃないからな。我々が闘う相手はもっとどうしようもなく人間離れしてるが」

 イナはヒマつぶしがてらヘルにいちゃもんつける。

「おい。羊にも構ってやれよ。どっちかというとそれがメインだぞ」

「だってこっちの方がかわいいんだもん」

 そういってだっこした犬をイナの所へ連れてきた。

「ウチでも犬飼っててさ。ヘルの唯一の味方だったんだ。その子を思いだすなァ」

「どんなヤツ?」

「臓物可愛かったんだよー。でっかいツノがオニのように生えててさ、常にふうふう言いながらよだれ垂らしてて、目玉なんかこーんなに飛びだしちゃって」

 ちなみに今ヘルがだっこしている犬の犬種は現在でいうところのコリーである。ふわふわして大変可愛らしい。

「一緒にしたらかわいそうだろ」

「似てるんだけどなあ。歯がいっぱい生えてるところとか」

「歯ならおまえとていっぱい生えてるぞ」

 そこへ麦わら帽子姿の牧場主がやってきた。

「おじょうちゃん。その子はまだ仕事あるから解放してやってくれや」

「えーいいじゃんーもうちょい愛でさせてよー」

「そうは言ってもなあ。ほらあっちのコーナーの羊と遊んでてくれ」

「羊あんまり可愛くないもん」

「ウチの牧場全否定だな。それなら――」

 牧場主は厩舎のほうに戻ると三枚の紙片を手に戻ってきた。

「ホラ、これをやるからさ。その子を返してくれ」

「えー? なにこの紙―食べられるの?」

「ん……これは……」

 イナはそいつをヘルから取り上げた。

「こいつは。行ってみる価値はありそうだぞ」


 カイリ・ファイブスターは名門武術一家であるファイブスター家の長女として産まれた。

 年を取ってから産まれた初子ということで、母ブランディ・ファイブスターは彼女を大変可愛がったが――。

「後継ぎが欲しかった」

 というのが、父コーディ・ファイブスターのカイリの誕生を聞いての第一声だった。

 成長するにつれてカイリはだんだんと父の考えを感じ取るようになる。

 その結果。彼女はこんなことを人生の目標に掲げるようになった。

「女でも後継ぎとして認められるくらい強くなってやる!」

 カイリは毎日血の滲むような努力を重ね、弱冠十五歳でロウに入隊。そこでも瞬く間に頭角を現し、ついに『ブレイブ・クラブ』の一員として魔王の討伐に貢献するという、とてつもなく大きな(父よりも遥かに上の)実績を上げることに成功した。

 このような経験から彼女はこんな考えを持つようになる。

『努力をすれば必ず成果を上げることができる。産まれもったもの――才能や性別のようなものは関係ない』

 ――ちなみに。彼女はファイブスター家の宗教上の理由で、ハルホーン天啓教会での『天職天啓』は受けていない。

 彼女は現在、ヌクラヌツボはトルイスの片隅に小さな家と土地を買い一人暮らし。大好物のヌクラヌツボコーンを育てながら、ロウからの召集に備えて修行を行っていた。長年の念願だった静かで穏やかで健康的な生活。大変幸せであった。

 ただ。あまりにも刺激のない生活はイヤなので。

「みなさん! お集まりくださいましてありがとうございます! 武術の聖地トルイス! 年に一度のお祭りの始まりだ!」

 今日はトルイスのド真ん中のミズーリーコロシアムにて武術大会が行われる日。

 毎年五十名を超える選手たちと、五千人以上の観客が集まる一大イベントである。

 会場の中央に設置された石畳でできたシンプルなリング。それを囲むようにすり鉢状に観客席が並べられていた。一席の空きも無い超満員だ。リングに立つ選手たちに大声援が送られる。

「みなさんご存じかとは思いますが! 本日は我らがトルイスの誇り! マクマール帝国の英雄も大会に参加して頂けることになりました! 紹介いたしましょう! カイリ・ファイブスター選手です!」

 大歓声が彼女を迎える。やはりたまにはこうして人と触れ合うのもいいものだ。

 カイリは彼女らしい穏やかな微笑みを湛えながら客席に手を振った。


 年に一度の大規模大会だけあって参加選手は強者揃い。カイリですら楽勝とはいかないほどに。

「いけーーーーーカイリ様―――――!」

「ゴルザックも根性見せろ!」

 カイリと対戦相手はそれぞれ両手に『ナックルセイフ』をつけてリングに立っている。綿を皮製の袋で包んだもので、後にボクシングで使用されるグローブとほぼ同型のものだ。考案したのはカイリ自身。パンチを喰らったほうが致命的な大怪我をしないように、パンチを放つ方が拳を傷めないようにという配慮により産みだされたものである。また足のスネにも同様の構造のカバーがつけられている。

 とはいえ。この状態でもモロにヒットすれば相手をKOすることはもちろん可能で――

「決まったーーー!」

 カイリの強烈なアッパーカットが炸裂し試合は終わった。

「いやーカイリ様。けっこう手ごわかったんじゃないですか?」

「ええ。危なかったです。でもいい試合でした」

「次は決勝ですね。いきごみを!」

「最高の試合をお見せします!」

 もっとも。彼女がロウで身につけた魔術やトライアドブローなどの技術を用いれば、どの相手も十秒と持たなかったであろう。とはいえ。この大会は技術を高め合いつつ、観客を楽しませることが目的の大会だ。魔族を倒すために開発されたワザなんて使う必要はない。それで負けてしまったならそれでかまわない。カイリはそう考えていた。

 ――そして迎えた決勝戦。

 対戦相手は珍しい北部地域ミステル・カカオ出身の武術家として有名なクラッシュ・リゾウスキー氏。一九八センチ、一四〇キロの巨体に、丸太のような腕、岩のような顔面。強烈な威圧感を放っているが、ダークグリズリーを素手で瞬殺した経験のあるカイリにとっては恐るるには足らない。彼女は自信にみちた表情で控室を出てリングへと伸びる花道を歩いた。――その途中で。

「お姉ちゃん! 頑張って!」

 突然。小さな女の子が花道に現れた。銀色が混じった紫色の髪の毛に褐色の肌。やけに派手な服装をしているが大変可愛らしい少女だった。

「あんな熊さん楽勝だよね!」

 会場は微笑ましい笑いに包まれる。

「ありがとう。でもね。危ないから入ってきたらダメだよ」

 カイリは彼女を優しく抱え上げ、両親と思われる二人に返した。片眼メガネをした知的な雰囲気の母親と、帽子を目深に被ったやせぎすの父親。父親の顔はよく見えなかったが、母親には全く似ていないように思う。ヒロハのように実の両親ではない人に育てられた子供なのかもしれない。などとカイリは考えた。

 父親はなにやってんだバカ! などと娘のアタマを小突く。なんにせよ仲の良い親子のようだ。

「えーなにやら微笑ましいトラブルがありましたが、試合を開始させて頂きます!」

 リングサイドに設置された鐘が鳴らされる。

「おおおおお! ぶち殺おおおおおす!」

 リゾウスキーは雄たけびをあげながらカイリに迫り強烈なパンチを放つ。

 さすがに決勝まで残るだけのことはあり、めちゃくちゃに迫っているようで丁寧で正確なパンチだ。しかし。

(ちょっと前のめりすぎるかな)

 カイリのカウンターのボディブローが突き刺さった。

 リゾウスキーはダウン。

 客席からは大歓声が上がる。が。カイリは冷静に分析する。

(浅かった。たぶんそれほど効いてない)

 だが。そんなカイリの予想とは裏腹に。

「――! なっ! ぐおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!」

 リゾウスキーは腹を抑えて悶絶し始めた。

 のたうちまわる姿にカイリはあっけにとられる。

 客席からは「なんだよもう終わりかよ」「根性がねえなあ」などという声が聞こえ始めた。――が。

 リゾウスキーは突如すっくと立ちあがった。

 ざわめく客席。本人も不思議そうに首をかしげている。

 カイリは思わず聞いた。

「だ、大丈夫なんですか?」

「なんか知らんが痛み引いた。大丈夫だ」

 試合は続行される。

 だがやはりこの二人では単純な技術に大きな差があるようで――

「また決まったーーー!」

「カイリ様つえええ!」

「当たり前だ!」

 カイリのパンチはリゾウスキーになんどもクリーンヒットした。

 だが。彼も去る者。なんどやられても立ち上がる。

 さすがのカイリも激しく息をついていた。

「呆れたタフさ加減だな」

「いいぞー! 粘れ粘れー!」

(いや――これはタフとかそういう問題じゃ――)

 さきほどからなんども悶絶しながらも、すぐにケロっとした表情ですっくと立ちあがってくる。なにか異常なことが起きている。カイリはそう感じていた。一体どうすればこの状況を打開できるのか。魔法を使うか、『ナックルセイフ』を投げ捨て、首を絞めて一瞬で気絶させてしまえば簡単だろうがそうもいかない――などと迷っているウチに。

「どりゃああああああああ!」

 この日初めてリゾウスキーのパンチがカイリにヒットした。

 八回もダウンした人間が放つとは思えない強烈な左フックだ。

 カイリの体がグラつく。客席からは悲鳴と大歓声。

「おおおおおおお!」

 ここしかない! とリゾウスキーが猛ラッシュをしかける。

 必死にガードを固めるが抑えきることができない。

 パンチが次々にボディにヒット。そして。

「ぬおりゃああああああ!」

 強烈な一撃がカイリの頬を捉えた。小さく細い体が大きく仰け反る。

「あ……」

 カイリの意識は宙に浮く。ガードはガラ空き状態。

 客席から悲鳴が上がる。

 ――そのとき。

「わあああああ! すっげーーーー!」

 先ほどの少女が叫ぶ声が聞こえた。

 その声でなんとか意識を取りもどしたカイリは――

「おおおおおお!」

 喉をからしながら体を回転させ――

「だあああああああ!」

 カウンターのヒジ打ちを放った。それもただのヒジ打ちではない。

 脳天に突き刺さった一撃、いや『三撃』はリゾウスキーを昏倒させた。

 客席からは割れんばかりの歓声。

(しまった――! 自分からナックルセイフなんて提案しておきながら――!)

 カイリもその場にヒザをついて倒れた。


 客たちはギリギリまで追い込まれながらも見事逆転してみせたカイリを讃えた。だが。カイリ本人はとてもじゃないが自分を褒める気持ちにはなれなかった。

「カイリ様! 大丈夫ですか!」

 リゾウスキーは即座に医療施設へ搬送された。カイリ自身も選手控室のベッドに寝そべって動けずにいる。

「すぐにお医者様を呼んできますから!」

 会場係員の少女が出ていく。

 カイリは部屋に一人残された。天井を見つめ医者を待ちながら考える。

(あれは一体なんだったのだろう?)

 リゾウスキーは明らかに異常な状態であった。いくら打撃を叩きこんでも大袈裟に痛がりはするもののすぐに立ちあがってくる。タフだとかどうとかいうレベルではない。初めは彼は魔法使いを多く排出するミステル・カカオの出身だけに(禁じられているが)回復魔法を使いながら闘っているのではないかと思った。だが。あんな急速で回復する魔法を使っていればどんな天才魔法使いでもあっという間に体力を使い果たし、パンチを打つどころではなくなるはずだ。それに。それならばあんなに大袈裟に痛がって見せる理由がわからない。ぐるぐるとなんども同じ所で考えを巡らせていると。

「お姉ちゃん大丈夫―?」

「――! あなたは!」

 突然。誰かがカイリの顔を覗き込んでくる。

 紫色の髪の毛。可愛らしい顔。

 入場の際に花道に入って来た少女だ。

「痛い? ダメージどれくらい?」

「どうやって入ったの!?」

 控室の周辺には会場の警護係が十数人もうろうろしているはずである。

「別に。普通に入れたけど?」

 カイリは首を傾げながらもわざわざ控室まで来てくれた少女のアタマを優しくなでた。

「ねえ。大丈夫? けっこうパンチされてたみたいだったけど」

「そうねえ。キツイ闘いだったわ。でも大丈夫。もうすぐお医者さんが来てくれるから」

 カイリがそういって微笑むと――

「お医者さんなら来ないよ」

 少女は愛らしさはそのままに、そこに目が眩むくらいの邪悪さを添加した表情をカイリに見せた。

「ジャマな人は全員倒したからね」

 ――その瞬間。控室の扉がぶっ飛び部屋の中に転がった。

「化け物みたいなヤツの警備をあんな一般人にやらせてどうするんだか」

「――あなたは!」

「久しぶりですね。先生」

 カイリは驚愕に目を見開いた。そこに立っていたのがかつての教え子だったからだ。

「ひ、久しぶりです。グロウリアくん。……随分痩せちゃって」

 イナは慇懃に頭をさげ、握手を求めた。

 カイリは重い体をなんとか立ちあげて握手に応える。

「あなたの幼馴染みが心配していましたよ、顔を出してあげたらどうですか?」

「大丈夫。近々合いに行く予定ですから。――その前にっっっ!」

「――!?!?」

 カイリは思わずイナの腹に強烈なヒザ蹴りを叩きこんでしまった。

 彼が耳につけたイヤリング――封印されし魔王に手を伸ばしたからだ。

 イナは床にヒザをついてチッっと舌を打つ。

「ゲホッ! 相変わらず容赦がねえことで。今ならいけると思ったんだがな」

「ど、どういうことですか!?」

「なに。それが欲しいだけさ」

 再び強烈に床を蹴ってカイリに迫る。

 だが。今度はトライアドブローのストレートパンチが顔面を捉えた。

 イナの体は壁に叩きつけられる。石膏の壁に大きなヒビが入った。

「クソっ! 化け物め! あんだけ痛めつけた意味がねえ! ……やるしかないか」

 イナはふところからナイフを取り出す。

「……グロウリアくん。あなたは」カイリは目を俯かせながら呟く。「私を恨んでいるのですか?」

 するとイナは腰に手をあててガハハと笑った。

「恨んでなんかいねえさ。むしろ感謝してるよ」

 ナイフを自分の腹に突き立てる。

「あんたは俺に教えてくれたじゃないか。凡夫はまっとうな努力などしても無駄。そんなことをしてもゴミやホコリすら積み上がりはしないって。努力の質も量も意味をなさない。一切関係がない。ただただムダなんだ。なにもしていないのと同じなんだと」

 ナイフを徐々に自分の体にめり込ませ――

「あんたは教えてくれた。俺が強くなるには。まっとうな道なんかない。あるのは汚くて暗くてとんでもなく危険な、まさに自分の身を滅ぼしながら行く道しかねえって」

 自らの腹をかっさばいてみせた。

「考えて見ればあんたが言っていた「努力したフリ」ってのは本当かもな。そんなことにも気が付かずに無駄に自分の身を傷つけてばかりいたんだから」

 内臓に甚大な損傷があったらしく口から大量の血液が溢れる。

「ちょっとだけ強くなった俺を見てくれよ先生――」

 イナの口から子供のアタマくらいの大きさの火球が放射された。

 カイリは超人的な反射神経でのけぞってこれを躱す。

 後方の壁に巨大な穴が空いた。

「ちっ――! 素早え! だがまだまだ行くぜ」

 第二弾、第三弾が次々に放たれる。――しかし。

「――! クソが! この化け物め!」

 カイリはフックやアッパーカットの要領でコンパクトに拳を振り、その風圧だけでイナの火球の軌道をそらす。火球は無意味に壁や天井を破壊するのみ。

 そして。カイリが徐々にこちらに近づいてくる。

「し、しまっ――!」

「――ハッ!」

 カイリ渾身のボディブローがイナの腹部の傷口を抉る。

 イナはさきほど以上の勢いで再び壁に叩きつけられた。

 腹から噴きだした噴血と口からの吐血がカイリの顔や拳にぶっかかる。

 いまさら血などにひるむものでもないが、やはり不快ではあるらしく小さな木綿のタオルを取りだしぬぐい取ろうとする――が。

「あれ?」

 その血にはゼリー状の弾力があり、タオルではふき取ることができない。指でこすりとろうとしてもぺったりと貼りついて離れない。

 そしてそいつはカイリの肌を這うように移動し、一点に集まろうとしている。

「な……! これは!」

 イナは口の端を不気味につりあげた。

「そいつはな。<<粘血厭附着>>って術だ。別になんの害もないけどとりあえず取れんぜ」

 ゼリー状になったイナの血液はすべてカイリの両拳に集まってそれを覆った。

「『ナックルセイフ』っていうのは一体誰が考えたんだ? ありゃあつまらんなあ。試合を見てて、なに守られてるんだよとイラつきさえ覚えたぜ」

 カイリは拳を振り回したり壁に擦り付けてなんとかそれをとろうとするが、ぷるぷるとふるえるばかり。顔がどんどん青ざめてゆく。相当な不快感があるらしい。

「そんなに必死に取らなくても大丈夫だよ。俺が死ぬか気絶すれば勝手に取れる」

 それを聞いたカイリは瞬間移動と見まごうスピードでイナに迫り、アッパーカットで顎を捉える。だが。ぷるぷるの物体はパンチの威力をゼロにした。

「これから大会ではナックルセイフよりこっちを採用したらどうだ?」

 イナはカウンターのパンチを放つ。が。

「ハッ――!」

 カイリはそれを紙一重で躱し回し蹴り一閃。足の甲がイナのどてっ腹を抉った。

 再び吹き飛ぶイナ。腹の傷口からおびただしい墳血。――完全な致死量だ。

「……殺してしまった。でも仕方がない……正当防衛……」

 カイリはアタマを抱える。

 だが。イナはゆらりと立ちあがった。口元に笑みを浮かべている.

「そんな! なんで! その出血量で……!」

「やばいよなぁ。俺もやばいと思う。あんたの足にそんだけべっとりついてるのを見るとなんか寒気がするぜ――」

 今度は<<粘血厭附着>>がカイリの両足を覆い尽くす。

「くっ! それなら!」

 再びイナに迫る。懐に入りこんで一回転、ヒジを立てて――

「そりゃあ舐め過ぎだ」

「――! しまっ――!」

 ヒジが脳天を捉えるより一瞬だけ早く、イナのボディーブローがみぞおちを抉った。

「そんなのが通用するのはド素人の木偶の棒相手だけだぜ」

 カイリの口から真っ赤な血が溢れる。

「これでも元ロウだ。それに。俺はあんたに言われた通り、パンチの練習を毎日毎日何千回も何万回もやってたんだぜ」

 カイリは薄れゆく意識の中、こんな風に呟いた。

「なるほど……あなたを少し見直しました」

 イナはぴくりと眉をひそめる。

「でも。そんな風に強くなった先に。未来はないですよ――」

 そんな言葉とともにカイリは崩れ落ちた。

 イナはほとんど忘れていた呼吸を再開。そして天井を見上げながら呟く。

「いらねえんだよ。未来なんて」

 ――そこへ。

「お疲れさまー!」

 ヘルがひょっこりと姿を現した。一点の曇りもない笑顔である。

「かっこよかったよ。惚れ直した。なんちゃって」

「ちっ。なんもしてない癖にそのアッパッパー具合。ちょっとは悪びれたらどうなんだ」

「なんにもやってなくないよ。ちゃんと見てたもん」

「ぶっ殺してえ」

 全身から力が抜けてイナは仰向けに転がった。

「勝ててよかったね」

 ヘルはしゃがみこんでイナのアタマをわしゃわしゃ撫でる。血がつくのも気にしない。

「昔の話聞いてたからスカっとしたよー。イナを邪険に扱ってバカな訓練をさせていたことがアダになったってのがキモチいいね。それにしても」

 なぜか少し寂しそうな笑顔を浮かべる。

「イナはエラいよね。才能ゼロでも頑張りきったんだから」

 ヘルはイナが動けないのをいいことに頬に口なんかつけてイタズラっぽく笑った。

「わたしなんかどうせできないって訓練から逃げることばっかり考えてた。別に後悔しちゃいないけどね」

 ヘルは部屋に置かれていたツボを頭上に振りかぶり、カイリの前で構えた。

「待て待て。別に殺さなくていい。というかそんなことより――」

「ああ。そっか先にりょうじょくするのか」

「違う。今はエッチな気分じゃない。ほらこの辺りを見たらわかるだろう」

 イナの腹からはどくどくと血が溢れていた。

「あっそうかー早く治療しないとねー」

「やっとやる気になってくれたか」

「あっ! ちょっとまって!」

「なんだ!」

「さっきさ! ヘルはなにもしてないって言ったけど! よく考えたら、闘う前にあんだけ弱ってたのはヘルがあのリゾウスキーというおっさんを回復させてたおかげじゃん!」

「わかった! おまえはエライ! だから治療を始めてくれ……。気が遠くなってきた」

「あーはいはい。ちょっとまってねえ」

 ヘルはとても急いでいるとは思えないスピードでツボをそっと元に戻し、イナの横にしゃがみ込んだ。

「<<死に至る治癒>>」

 全身を三度すさまじい激痛が走る。

 苦悶するイナを見下ろしながらヘルはケタケタと笑い声を上げていた。手には禍々しい紫色の光。

 ――ほどなくして。

「はい。終わったよ」

 紫色の光が止まる。同時にイナの体が痛みから解放された。

(このとてつもない痛みからの解放。最初のときは途中で気絶してしまったし、前回はそんなこと考える余裕もなかったが。こりゃあとんでもねえ快感だ。セックスなんかとは比較にならないくらい……)

「どう? キモチ良かった?」

 ヘルはそういって顔を覗き込んでくる。

 イナはなにも答えずにすっと目を逸らした。

「あれ? あんまりだったかな? まあいいや。どうしよっか。このカイリって人」

「ほおって帰ろうぜ」

「恨んでるんじゃないの? ひどい扱いされて」

「別に。無能が冷遇されるのは当然のことだからな。むしろ悪いことしたと思っている」

「ふうん。でもさ。ヘルはこいつちょっとムカツクな」

「なぜ」

「だって。イナ可哀想じゃん。頑張ってたのに怒られて」

「ハ……そいつはどうも」子供でも言わないようなセリフに思わず笑いがこぼれる。

「それにさ。こいつはヘルの仲間たちをいっぱい殺した。パパが死ぬまえに死んだ人はパパが生き返っても蘇らないよ。別にそいつらのこと好きじゃないけど」

 イナは無言。

「だからさ。一発だけ殴ってもいい?」

「勝手にしろよ」

「えいっ」

 ヘルは気絶したカイリにへなへなとしたパンチを振り下ろした。

「……気が済んだか」

「うん」

「じゃあ行くぞ」

「って。大事なことを忘れてるよ」

 ヘルは横たわるカイリの耳からイヤリングを外した。

「パパの欠片。すぐに屁をこくし嫌いだったけど、こうして見るとまあまあ愛おしいね」

 そしてそれをイナの耳につける。

「よせよ。似合いやしねえ」

「違うよ。なにか感じない?」

「ん――」

 イナは感じたままを言葉にした。

「なにか。血がおかしい。血の中を小さな生き物がすげえ速さで動きまわっているような感じだ」

 ヘルはにっこりと微笑み、イナの頬に手を触れる。

「それが魔族の生命の源。人間に言わせればこの世の悪の根源。パパがもたらす力。こんな状態でも少しはソレが出ているみたい」

「この部屋に入って来ただけで妙な高揚感があったのはそれか?」

「そそ」

「これがさらに増えれば……?」

「どんどんスゴくなる。そしてパパが復活したときには。――何十倍。――何百倍」

「面白くなってきやがった」

 握った拳がブルブルと震える。

 ヘルはそんなイナに恋人のように腕をからめつつ、こんな風に問うた。

「ヘルと組んでよかったでしょう?」

 イナは少々の沈黙の後、静かに頷いた。


◆◆◆


 ヒロハ・スリングブレイブは魔王討伐の後、一体どんな仕事をしていたのだろうか。

 意外と知られていないが彼は王宮にて『大英雄官』という職についていた。これはほとんど名誉職のようなものであり、たまに他国からの客と面会をしたり、式典などに出席して演説をする以外に殆どやることはなかった。

 この日も無駄に豪華な部屋でヒマを持て余していると。

「――ヒロハ様」

 ノックをしながら若い女性が部屋に入ってくる。彼女の名前はポコ。元ロウ所属の魔法使いで、現在はヒロハの秘書と王宮の雑用係を兼任で務めている。頭の中お花畑っぽい真っ赤なフリフリの服を着ているが、これはあくまで炎の魔法の威力を高めるための魔術装であり、実際はサバサバして物怖じしない性格であった。

「よく来てくれたね! 退屈でさあ」

「だから部屋の中でも鎧着るのやめてくださいよ。暑苦しいなァ」

「ん? それは?」

 ポコは傍らに『ロード・リーガル』という首と足が長くてお尻がぷりっとした、ダチョウにそっくりな生き物を連れていた。

「ヒロハさん宛てに伝達です」

 当時の富裕層の間では通信手段として、この賢くて足の速いロード・リーガルを伝書鳩代わりに使うというのが流行していた。それもただ手紙を持たせるのではない。オウムに言葉を教えるようにして『言伝』を言い渡すのだ。

 ロード・リーガルはグワッ! と鳴き声を上げた後、このように伝達した。

「カイリガヤラレタ! カイリガヤラレタ! カイリガヤラレタ!」

 二人はしばし顔を見合わせる。――数秒の後。

「ハハハハハハ!」

 ヒロハは笑い声を上げた。

「ひどいイタズラだなァ! あの師匠が一体誰にやられるっていうんだよ!」

 ポコは狼狽した表情。

「寝込みを襲われたとか……」

「なに言ってるの。あの人に寝込みなんていう概念はないよ!」

「ですが……」

「でもそうだなァ」

 ヒロハは少々思案したのち――

「ちょっと心配だからさ。ポコちゃん。現地に行って確かめて来てよ」

「はい。そのほうがいいですね」

「ついでにベリアイノさんの様子も見てきて。わりと近いからさ」

「……私。あの人ちょっと苦手なんですよね」

「あー……。なかなか変わってるよね。でもまあキミの師匠なんだしさ。ね?」

「はーい」

「それと」ヒロハは壁際に立つポコの頭の横にドンと手をついた。「買ってきてよ。例のアレをさ」

「またですか。太りますよ? ってゆうか。ちょっと太ったんじゃないですか?」

「えっ! マジで!?」

「ほっぺたがぷにぷにしてます」

 ポコはヒロハの頬をグニグニと揉むと部屋を出て行った。

 ヒロハは胸の上で腕を組みつつ呟く。

「――まずいなあ。ちょっとはダイエットでもするか」


 三 極星の大魔導士 ベリアイノ


 マクマール帝国北部に位置するミステル・カカオ地方は敷地面積の九割以上を標高の高い険しい岩山が占めていた。農業を行うにも街をつくるにも適さないこの地方の唯一の『名産品』は『マナ』であった。

「さーて。今日はここで寝ましょうかね。テントを立てましょう」

「おお。よろしく頼む」

「おねがいー」

「チェッ。この仲良し兄妹ときたらまるで働きやがらねえ」

 この時代のマクマール帝国で『魔法』と言われていた技術は自分の内側から溢れてくるエネルギーを放出するものではなく、大気中に溢れるマナを吸収し体内で変質させてそれを放つというものであった。どれだけマナを吸収することができるかはその人の『器』による。器を大きくするにはマナが多く溢れる地域で訓練を行い大量のマナを体に取りこむことが良いとされていた。少々乱暴なやり方としては魔法による強力な攻撃を受けることで無理矢理大きくするという技法も知られている。

「なんか臭わない? イナおならしたでしょ? それともうんこ?」

「たしかにくっせえがうんこはこんな匂いじゃないだろ。嗅いだことないのか? これはマナが放つ匂いだ。魔法使いに言わせるとこの世で一番芳純な香りらしい」

「へー。まあ魔族はうんこしないからね」

「マジで」

「うそ」

「手伝ってくだせえよ、うんこ野郎ども」

 そんなわけで。大気中のマナ含有量が通常の十倍以上とも言われるこの地域は魔法使いたちの聖地として知られていた。

「イナ。ここってなんか楽しいところないの? この間の牧場みたいに」

「ねえよ。ひたすら岩山があるだけ」

「えー」

「この旅に楽しさを求めるな」

「それがイナのハンサム旦那、ヘルのド美人お嬢様。今はそうでもないんですよ」

「へー! どんな感じなの?」

「それは明日のお楽しみ」

「えー教えてよー」

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